世間じゃ認めてくれない

 深水の義理の甥、恭輔が今年中学校に入学するという。

 彼は暗算が得意で、成績全般優秀である。いわゆる閃き型というか、勉強を教えることができないタイプである。誰かに勉強を教えようと思っても、相手の『どこがわからないかわからない』が理解できないし、『なぜわからないかわからない』のだ。

 スポーツはレスリングを嗜み、小学生にして腹筋が割れている。顔も綺麗なほうだと思われる。


 しかし、人間どこか苦手なものがあったほうが可愛いもので、恭輔も例外ではない。


 彼はすこぶる音痴なのである。なのに、歌うことは大好きでマイクを離さない。厄介である。

 挙げ句の果てに、幼い頃から、深水の夫の車に乗車すると必ず窓を開けて、大声で街に向かって歌っていた。しかも、即興である。即興すぎてなにを歌ったか本人は忘れてしまう。だが、夫はしつこく覚えている。


 一番思い出に残っているのは、恭輔が5歳のとき歌ったものだという。


『俺はぁバカだけどぉ頭はいいぃ。だけどぉ世間じゃぁ認めてくれないぃ』


 まだ小学生にもなっていない子が世間へのジレンマを抱えていると知った夫は、ジレンマではなく腹を抱えて笑ったらしい。真面目に悩む甥が可愛くて可愛くて仕方なかったのである。


 わずか5歳の少年が街に向かって咆哮した想いを聞いて、深水はなるほどと唸った。

 そうなのだ、剽軽でおバカさんで人気者の恭輔は、バカなことはやってもちゃっかり成績優秀である。夏休みの宿題を最初の三日で終わらせるような男である。しかし、可愛げがあるかときかれると、万人受はしないかもね、と深水は思うのだ。


 恭輔の母、つまり深水の小姑コハルさんは言う。


「頭がよければいいってもんじゃねぇんだ、人間はよぉ。人間の価値は勉強じゃねぇ。どんなにバカでも挨拶くらいできっぺ? そういうの大事にしろよ、おめぇはよぉ」


 さすが親戚の中で最も濃くおマサさんのDNAを受け継ぐ女と呼ばれているだけあって、猛々しい口調である。

 コハルさんは心の中では恭輔を誇らしく思っていても、彼が図に乗らないようにと、口に出さないようにしているのだ。なぜなら、恭輔はコハルさんが大好きで、褒められるとすぐに浮かれてしまうのだ。


 幼い恭輔が叫んだ『世間』という言葉は、つまり母親だったのかもしれない。子どもにとって母親は大きな世界なのだから。

 いつの日か彼が報われる日が来るといい。そう願う深水なのであった。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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