あんたにも怖いものあるの?

 深水は向こう見ずなのか思い切りがいいのかわからないが、とにかく一度腹を決めたら突っ走る傾向にある。


 以前働いていた薬局の上司で、孫もいる年代の男性がいた。

 この人は強い者に弱く、弱い者に強いタイプであった。小心者で粘着質、自分の勝手な価値観で理不尽なことを押し付けてくる、いわゆる『ケツの穴の小さい男』だ。


 ある日、その男性が守るべき部下に危険を押し付けて自分は逃げるという行動をとった。部下の一人が、客からストーカーまがいの行為をされていたのだが、危険が迫っている最中、自分だけさっさと帰ろうとしたのだ。

 深水はそのことでやんわりと「私も怖いですけどね、それでもここは社員が行動しなくちゃ」と間に入ったのだが、それを聞いた男性は目を丸くして言った。


「あんたにも怖いものあるの?」


 怖いに決まっている、と即答するような案件であった。それでも勇気と知恵をもって同僚を迫り来る危機から守らなければならないというときに、なにを言っているのだろうと、深水は心から呆れた。

 ただでさえ口もききたくない相手に、『今はその話をしてるんじゃないよ』と突っ込んで話を長引かせたくはない。心の奥で『あなたのような器の小さいくせに利己的な人間が一番怖い』と毒づいていた。

 結局、彼は知らんぷりを通して、定時で帰ってしまった。貧乏くじをひかされた深水はいまだのそのことを根に持っている。猫は嫌なことをされると死ぬまで覚えているというが、それよりもしつこいのが深水である。


 本当のところは、深水がもっとも怖いと思うのは『死』である。

 死にたくない。死ぬのが怖い。次の瞬間から無になると考えるだけで空恐ろしい。息子たちを出産してから、その想いは強くなった。もっともっと彼らを見守っていたくなったのである。


 しかし、それと同時に生き続けていくにしたがって老いることも怖くなる。体の自由がきかなくなり、誰かに迷惑をかけてしまうのではないか、孤独に苛まれ、もしかしたらあれほど怖いと思った『死』を待ち望むようになるのではないだろうか。


 そんな深水に、北海道の母は言う。


「あんたは先のことをあれこれ無闇に心配して不安になってしまう癖があるのよ。なるようにしかならないんだから、どんと構えてなさい」


 この母は「妻にしろお母さんにしろ、女は家庭の中で常に太陽でいなきゃダメ」と、深水に教えた人である。

 母の教えは「金は貸したら捨てたと思え」や「がん治療は1%の望みでも捨てるな」といった実用的なものばかりである。

 ケツの穴の小さい上司に「いやぁ、あんたでも怖いものがあったなんて」と笑われるのは、この母の性格に似たからではないかと思う今日この頃である。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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