第2話




目が覚めたのは、昼すぎだった。大爆睡。

休みとはいえ、寝すぎると次に朝起きるのがしんどくなる。それに夕方までグダグダ寝ていると、1日がそれだけで終わってしまう。焦って起き出して、長く伸ばしている髪がべたつくので思い出して風呂に入った。

が、それが終わってしまうと休日にやることは特にない。

今住んでいるところへ引っ越してきておよそ1年が経つ。何人か知り合いや友達はいるけれど、みんな一般職や主婦として忙しく日々を送っている。それもデパートは客商売だ。土日出勤は当たり前、平日が休みである私は彼女らと休みの予定が合わない。

となると、やはり1人。どうも家から出ていく気にならず、結局引きこもって1日を終えてしまうこともざらだ。

部屋の明かりもつけないまま、寝て過ごす金曜日はまさに「ブラックフライデー」。寺島さんが昨日言っていた横文字を不意に想起する。気になって意味を調べてみたら、アメリカでいうクリスマス前に需要の高まる商戦日のことらしい。

もちろん本来の意味合いは違うだろうが、働いている側からしても忙しい忙しい文字どおりブラックな金曜日。他の従業員の方々には申し訳ないが、今日が休みで良かった。

しかし、このまま家で過ごしているのでは私もブラックなのは変わらない。思い立った時に動かなかったら、「後で」は起こりえない。

朝ご飯兼昼ご飯を一昨日の作り置きで済ませる。そのあと、最低限の化粧と服装で身を装い家を出た。

「……寒い」

家からの一歩目、最初にこうひとりごちたのは、思わずだった。

外気の冷たさは、着込んだコートやセーターをもすり抜けて、身体を芯から冷やす。日があるうちでこれだ。夜はもっと冷え込むのだろう。

私が明太子に一杯一杯のうちにも、着実に季節は進んでいるらしかった。

そう思うのは、こうして休みの日に1人で出掛けるのが、思い出せないほどの前のことだからだろうか。たぶん前の仕事をしていた時以来だ。

今からおよそ4年前、名門私立・4年制の大学を出た私は、すぐに今の仕事に就いたわけではなかった。時は、不景気の真っ只中。厳しい採用選考ながら、夏までに内定をいくつか頂いて、その中から一番の大手を選んで就職した。

特に自分から行きたいと思う理由のある会社ではなかった。敢えて理由を挙げるなら、東京のオフィス街にビルが構えてあったこと。

あとの理由は「そうしなければならないから」「それが当然普通のことだから」、という消去法だった。

みんなと同じように就職して働いて。それから、大学の分ちょっとだけ周りよりも良いところに勤められたら。

それだけの、いわば浮わついた気持ちだった。そんなことでは、残業もざらのきつい仕事が続くわけがなかった。2年勤めたところで、行くあてもないのに離職。あまりのきつさに、後先考えずに動いてしまった。

しばらくして再就職先を探したのだけれど、入社してすぐに辞めただけの女を雇ってくれるところはなかった。しかも、世間は2年前よりさらに大きな不景気。結局新たな職が見つからないまま、その年はアルバイトをして明かした。見事なまでの逆シンデレラストーリーだった。階段を転げ落ちて、落ちて。

そんな時にたまたま出会ったのが、今の職・明太子の売り子の求人だった。腐っても私とて四大卒。学を積んだ分、希望は別にあった。それに、当時不祥事だらけの食品業界へのイメージもあまり良くはなかった。

だけれど、それ以上になりふり構っている余裕がその時はなかった。一刻も早く糊口をしのぐような生活から、抜け出したい気持ちが勝った。職を選んでいたら、今年も零細バイトで食い繋ぐフリーターだ。

すぐに電話をして、面接を受けた。いかんせんそれまでと業種が違ったものだから、なにを言えばよいのか分からず「明太子が好き」と伝えるだけの出来の悪い面接だったが、なぜかとんとん拍子で採用が決まって、今に至る。人生分からないものである。

だから拾ってもらった恩、多少の不満があっても今度ばかりは簡単にはやめられない。やっと明太子と付き合っていく生活にも慣れてきた。最初は気にした全身につく魚卵特有の匂いは、今やもう気にもかからない。

しかし、やはりまだまだ悩みは尽きない。それまで私がいた場所とはあまりに環境が違いすぎた。慣れたとは言っても、未だに残る抵抗は深い根を私の深層まで下ろしている。どこかにこのままではよくないと諭してくる「私」がいて、そいつが常に私を見張っているのだ。

「お前よりずっと下の人間だ。関わる必要もないのに、なぜよもやそいつの下について働かねばならぬのか。お前はエリートではなかったのか」、と。「私」は悩む私にそう語りかけてくるのだ。

そう、彼女はたぶん昔の私だ。

つまりはまだ現状を認めたくない自分がいて、理想との大きな狭間、ことあるごとに今の私とせめぎ合う。

「丸の内のオフィス街でOL勤め、適度な休みを貰って快適生活。銀行員の男にでも見初められて、28ぐらいで結婚。一旦仕事を辞めて、30代で職場復帰。仕事と家事を華麗に両立」

こんなことが出来ると昔は本気で思っていた。仕事には本気でないのに。

自分に自信があったわけじゃない。むしろそれは逆なくらい。それでも肩書きだけはあった。そんなことは、当然できるものと信じていた。そこからの上積みがあるかないか。

かけ離れたところにある目の前の現実と、自らへのエリート幻想。

その幻想がいかに狭い価値体系の中での話か、今の私は身を以て分かっている。けれど、分かっているのとそれを振り切れるかどうかは別問題だ。きっと私が死んで消えてなくなるまで、「私」はずっとついてまとうのだろうと思う。もしかしたら、死んだ後ですらも私が眠る棺桶に向かって「こんなところで寝ていて良いのか、向こうにもっとよい墓場がある」と囁きかけてきたりして。


凍えながら家から10数分歩いて、最寄り駅前に到着する。

普段から通勤でも利用している駅で、特急は止まらないけれど準急は止まるという程度、中途な大きさの駅である。ここからデパートがある終着駅までは一駅先のターミナル駅で特急に乗り換えて、20分。都合、待ち時間なども入れて、通勤時間は40分になる。少し遠いけれど、終着駅近くはいかんせんアパートの家賃が高い。

薄給な私の収入で賄える限界が、この駅の郊外だった。駅まで行かずともスーパーやコンビニがあり、銭湯もある。加えて、物価も安い。生活していくには困らないだけの利便性に惹かれた。

けれど、生まれ故郷とは全く縁もゆかりもないこの土地に、他に特段の思い入れがあるわけではない。家と駅との間のルートは大通りを通る一本しか知らないし、行きつけの料理屋もない。強いて言うなら、夜遅くなって自炊をする気になれないときに駅構内の弁当屋に寄るくらいだ。

そんなだからだろう、いつも使っているはずの駅なのに今改めて見てみたらまるで違う駅かのよう。

いつもは目もくれず、足早に通り過ぎて見落としていたのだろう。ここらの昔の藩士の石像や、左右非対称かつ洒落たレンガ風の建がまえ、その少し外れにある噴水や時計台。

どれもが新鮮な感覚で、私の目に飛び込む。

まるで見知らぬ土地に来たよそ者の気分だ。歴史好きである私は、つい藩士像に向けてカメラを構える。こうなると、もう周りからは旅行者にしか見えないだろう。

駅前でこうなのだから、少し離れるともうさっぱり。辺りを歩いてみようと気まぐれに思って、踏切を線路の反対側へ渡る。こちら側は電車の中から通りざまに見るくらいで、本当に未知数だった。

ぱっと見た感じは、ただの住宅地だった。家が立ち並ぶだけで、コンビニもない。

しかし、奥の方から男の人が叫ぶ声が聞こえたので足を向けてみると、

「お。お姉さん、いいところに来たねー。今ちょうど今朝採れたての白菜が手に入ってねぇ。甘いよー、1つ買っていかないかい」

「……えっと……」

一番手前の八百屋を皮切りに、奥に向かってアーケード商店街が続いているのを見つけた。私は急に話しかけられたものだから、返す言葉に窮する。

「迷ったなら、買う。お試し分だ、安くしとくよ?ついでに大根もつけようか。これは、昨日の残り物だけどな。はっはっは」

店主らしき人物は1人で喋って、1人で笑う。こういう人が私はあまり得意ではない。自分のペースを乱される気がして、どうしても一歩引いて身構えてしまう。

「白菜も大根も冷たい中で育つからねぇ。その分身体をあっためてくれる効果は絶大だよ。今夜は冷えるらしいし、白菜おろし鍋でもどうだい」

「えと、……また今度お願いします。今から予定があるので」

私はそれだけ目も合わせないまま言って、早足で店の前を通り過ぎる。逃げ足だけは早いと自負している。ものの2年で仕事を辞めたくらいだから。

あぁは言ったが、言い訳であって本当は予定なんてない。することもないし都会まで出ようかと、ふらりと家から出てきただけなのだから。それも早速、商店街を歩いている時点でぶれている。どれくらいの時間、外にいようかも特に決めていない。

ただ、これから野菜を手に提げたまま歩くのは実に非効率的だ。それにあれ以上、あの弾丸トークに付き合ってはいられなかった。あんな宣伝が出来るのは、地元の顔見知りやお得意さまばかりの八百屋特有だろう。

私が格式高いデパートで同じように、

「そこのお母さん、いいところに来ましたね! 明太子どうですか、絶品ですよ。今朝博多から直送! これが美味いんだぁ。寒い冬だからねぇ。ビール飲んで、明太子つまんで身体あっためないと! 初回特典で、今なら小さい明太子もつけちゃう」なんてやったところで、デパートの常連客のような層には受けない。むしろ、引かれてしまうと思う。明太子にも、明太子しか付けられないので抱き合わせ販売にはそもそも不向きだ。


商店街の奥へあてもなく進む。初めて見る商店ばかりなので、左右を交互に見ながら吟味するようにゆっくりとだ。

まず驚いたのは開いている店の量だった。商店街というと、今や中心街にあるものですらシャッター街と化しているところが多い。

だのに、この商店街は違った。

人通りは一定量あり、シャッターを下ろしている店のほうが少ない。俗に言う「活気」が感じられた。

そして、次に驚いたのはクリスマス一色だったこと。

頭上高くに取り付けられたスピーカーからは、毎年耳慣れたクリスマスソングがメドレーで流れる。そのすぐ下にはアーチ状の電飾やリース、サンタやトナカイの描かれた広告が大きく釣り下がっている。

各店舗の飾りつけも、大半が赤と緑のクリスマスカラーだ。セールをしているブティックや食料品店なら分かるが、ほとんど関係ないであろう小さな床屋や塾までもがそうなのだからびっくりものである。

たぶん、商店街をあげてのクリスマス大売り出しなのだろう。

老舗らしい餅屋の前にまでツリーが置いてある徹底ぶりだ。さすがに水と油、店の雰囲気とはちっとも合わないのだけど、周りに合わせようという努力だけは感じられる。

普段は餅を捏ねている、慣れない手で飾りつけたのだろうツリーは、他と同じつもりだろうがオーナメントがベルばかりでどこか独特。店頭に置いてあるセール商品は、よもぎ餅と海老餅。クリスマスというより正月である。そして極め付けは、奥にでんと構えて一言も発さない店主。強面なのに頭の上だけは、陽気な赤と白のサンタ帽が乗っている。見方を変えたら、紅白帽だ。

だが、こういう店は嫌いじゃない。アンバランスなものにこそ、惹かれてしまう。

それはたぶん、私もそうだから。

臆さず一声かけて、買う予定のなかった餅をいくらか購入する。野菜と違って、小さいので鞄の中に入れておけば邪魔にもならない。明日の朝は、一足早いけれど餅で決まりだ。

いい買い物をした気になって、気分は上々。足取り軽くさらに進む。

この商店街、意外や長かった。一旦横断歩道で途切れだと思っても、まだ続く。奥の方には、私も見慣れたチェーン店舗も多く立ち並んでいた。

都会人間である私からすれば、どこにでもある店舗こそ懐かしいように感じるもので。一度緩んだ財布の紐は、締めてもやはり緩む。巷にありふれた喫茶に吸い込まれるようにして入った。

コーヒーで一服でも、と思っていたが、入った途端に甘いものの気分になった。少し迷ってからバニラフラッペを頼んで、窓際の席に着く。外にはテラス席もあるが、今は寒いから誰もいない。

足を組んで、一つ飲んだらカップを置いて息をついた。

ここにノートパソコンでもあれば、形だけは昔憧れた立派なOL。

しかし厳しいかな。財布にいくら残っているか、小銭まで細かく確認しているのが現実である。締めて残り5000円。

バニラフラッペは、小さなサイズでも500円近くする。月末の給料日まではあと少しだ。だからこそ、懐は決して温かくない。それまで今手持ちの現金だけで凌ごうと決めたのが、数日前だ。急に決めた外出だったから、そこまで考えが及んでいなかった。それをフラッペを買うときになって思い出したのだ。

家にある食材次第だが、最悪の場合さっき買った餅で数日ということもあり得る。

考えなしに買ってしまったフラッペを少し恨めしく見る。7割近くが氷だのに、500円は割高過ぎる。実質、原価は10円もしないだろう。カフェのメニューはそういうものが多い。

では残りの490円分は?それはたぶん滞在代だと思っている。落ち着いた店舗で、気の休まる時間を過ごす。これは実際価値がある。今もそう、出掛けて行って休憩に入るには最適だ。

じゃあテイクアウトは、お金の無駄?

いやいや、一概にはそうとも言えない。これは誰かに聞いた話だ。

背伸びをして、身の丈以上の買い物をすること、それ自体に意味があるそうだ。喫茶のイメージに自分を重ねて、本来の自分より格好のついた気になれる。

そのイメージは、「デキる女」「オシャレな女」。だから、カフェの店員はそういう人が多いでしょうと。

これはなんとなく寺島さんの格好つけ言動に似ているなと思う。人のことをあんな風に思っておいて、結局私も本質は同じ。自分を飾りたい、貧相でみすぼらしい私ではなく、できれば素敵な「私」でありたいのだ。

財布を後ろポケットにしまって、フラッペを飲む。ゆっくり飲まなければ、すぐに無くなってしまう。少し飲み進めたところで抑えて、テーブルに置いた。

素敵な自分でいるのは大変だ。金銭、振る舞い、その他なんでも色んな努力がいる。その努力を無駄だと思い出したら、人間そこからやつれていくのだと思う。それに拘泥し過ぎるのもまたどうかとは思うが。

その点、今の私は踏み止まっている。ぎりぎりどうにか。

私の横をスーツコートで身を固めた男の人が通って行く。彼はこの寒いのにテラスに出て、なんのことはなく席に着いた。

あれこそ、「自分飾りたい!」意識極まれりだ。コートのファスナーを限界まで上げ、巻いたマフラーに顔を埋めている。とっても寒そうなのに、引き返そうとはしない。

あそこまで厳格には、私には出来ない。

彼はコーヒーを吸って、白い息を吐く。見ていたら、どうもその顔はどこか見覚えがあって。

今会いたくない人に順序をつけるなら、ぶっちぎりで第1位。寺島さんだった。

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