チェリストの住む森

 深水が一番好きな楽器はチェロである。

 20年以上バイオリンを習ったのも、そもそものきっかけは『本当はチェロを習いたかったが、近くに教室がなかったから似たような楽器を選んだ』というものだった。


 大人になってから念願叶って札幌交響楽団所属のチェロ奏者に師事できたものの、諸事情で長くは通えなかった。今の住居がアパートでなかったら、独学でもチェロを弾いているに違いない。


 音色がとにかく、たまらなく好きなのだ。弦楽四重奏でもチェロばかり目で追ってしまうし、耳もチェロの音を拾おうとする。曲の主役にもなれ、脇役にもなれるチェロの懐の深さが好きでもある。


 おまけに男女問わずチェロを弾く姿は、深水の心を惹きつける。楽器の向きはコントラバスと同じだが、椅子に座っているのがいいのだ。バイオリンも椅子に座って演奏することがある。しかし椅子に座っていればいいというものではなく、チェロにはバイオリンにはないものがある。


 後ろからふわりと恋人を抱きしめるような姿勢と腕のライン、それに少し俯き加減になる視線がいいのだ。その腕の回し具合が包むこむようで素晴らしい。

 おまけにバイオリンとは違って顔の角度が自然なので、チェリストが音楽に陶酔する表情が映える。俯き加減でも、上向きでも、そこにはエロティシズム溢れる艶美さが漂う。


 そんな視点で見られていると知れば、ほとんどのチェリストが不気味がるだろう。深水は変態の域に達する勢いでチェロを盲目的に愛している。自分のチェロを持てたなら、毎日話しかけるだろうし、一緒に寝るかもしれない。


 チェロの曲を聴くとき、深水は時間を忘れる。曲そのものを味わい、演奏者に思いを馳せ、そしてまた曲の中へ意識を飛ばす。


 それはまるで深い森を歩くようなものだ。

 まだらにこぼれる光もあれば、雨の日もある。苔むした道で澄んだ空気を吸い、清水のせせらぎに渇きを癒す。

 そんなチェロの曲でできた森のあちこちで、チェリストが恍惚とした表情を浮かべているのに出会う。深水はうっとりと見惚れ、そしてまた音楽の森を彷徨う。


 チェロをまた弾けるときはくるのだろうか。

 大切な人にするようにチェロに腕を回し、松ヤニの匂いを吸い込み、弦を指でなぞる日はいつになるのだろう。


 興味を覚えること、心が惹かれること、挑戦したいこと、そういったものに出会えること自体、一種の奇跡なのだ。『これをやりたい』と感じることがあれば、多少無理をしてもできるときにしておくこと。息子たちにそう伝えようと深水は誓っている。

 

 何故なら、彼女はチェリストの住む森を知っているからだ。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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