2:鳥籠の住人 3

 懐かしい、夢を見た。

 兄たちが自分のために作らせた花畑を駆け抜けていく。ふたつおさげにした長い蒼色の髪が激しく揺れている。

 目指した先には大きな木が一本立っている。そしてその木陰で、兄たちが何やら話をしている。それに自分が参加していないことが気に入らない。

 ――兄さまたちずるい! シャムシャにもおはなしして!

 兄たちの顔立ちは幼い。まだ十三、四の頃だろう。自分も六つかそこらのはずだ。しかし兄たちはそんな妹をけして邪険にはしなかった。

 ――おいで、僕の小さな太陽。

 長兄が優しく微笑んで手を伸ばす。自分はそれに跳びつく。

 ――難しいお話だよ。遠い異国のお話だよ。

 ――ハー兄さまはむずかしいおはなしばっかりね。

 ――そうかな?

 ――でも、ハー兄さまは王さまになるんだものね。むずかしいこともたくさんわからないといけないのよね。

 ――そうだね。難しいことは全部僕がするよ。だからシャムシャは何にもしなくていい。シャムシャはずっと僕らの小さなお姫様でいていいんだよ。

 優しい兄が、大好きだった。

 ――ハー兄さま、だいすきよ。だから、ハー兄さまが王さまになったら、シャムシャを兄さまのおきさきさまにしてね。ぜったいしてね。やくそくよ――

「起きろ」

 低く鋭い声が甘い夢を打ち砕いた。

 シャムシャは目を開けて息を吐いた。

 ずっと夢の中にいたかった。何も知らなかった、幸せだった頃の夢の中に浸り続けていたかった。

「いい加減にしろ」

 布団を剥ぎ取られた。急に肌寒さを感じて、シャムシャはぼんやりとした頭のまま上半身を起こした。

 不意に髪をつかまれた。強い力で上に引っ張られた。シャムシャは思わず「いたっ」と叫んでしまった。

「女みたいな声を出すな」

 顔を上げた。蒼色の冷たい瞳が自分を見下ろしていた。シャムシャにはすぐには分からなかった。彼は、いったい、誰だろう。夢の中で、長兄の隣で「俺にもシャムシャを抱っこさせて」と駄々をこねていた次兄とはすぐに結びつかなかった。

「いつまでもだらだら寝ているんじゃない。誰のおかげで良い暮らしができていると思っている? たまには手伝うとでも言ったらどうだ」

 次兄は、気性の穏やかな長兄に比べれば確かに多少乱暴なところはあったが、それでも、自分に対してこんな物言いをしたことはなかった。

 何も答えられないシャムシャに、セターレスは数枚の書類を突き出した。シャムシャはおそるおそるそれを受け取り、一枚目をめくって見て、「何だこれ」と呟いた。

「妃候補一覧だ」

 血の気が引いた。「どういう」と言ってふたたび顔を上げたが、その先の言葉は出なかった。

 兄は笑っていた。

「好きな娘を選んでいい。ただし今月中にだ」

「でも」

 結婚できるはずがない。少年王シャムシアスは実在しないのだ。

 セターレスが鼻を鳴らした。

「どれも国内の貴族の娘だ。口封じは簡単にできる」

「そんなこと――」

「国民はラクシュミーの件で気が立っている。お前には早急に代わりの妃を見つけてもらわなければならない」

「だけど、」

 書類を握る手が、震える。本当は破り捨ててやりたいのにできない。セターレスの目が怖い。

「女同士だと子供を作れない。王家の血が絶える」

 そんなシャムシャを、セターレスは「馬鹿か」の一言で切り捨てた。

「妃はあくまで飾りだ。お前には別に種馬を用意してやっているだろう?」

 シャムシャは目を丸くした。

「ライルは叔母上の子だし、父親は北方の蛮族チュルカ人とはいえ一応王のひとりだ。ナジュムはフォルザーニー家の息子で、フォルザーニー家には過去に王女が何人か降嫁している。どちらも血統書付きだ」

 「あの二人はそんなのじゃない」とシャムシャは叫んだ。それがせいいっぱいの自己主張だった。

 セターレスはあっさりと一蹴した。

「あの二人が不満なら他にも探してきてやろう」

 下唇を噛んで泣き叫びたいのをこらえた。そんなシャムシャを無視して、セターレスは踵を返した。

「お前には色気というものがないから苦労はするだろうが、次の王の父親になれると思えば頑張る奴もいるはずだ。励め」

 シャムシャの反応を待たずに、彼は部屋を出ていった。シャムシャは見送ることなく、手元の書面へ視線を落とした。

 自分は、こうして、彼にされるがまま、この宮殿の片隅で民に疎まれながらひっそりと生きさせられるのだろう。

 右手に紙を持ったまま、体を折り曲げて自分の膝に顔を埋めた。

 ずっと、夢の中にいたかった。

「ハー兄様……」


 ライルとルムアは顔を見合わせて溜息をついた。昼食を取り始めてからずっとこんな塩梅だ。

「すみません」

 ルムアがぽつりと言う。ライルが「何がだ」と言ったら、「ナジュムさまとラシード将軍のように楽しいお話ができなくて」と返してきた。ライルはさらに重い溜息をついた。

「あいつらのあれは会話ではなくて漫才だ」

「でも、ライルさま、ナジュムさまがいらっしゃらなくてお寂し――」

「寂しくない。むしろこのまま二度と帰ってこなくていい」

 ルムアが口を尖らせた。ライルが「鬱陶しいから」と箸を噛んだ。

「俺の方こそ悪かったな、楽しい話ができなくて」

 ルムアは、大きな蒼い瞳を窓の外に向け、「どーいたしましょうねぇ」と一人呟いた。

 ルムアはシャムシャ付きの唯一の侍女だ。シャムシャが女であると知られることを懸念したセターレスがかつてシャムシャ付きであった女官たちを皆処分してしまったため、今はルムアが一人でシャムシャの世話をこなしている。しかしルムアはシャムシャを独り占めできると喜んでいて悲壮感はない。

 ルムアは慣例に従いいつもマグナエと呼ばれる布で顔を除いた頭全体を覆っている。禁欲的な長袖に長い裾の衣装も、伝統的なアルヤ人女性の民族衣装だ。市場に放しても何の違和感もない、どこにでもいるアルヤの娘だった。

 ただ、瞳の色だけが蒼い。

 セターレスは、シャムシャの周りで唯一ルムアだけは生かした。

 この国では女児には王位継承権がない。まして母親は奴隷女だ、ルムアが王族として認知されることはない。ルムアが生きようが死のうがアルヤ王国には何の影響もないのだ。

 そう判断したためだと、ライルも一応分かってはいるつもりだったが、自分の父親がこの世でたった一人だけ本気で愛した女性に産ませた異母妹だ、情けをかけたのだ、と、信じていたかった。

 ルムアの母親は、今、北の離宮で先王の下女を続けている。そのことについてルムアが言及することはない。

「ナジュムさま、戻られませんねぇ」

 ライルが「どこかで種蒔きに勤しんでいるんじゃないのか」と言ったら、ルムアが軽蔑をあらわにした目で「ライルさまのえっちぃ~っ」と言った。ライルが「俺が!?」と叫んだ。

 三つ目の声が響いたのはその時だ。

「なんということだライル、とうとう君が宮中で婦女子を襲おうとは!」

 扉が蹴破られたかのような勢いで開いた。高笑いも響いた。ルムアが表情を明るくしたのに反して、ライルは眉間にはっきりと皺を寄せた。

 入ってきたのは背の高い青年であった。完全に左右対称ではないかと思わせる面立ちは優美だ。彼の家が各国の美男美女を掛け合わせ続けた結果生まれた、普遍的な美というものを考えさせられる容貌である。輝くばかりの金の髪は無造作に下ろされていた。

 彼が歩くだけで空気が変わっていく。彼の歌うような声に反応して空気が華やいでいく。絶やされることのない不敵な笑みの尊大さは、見る者に根拠のない頼もしささえ与えた。

「ナジュムさまぁ!」

「やぁやぁ、待たせたねっ!」

 ライルは顔をしかめて黙った。ナジュムはその隣まで行き、当然のような顔をしてライルのために用意されたいちじくを取り、口にして、「まずまずだね」と評価した。

「しかしライル、落ち着きたまえ。いくら溜まっていてもルムアに手を出すのは感心しないね」

「誰がだ」

 ナジュムが「ライルさまのえっちぃ~っ」とルムアの真似をした。似ていたからこそライルは寒気を感じた。

「貴様なぜ帰ってきた? 実家が貴様の手も借りたいほどごたごたしているんじゃなかったのか?」

 ライルが非難めいた声で言う。ナジュムは「素直に僕がいなくて寂しかったと言いたまえ」と切り返してから、「事は片付けたよ」と答えた。

「まったくもう、うちの父上殿には呆れさせられるばかりだ」

「今度はどこの姫君と浮名を流そうとしていたんだ?」

「商売者だった」

「まさか、閣下はフォルザーニー家の権化みたいな美食家だぞ」

 「権化って何だい?」と口を尖らせた。「お前は父親似だ」と言ったライルの声と「ナジュムさまお父さまにそっくり」と言ったルムアの声が重なった。ナジュムは咳払いをした。

「相手が普通の子ではなかったのだよ。とっても特殊な子で、好奇心を刺激する、非常に興味深い子だったのだよー」

「親子どんぶりか?」

「そういう妄想には走らないんだよむっつりスケベめ。僕は女性にしか興味がない」

 一瞬、空気が凍った。ルムアが「とうとうそっちの道へ」とまで言いかけた。ナジュムがまた咳払いをする。

「聞いてくれないかい?」

「嫌な予感がするです」

「俺は微塵も聞きたくない」

「そうつれないことを言うのはやめたまえ! 聞きたいよね? 聞こう!」

 結局、ナジュムはライルとルムアの要望を無視して喋り始めた。

「我々にとっての味方はここにいる面々しかない。我々はたった三人で陛下の身の周りのことすべてを行なっているわけだ。特にルムア、君の負担は非常に――」

「というほどのことでもなく、ルムア的にはシャムシャさまを独り占めできてわりと満足――」

「重いよね!? 重いと言いたまえ!」

「ではそういう設定にしますねっ」

「というわけで、僕はその子を新しい仲間にすることにした」

 ライルは「はぁ!?」と半ば叫ぶように言った。ルムアに至っては「えええ」と絶叫した。ナジュムは誰も肯定的な返事をしていないのにもかかわらず満足げに頷いた。

「今ラシードに会っているよ。面接みたいなものさ」

「自分の父親の愛人でしかも男娼を仲間にする気なのか?」

「問題ない! フォルザーニー家が後見をすれば過去の経歴などなんのその!」

「だから、フォルザーニー家は、って言われるんだぞ」

 ナジュムは髪を掻き上げながら不敵に微笑んだ。彼は止まれと言って止まる男ではない。ライルは、諦めよう、と思った。早く切り替えるのもナジュムとうまく付き合うコツだ。

「何より陛下にとって良いお勉強になるだろう。陛下は本当の底辺をご存知ない。人間でないヒトというものがいったいいかなるものかとくとご覧になるといい!」

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