『吸血鬼』の愛海

 目の前にひろがる白銀はくぎん原野げんや。風のないそらから大粒にそそぐ雪のしずく。

 抱えた手のなか――血をながし、ゆっくりと命をとじていく野ウサギの子。

 つもった雪に足をとられながら、不器用にちかづいてくる人影。

――大好きなママ。探しに来てくれたことがうれしくて、ぶんぶんと手を振った。


 ここはわたしの記憶の世界――歌う鳥に掘り起こされた夢。

 もう戻ることのできない場所。

 胸に秘めたまま変わることのない、わたしの原風景げんふうけい

 


「どうして殺してしまったの?」

 あと三歩ぐらいの距離で立ち止まって、ママがわたしにたずねる――いつもわたしを見つけると、すぐにぎゅっとしてくれるのに。

「だって、この子が逃げるんです。せっかくパパがくれたのに」


 せっかくふわふわのもこもこでかわいいのに、抱きしめさせてくれなかった。

 わたしは仲よくしたいのに――おびえた目で見られると、なんだか苦しいきもちになった。

 そんな子なら、いない方がいい。


「そう。……

 悲しそうな目をしてママが言う。わたしではなく、どこか遠く――わたしの後ろにある何かを見ているみたいに。

 心にぽつりと浮かぶ不安――もしかしてママは、わたしを嫌いになったのかも。

 その気持ちはとたんに大きくなって、胸の内側でぐるぐると回りだす。


「や……ママ、ごめんなさい……」

 何がわるいのかもあまりよく分からないまま、わたしはママに謝った。

 ママに捨てられたくなくて。ちゃんとわたしを見てほしくて。

「ごめんなさい、ママ。言うとおりにしますから。お願いです、嫌いにならないで」


 こぼれた涙はすぐに冷たくなって、わたしの頬をひやりと撫でる。

 ママの温かい手が、ていねいにそれをぬぐってくれた。


「大丈夫だよ愛海。不安にさせてごめんね」

 ママがわたしを抱きしめる。背中をとん、とんと優しく叩いてくれる。


「もちろん、むやみに生き物を殺すのはよくないことだけれど……ママはどんな時でも、あなたを嫌ったりしないから」


 ああ、この人はきっと、なにがあったってわたしの味方でいてくれる。

 そう思うと、なんだか甘くて柔らかくてくすぐったいものに包まれている気持ちになって、たまらなく安心する。

 このおもいを伝えることばを、わたしは知っていた。

「愛してます、ママ」

「ママも愛してる、愛海」


 わたしよりもずっと弱くて脆いはずの、大好きなママ。

 いっしょにいられる時間が何よりもしあわせで。

 ママがわたしを守ってくれるように、わたしもママを守りたかった。

 わたしが大きくなれば、きっとそれができるのだとおもった。



 ※※※



 暗闇の中を、光の粒子がはしった――コンクリートで形成された空間が露わになる。

 奥へと延びる道は、どこまでも続くかのように果てが見えない――少なくとも、少女たち四人の今いる場所からは。

「うわぁ……すごいね、瑞希ちゃん」

「すごいっていうか……ありえないでしょ、こんなの……」

 菅原苗すがわらなえの驚嘆と、前島瑞希まえじまみずきの唖然の声が、静寂の中に響いた。


「本当にこれ、わけ?」

「多分大丈夫ですよぉ。少なくとも8年前には、ちゃんと通れたって聞きましたからっ♪」

「はち……それ結構前じゃんか!?」

 能天気な愛海あみの声に、瑞希は思わず前のめりになって叫ぶ。

 命がけの逃避行、そのはずなのに――行動を共にしてからというもの、常時とぼけたような愛海と、冷静に見えてどこか間の抜けた感じの深雪みゆきに、調子を崩されっぱなしだった。

 刃のように冷え切った殺意を突きつけてきた、あの蛇男バジリスク――宗像聖二むなかたせいじと同じチームで組んでいたとは、とてもじゃないが思えないお気楽ぶりだ。


「今もし天井が潰れたらぶわーって海水が流れて、私たちみんな死んじゃうね」

「うわぁ、やめろよ苗そういうの……」

 手近な壁に反響したあとで溶け消える靴音が、空間のだだっ広さを感じさせる。遠大なスケールのもとを頼りなく歩いているという実感が、ぞっとしない想像をさらに駆り立てた。

 ここは青函せいかんトンネル。瑞希たちが生まれる前、本土と北海道を繋いでいたという海の下のみち――もしも怪物フィンブルが出現し北海道が放棄されていなければ、電車が行き来していたのだという。

 深雪からそう説明された時、思った――昔のひとはきっと、暑さで脳をやられていたのだ。


「怪物たちの侵入を防ぐために、トンネルは爆薬を使って封鎖された。でも、脇から延びる一部の通用口が、今でも塞がれないまま気づかれず残っている、だっけ」

「そう」

 瑞希の確認に、深雪が短く答える。


「なんで気づかれてないわけ? めちゃくちゃ危ないじゃん、それ」

「多分、現時点でトンネルを通って本土に現れたフィンブルの例が一つもないから。通路が残っているという発想自体がない」

「そんな誰も気づいてないようなことを、なんであんたたちが知ってる?」

「愛海が知ってたから」

「なんで、愛海サンは知ってたわけ?」

「んふふ、それはですねー……」


 もったいぶってから、いたずらっぽく愛海が答えた。

「……わたしが実は、とある国のお姫様だからなんですよ」

「えっと? あんた○○○○なの? ちゃんと注射打ってる?」

 瑞希の口から、思ったままに罵声が飛び出た。

「安定剤、嫌いなんですよね。たまにサボってまーす」

「冗談。私がちゃんと打たせてる」

 どこまで本気なのか瑞希たちにはまるで見当もつかない。勘弁してほしかった。


「あの、私すっごい不安になってきたんですけど」

「あたしも。この電波ちゃん、信じていいわけ?」

「大丈夫。信じていい」

 引き気味な苗と瑞希に、深雪が即答する。


「北海道なんかに行って、何をする気なのかも聞かされてないんすけど」

「信じて」

 もしかするとこの謎の自信こそが、今まで数多の人型ひとがたを狩ってきたということの秘訣なのかもしれないと思った。


「はぁ……まあ、どうせ何もしなかったら死ぬんだからいいんだけどね……」

「あはは……」

 顔を見合わせて溜息をつく瑞希と苗、眉一つ動かさない深雪の前を、

聖二せいじくんと陽彦はるひこくんも、早く来ないかなー♪ ふふふふ、ふんふーん♪」

 初めての遠足にのぞむ小学生のようなほがらかさで、愛海が先導する。

 

 北海道までの距離、およそ50キロメートル――代わり映えしなさそうな無人トンネルの陰鬱さと、脳みそお花畑めいた陽気さの両極端にサンドイッチされながら歩くのかと思うと、軽く眩暈めまいがしそうだった。

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厳冬のワイルドハント 霰うたかた @9_dokumamo

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