逃げ道は強さの証

 深水はなんでも顔に出るタイプだ。

 しかし出産してからは愛想笑いの重要性を知った。というのも、街に出ると見知らぬ人から育児にあれこれ口出しされる機会が増えるのだ。


 それが「可愛いね」とか「何ヶ月ですか?」程度の会話だったらいいが、「帽子もかぶらないで寒いでしょ」だの「母乳なの?」といった、いわゆる『お節介』が多い。


 母親にしてみれば事情も言い分もある。帽子をかぶらないのは子どもが帽子嫌いですぐにとってしまうからかもしれないし、母親も忘れたことに気づいていて「しまった」と思っているかもしれない。母乳にこだわるのは自由だが、そんなもの赤の他人が知ってどうするのだろう。


 厄介なのが、まっすぐ母親に声をかけてくれれば答えようもあるものの、かなりの確率で子どもに向かって話しかける。そして母親が答える前に言うだけ言って去っていく。

 なぜ、まだ「ママ」も言えないような月齢の子どもに「帽子なくてかわいそうにねぇ」などと話しかけて言い逃げするのか。取り残された深水はよく「私に言えばいいのに。今のは嫌味か」と、ゆきばのない想いをした。まるで母親失格だと言われたような気がした日もあった。


 お節介をやくのは育児経験のある中高年の女性が多い。育児は世代とともに常識も移り変わるのだが、子どもを育て上げた経験が自信と常識となって彼女たちの正義をゆるぎないものにする。悪気はなくても、どんなに正論でも、物は言いようで正義は暴力にもなる。


 だが、稀に子どもに話しかけたあとで母親にも言葉をかけてくれる人もいる。そうすると一気に嬉しくなる。

 母親への一言だけでお節介は親切に変わるのだから、人間は多くの場面において印象に左右される生き物だ。

 いや、そもそもそれが会話の基本の形であり、どんなに親切でも言い逃げだと正義で辻斬りすることになりかねない。言い方ひとつで主観の押し付けに映るのなら勿体無い。


 他者に指摘したり叱るとき、逃げ道を用意してあげられる人は、痛烈に責めるより、嫌味ったらしくひけらかすより、はるかに余裕に溢れて人間性の強さを誇示しているような気がする。いうなれば相手が『器が違う』ように見えるのである。


 人間は猫と違って言語を操るが、そのくせややこしく、ときに不器用だ。もしかしたら猫のほうが言語をうまく使いこなせるのではないかと笑ってしまう。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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