街灯がいとうの届かぬ、月光げっこうだけが細く照らすビルの隙間すきまみち――通勤つうきんカバンを大事に抱えた男が息を切らす。

 冷たい夜の空気が肺をすのも構わず、ぜえ、はあ、と音を立てて呼吸をし、あらんかぎりの力でけ続けていた。


「はっ、はっ、はぁっ、クソ……!」

 とんだ災難さいなんだった。「匂いがする」と、あの少年ガキは言った。

 そいつは狼の化け物に変貌へんぼうし、眼にも止まらない速さで売人ばいにん仲間を殴り倒した。

 りになって逃げた。狼野郎は、逆側ぎゃくがわに逃げたやつを追った。


 時折ときおりひび悲鳴ひめい――そして倒れるような物音。聞こえなかったフリをして足を動かす。心臓が早鐘はやがねを打ち、嫌な熱量ねつりょうが身体を内側からさいなんだ。

 どこまで逃げればいい――どこへ逃げればいい? 沸騰ふっとうする頭で無理やり考える。

 もう嫌だ、どうにでもなってほしい。その言葉が脳裏のうりに浮かぶのと、背中にチクリと痛みが走るのが、ほとんど同時だった。


「あっ……――?」

 瞬く間に広がるしびれ。アスファルトに顔から倒れ込んだ。手も足も動かない。


「たす……たす、け……」

「落ち着いて呼吸をしろ」

 ひどく冷たい、若い男の声だった。おそらくあの狼野郎の仲間だろう。


「なん、で……ちく……しょ……」

 ヒュウ、ヒュウと息をする。絞り出すように声にした。

「分からないとは言わせない。カバンの中の薬が、どれだけの人間の人生を台無しにしてきたか」


 ふざけるな――そう叫び返すための空気が、肺の中に足りていなかった。

 大学を出て、会社に入って、脇目わきめも振らずに働いた。厳冬フィンブルヴェトの世で、そのことが報われることなんてなかった。

 ただ幸せになりたかった。なんの喜びもなく歯車として摩耗まもうするだけの日々を、抜け出したかった。

 商品ブツに一切手を付けない。よくをかいた稼ぎ方をしない。そういうの価値を、学校よりも社会よりも、反社会アングラだけが


「悪いのは時代だ。君はなにもおかしくなんてない」

 男をその道に誘ったのは、温和おんわな人物として皆にしたわれる上司だった。

 自分の裏稼業うらかぎょうを手伝わせたい打算ださんもあったろうが、それ以上に危険だったはずだ。

 リスクを踏んでまで、赤の他人に人生を取り戻す方法を教えてくれた。その恩を返したかった。


 薬で身を滅ぼすような奴等やつらからなら、うばってもいいと思えた。

 ゆとりのない厳冬の時代ですら、真面目に働いて人の役に立つつもりもないクズ。

 そいつらが野垂のたれ死んで、俺たちが幸せになる。クソみたいな世界もちょっとは正しく回る。悪いことが何一つないと思った。

 何も知らないやつが、その邪魔じゃまをするな――そう言い返してやりたかった。


聖二せいじくん、こっちは終わりました!」

 不意に声がした――場違ばちがいに明るい女の子の声。

陽彦はるひこくんからの伝言です。えーっと……『ふんじばるのが結構めんどくせえ、こっち来て手伝ってくれ』だそうです♪」

「分かった」

 その言葉で、仲間たちも捕まったのが分かった。


「く……そ……てめえ、ら……なんなん……だ……」

 何もかもが終わりだ。ここから助かる希望なんてなく、そろって牢屋にぶち込まれるのだろう。いつ出てこられるのかも分からないし、出てこられたとして、この厳冬の世に前科者ぜんかしゃを受け入れてくれる場所などない。

 

「ワイルドハントだ」

「……っ……! ざっ……けんな……!」

 息苦しさが少し抜け、言葉を吐き出せるようになってきた。

 生殺与奪せいさつよだつを握られていることすら忘れて、怒りをぶつけなければ気が済まなかった。


「てめえらが……怪物どもを全滅させてねえから……こんなクソみてえな世の中になってんだろが!」

 バカげている。ふざけている。自分たちのような小遣い稼ぎをいじめる暇があるなら、さっさとあの北海道を占領する怪物フィンブルを皆殺しにすればいい。

 社会が豊かになれば、こんなやくざな商売に手をめる者だって減るはずだ。


「そうだな」

 冷たい声は、あっさりと認めた。

「僕らはフィンブルに勝てない。これまでも、これからも」

「あ……?」

「この国はフィンブルに負ける」

 カチッ、という音がした。自らの手に突き立った細長い針を最後に見て、男の意識は眠りのぬまに沈んだ。


 ※※※


 ペンじょうの小型ニードルガンをポケットにしまい、聖二は溜息ためいきをついた。

 人間が相手では、どうにも神経毒の調整が難しい。

 後遺症こういしょうを残さないようにしつつ、一撃で意識だけを刈り取れればいいのだが。


 そんなことをぼんやりと考えていると――

「聖二くん。わたしたち、負けちゃうんですか?」

 夕食の献立こんだてを聞くような気軽さで、愛海あみたずねた。

「ああ、負ける」

「……そっかー」

 つくろうこともしなかった。愛海もさほど興味なさそうにその言葉を受け入れた。


 北海道で戦うワイルドハントたちのほとんどが暗黙あんもくのうちに理解し、けれど決して口にはしない真実。

 重要な戦力であるはずの猟犬ハウンドが、現地げんちに送り込まれないそもそもの理由。

 ワイルドハントたちがどれほど必死に戦おうと、人間は滅びる。既にそういう段階ステージにきている。

 聖二たちが考えなければならないのは、どうやって自分の人生をかだ。

 いずれは陽彦はるひこ深雪みゆきとも、その辺りをわせなければならないだろう。


 だらんと弛緩しかんした男の身体を持ち上げ、肩にかついだ。

 鼻歌を歌いながら先行せんこうする愛海に続いてあゆむ。

 ビルの合間あいまに吹き込む風が、けものうなりのような音をひびかせていた。

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