マイルスのごとく魚を焼け

 深水は左側の首から体を洗い始める。左という向きは無意識のうちに決まっていて、右から洗うことは滅多にない。


 向きといえば、彼女は夫と暮らし始めた頃、しょっちゅうグーグル先生に『魚 どちら側から 焼く』などと質問していた。


 深水は魚が好きではない。幼い頃、父が振舞ってくれた実にぎこちない魚料理のおかげですっかり苦手になってしまった。親の心子知らずというものである。

 そのせいで、自炊歴は長いが魚を焼いたことがなかったのだ。魚焼きグリルなど一度も使ったことがなかった。

 夫のために魚を焼こうとしたときが、初めて魚焼きグリルと向き合った瞬間だった。


 どれくらいの火力で何分ほど焼けばいいのだろう。もう少し焦がしたほうがいいのだろうか? 良い焼き色だと思っても、もしかして中が生ではないだろうか。ではどうやって生焼けか確かめればいいのだ?

 そんな不安と戸惑いが襲いかかる。しかしそうしているうちにもノンストップで火は魚をがしていきながら、じりじりと深水をらす。


 四苦八苦してやっと焼けたと思ったら、今度は頭をどちらに向けて皿に置けばいいのかわからない。

 そしてグーグル先生を再び召喚し、『焼き魚 頭 どっち』と、尋ねるのだ。


 そんな彼女でもさすがに三年ほどたつと、魚に火が通ったか心の眼で見極められるようになった。

 焼き加減を感覚で把握できるようになった頃には、いちいち向きを考えずに自然に魚を盛りつけられるようになっていた。昔、薬局に勤めていた頃、常連客が「人間、なんでも慣れよ、慣れ」と笑いとばしていたが、まさにそれだと思う。


 ジャズの帝王マイルス・デイヴィスは「すべて学び、そして忘れろ」と言った。

 楽器の演奏も料理のコツも、感覚に叩きこむまで練習の繰り返しである。しかし、無意識にしみこんでしまえば、こちらのものだ。アドリブだって思いのままである。

 まさか魚を焼きながらマイルスに想いを馳せる日がくるなど、夢にも思わなかった深水である。


 夫は筋金入りの魚好きで、焼き魚も絵に描いたように骨しか残さず、美しく食べる。小学生の頃、北陸の漁師に「魚を食べるのがうまい」と褒められたほどだ。

 彼が独身時代に「結婚するなら魚を綺麗に食べられる人がいい」と言っていたのを、深水は知っている。

 それがどうして魚嫌いで秋刀魚の食べ方もわからない深水と結婚することになったのか不思議でたまらない。深水が小骨と格闘するさまはまるで手術中の外科医であり、解体作業が終わる頃には魚もすっかり冷めている始末だ。


 そういうわけで、脳内に住むとはいえ、私も猫のはしくれだが滅多に魚にありつけない。

 しかし、匂いだけはよく嗅いでいる。自分は食べなくても、夫にはなるべく魚を出そうと思うのである。特に彼が疲れた顔のときや、夜勤明けは魚料理を優先させるのだ。


 嫌いなものでもなんとか歩み寄ろうとした努力は意外と伝わっているもので、夫は「魚嫌いなのに、魚を焼いてくれるだけありがたい」と、焦がしても文句ひとつ言わない。


 以前、酔っ払った知人は「夫婦には共通して好きなものが一つでもあればいい」と語っていたのだが、深水は「無理なく譲り合って歩み寄れるものが一つでもあればいい」と思う。もっとも、この夫婦の場合は『猫』が一番のかすがいなのだが。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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