「クソが……なんだよ因数分解インスーブンカイって……パンチとかでバラバラにしろよ……」

 シェアハウス"白日荘しらびそう"の一階食堂――広げた教科書に顔を埋めたまま卓上に突っ伏した陽彦はるひこが、呪詛じゅそのようなうめきを上げた。


「陽彦は忍耐力が足りていない。先を急ぎすぎて基礎が疎かだから分からなくなる」

「お前さぁ、おれより前でつまずいてるのになんでそんな偉そうにできんの?」

「躓いてない。時間をかけて完璧に覚えようとしているだけ」

「二人ともすごいですよ、わたしわり算で止まってます!」

「あー、愛海あみはいいよ。そのままでいてくれた方が安心する」

「えへへ♪ 褒めてくれてるんですよね?」

「違う、アホ呼ばわりされてる」


 テーブルを囲んでわあわあと言い合う三人の姿に、家主やぬしたる中年女性――日向ひなた恵子けいこはくすりと微笑ほほえんだ。

 数年前まで、入居者の大学生たちがあんな風に駄弁だべりながら試験前の勉強をしていたのを思い出す。

 彼らがキャンパスの移転に伴って出ていってしまってからずっと、こんな騒がしさとは無縁だった。


「少し休憩したら?」

「……ども」「いただきます」「おいしそう! ありがとうございまーす!」

 焼き菓子とお茶を盆に載せて、卓へと運ぶ。

 フォークを豪快に突き刺して、愛海が一つ目のパイにかぶりついた。

 サクサクと小気味の良い音を立てて咀嚼そしゃくする。見ている方まで幸せになりそうなほどに顔をほころばせ、二口ふたくちでペロリと平らげる。

 遠慮がちにパイをつつく陽彦や深雪も、来た当初と比べれば幾分か表情が柔らかくなった。


 陽彦たちがこの家にやってきておよそ一月半――彼らは都市の治安を守るべく夜な夜な出かけるかたわら、こうして自主的な勉強にも励んでいる。

 社会に溶け込むために年相応の教養を身に付けておこう、ということらしい。


 恵子が彼らぐらいの歳の頃は、もっとずっと親や大人に甘えていた覚えがある。

厳冬フィンブルヴェト』が始まったのは、確かその頃だったか。当時から社会問題として取り上げられてはいたが、そのうち誰かが解決してくれるような気がしていた。

 ここまで長く厳しい時代が続くなんて、どれほどの人が予想できていただろうか。


「みんな、本当に立派ね」

 そんな言葉が、自然と口からこぼれた。三人が揃って恵子の方を向く。

「あなたたちが世の中を守ってくれているから、平和に暮らせているんだわ」


 恵子は快適な住環境を提供するように業務委託ぎょうむいたくされただけの、ワイルドハント社や政府機関とは関わりのない民間人だ。

 凍り付いた土地で、怪物の繁殖はんしょくを食い止めるために戦う少年兵たち――それは今まで、せいぜいテレビ越しの世界に見るだけの遠い現実だった。

 こんなふうに喋って、ご飯を食べて、明るく笑う、生きた人間としての姿をまるで想像していなかった自分が、なんだかひどく冷酷れいこくに思えた。


「あなたたちのことを頼もしく思うし、それ以上に申し訳ないと思う。どうして私たちが、代わってあげられないのかって」

「いや……そんなの、仕方ないじゃないっすか」

 理屈の上では分かっている。怪物フィンブルと戦えるのは怪物ワイルドハントだけ。怪物の力をその身に宿せるのは、発展途上の肉体を持つ若年者じゃくねんしゃだけ。

 けれど――他人をおもんぱかる余裕などない厳冬の世だとしても。大人が子供を守る、その一線だけは越えるべきではなかったのではないか。


 prrrrrr――にわかに着信音。深雪がポケットから連絡端末を取り出し、耳に当てる。

「……そう。二人とも一緒にいる。連れてくる」

 簡潔に二言ふたこと三言みことわすと、通話を切った。陽彦がパタン、と教科書を閉じる。

「聞こえた。仕事か」

「うん。聖二、外で待ってるって」

「ええーっ、じゃあ……急いで食べなきゃ!」

っ込むなよ、詰まらせるぞ」

「らいじょーぶれふよ……ッ、カハッ、コハッ!」

「落ち着いて」


 せる愛海の背中を深雪がさする。そんな様子を尻目に見ながら、陽彦はテキパキとコートやら何やら着込み始める。

「お菓子、うまかったです。晩飯も、楽しみにしてます」

 ぽつりと、目も合わせずに陽彦が言った。

 気を使わせてしまったのだろうと思う。けれど、そのことにまで突っ込むほど恵子も野暮やぼではない。

「行ってらっしゃい。気をつけて」

 美味しい料理を作ろう。部屋の隅々まで綺麗にしよう。柔らかい寝床を用意しよう。恵子が彼らにしてあげられるのは、きっとそれだけなのだと思った。



 ※※※



「う、ぁ……」

「おばちゃんが言うんだよ。おれたちが、立派だって。んな訳ねえよなあ」

 薄暗いアパートの一室――物憂ものうげに陽彦が呟いた。

 土足のまま踏み込んだ靴で、ひどく顔をらした男の背を踏みつけている。

 陽彦の嗅覚きゅうかく聴覚ちょうかくにかかれば、ただの人間を探すことなど訳もない。

 高齢夫婦こうれいふさいの家に押し入り、妻の足を折る重傷を負わせて金品を奪った男の、それが末路だった。


「……僕らは務めを果たしている。卑下ひげする必要はないだろう」

 押し入れを探っていた聖二が、金の入ったバッグを目ざとく引っ張り出しながら応える。

 他にも何か事件の臭いのする物が見つからないかと思っていたが、てが外れた。


「おれさ、どうしておれたちだけが苦しまなくちゃいけないんだって思ってたよ」

 聖二の言葉が届いていないかのように、陽彦は続ける。言葉のキャッチボールというよりも、ただ感情を吐き出す先が欲しいようだった。


「ワイルドハントに戦いを押し付けて、都会のやつらはのうのうと生きてるんだって思ってた。けど、たぶん違うんだ。みんな苦しんでる」

 たった一月半の間に、何人もの犯罪者を捕らえた。絵に描いたような悪者わるものなど、ほんのわずかしかいなかった。


 人生を変えるために金が必要だった。

 子供や老いた親の面倒を見るのに疲れてしまった。

 何もかも失くした者が、社会へのいきどおりを暴力に変えた。

 人が人を傷つけるとき、悪意よりも貧しさが根底にあった。

 そして富めるものは、貧する者の絶望に無理解だった。


「おばちゃんには、おれたちが悪者をやっつけるヒーローか何かに見えてるのかもしれないけど、やってることは弱いものいじめだよ。でもおれは、それをわざわざ言うつもりもない」


 温かくてやさしい味のスープがある。ふかふかできれいなベッドがある。

 明日死ぬかもしれないと思いながら眠らなくてもいい。

 自分がいつか自分じゃなくなることも、狂った自分が仲間を喰い殺すことも、恐れなくていい。

 少し前までは知ることすらなかった安寧あんねいを、今は手放すのがたまらなく怖かった。

「北海道に、戻りたくねえ」


「陽彦、お前は何も悪くない。僕に任せておけ」

 決意の感情を悟られないよう努めながら、聖二は言った。

 果たして陽彦の感覚を誤魔化ごまかすことはできず、耳と鼻をひくひくと揺らしていたが、深くたずねてくることはなかった。


(大丈夫だ。お前にできなくても、僕がやる)

 猟犬ハウンドとしての適性試験が完了するまで、残り二週間。

 ここまでの成績は問題ない。だが、猟犬たるもの飼い主に対しては絶対の忠誠を見せつけなければならない。

 先ほど下された悪趣味な指令を完遂かんすいしない限り、合格の芽はないだろうと思えた。


『基地を脱走し街に潜伏中のワイルドハント、二名を殺害せよ』

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