第44話 再会

 次の日、朝食を三百キロカロリーほど減らして、部屋を出た。

 マキノさんはいつものベンチに座っていたが、そこには初めて見る光景があった。膝の上に小麦色の猫をのせ、額からお尻にかけて何度も撫でてやっている。

「おはようございます」

「おはよう。こいつだよ、きれいな毛並みだろ」

「やっと会えたね。はじめまして」


 ニャーァ。


 マキノさんの右隣、猫が顔を向けている側に座って声をかけると、猫が反応して鳴いた。鳴き声は、鳴き声として聞こえた。僕のことをしっかり見ている瞳は、真紅のバラのように赤かった。マキノさんの胸で隠されていた右耳は、先が内側に丸まって穴を塞いでいた。明らかに、強力な糊のようなもので貼付けられ、耳の付け根あたりも赤く腫れているようだ。。


   やっぱり……。


 マキノさんは猫を両手で持ち上げ、立ち上がってベンチの上に移した。

「また来るよ」

 猫にそう声をかけて、マキノさんは歩き出した。

「さあ、行こう。腹が減った」

 僕は彼のあとをついていった。ふと気になって、後ろを振り向いた。猫もベンチから下りて、ついてきている。

「なんかあの猫、ついてきてますよ」

「好きにさせればいいさ」

「あの猫、耳どうしたんでしょう?」

「んー、誰かにいたずらされたんだろう。初めて会った時からああだったよ」

「あれじゃ汚れが溜まったり、バイ菌が入って病気になりませんか?」

「ときどきすきまから、綿棒で掃除してやってるよ」

「そんなことまで……」

「恥ずかしい話、病院に連れてってやれるほどの余裕はないんでな」

 マキノさんは前を向いて歩きながら、力なく言った。僕は道すがら、何度も振り向いて猫を確認した。結局猫は、マキノさんが案内してくれた店までついてきてしまった。

 僕はその猫を『耳塞』と名付けた。



「さ、ここだ」

 昔ながらの喫茶店、木製で落ち着きのある扉をマキノさんが開けた。

 カランコロン

 爽やかで、軽やかな鐘の音が店内に響いた。ことごとく鐘の音に縁がある。カノウ先生の病院、リレーションと同じだ。


   あ、マスターのレッド・イヤーが、また飲みたくなった……。


 店内に入る前に、僕はもう一度振り返った。耳塞はそこにいた。

「いらっしゃい。おはよう、おじいちゃん」

「おはよう。お客さん連れてきたよ」

「おじいちゃんだってお客さんよ。いらっしゃい。どうぞ入って」

 扉を開け放していた僕に、二十代の女性が声をかけてくれた。鐘の音にシンクロする、爽やかで軽やかな声だ。

「あ、いや、猫が……」

「ああ、ビスケね。あとで何かあげるわ。さ、いいから座って」

 この名前も以前に聞いた。そういえば、耳塞は『ビスケ』、無種の毛色と似ている。この猫が僕の代わりに、誰かの心を浄化する。


 店内には二人掛けのテーブルが二卓、四人掛けが三卓、カウンターに六つの席があった。内装もほとんどが木製で、扉と同じく落ち着いた雰囲気、懐かしさを感じる店だ。派手な装飾品などはないが、古き良き時代の趣を漂わせている。

 僕たちの他に客はなく、マキノさんは四人席のテーブルにゆったりと座った。

「おじいちゃん、いつものモーニングでいいの?」

「ああ、二人分な」

 オーダーを取ってくれた彼女は、モノトーンの洋服に身を包んでいる。流行のメイド何とかではない。店の雰囲気によく馴染む、凛とした身なりだ。カウンターの中では、三十代くらいの男性がサイフォンでコーヒーを入れている。芳ばしく、甘みも含んだような独特な香りが鼻を刺激する。朝食を少なめにしたおかげで、程よく食欲がわいてきた。

 彼女が水を出してくれた。最初は僕に、二つ目をマキノさんの前に置きながら、彼女が言った。

「おじいちゃんこんなイケメンと、いったいどこで知り合ったの?」

 マキノさんの返事を待たずに、彼女は扉から出て行ってしまった。トレイには二つのコップのほかに、小さくちぎったパンの耳がのっていた。ビスケにあげに行ったのだろう。

「お孫さんなんですか?」

 僕はマキノさんに訊いた。

「いや。あの子とは血は繋がっておらんよ」

「でも、おじいちゃんって」

「あの子は孤児でね。お互い違う街から引っ越してきて、ここで知り合ったのさ」


 カウンターの中の男性はポコポコと音をたてるサイフォンの横で、きびきびと二人分のモーニングを作っている。こちらに背を向けて黙々と手を動かし、僕たちの話には反応しない。彼女とマキノさんの間柄を知っているのか、それとも、客の話にむやみに入り込まない店主としてのわきまえなのか。

 どことなく面影がある。孤児だった彼女、ビスケという名の小麦色の猫は単なる偶然か、それとも、彼女は僕を天使と言ったあの少女、アカネなのか。


   過去に関わった人との再会なのか……。


 そうだとしたら、彼女が僕の顔を思い出さないことを願う。

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