鉄囲てつがこいの小部屋こべや――三半規管さんはんきかんにぶく揺らす波浪はろうのリズム。

 小さな丸窓まるまどから、聖二せいじは外の様子をのぞいた。曇天どんてんの空のした、巻き上がる飛沫しぶき大粒おおつぶの雪が、モザイクめいて海峡かいきょうの景色を白くしている。


 海原うなばらはしるこの船は、対フィンブル装備と砕氷さいひょう設備を後付あとづけされた軍用の戦闘艦せんとうかんだ。

 新造資材しんぞうしざいしぶり続けた結果としてだいわりのを完全にのがした、ぎだらけのはがねかご


 乗り込んだ二百余名にひゃくよめいのワイルドハントのうち数名ほどは、帰りの便びんに乗ることはないだろう。


 いまだ見えない水平線の向こうに、あの暗黒の大地がある。怪物フィンブルたちの巣食う広大な北海道ネストが。足を踏み入れれば、狩らねば狩られる戦いの日々がまた始まる。


 そろそろスイッチを切り替えなければならなかった。いつまで続くかも分からない闘争の中で、気持ちの糸を切らさないために。


 先ほどまで二段ベッドの下段で昼寝していた陽彦はるひこは、どこかへ行ってしまった。

 人気ひとけのないすみっこの船室あたりをこじ開けて、煙草でも吸っているのだと予想がつく。


 さびだらけの扉を開き、どこともなく目指して聖二は歩み始めた。

 話し相手が必要だ。迷える自分自身を見つめ直すための、うつかがみとなってくれる誰かが。


 すれ違ったワイルドハントたちが向けてくる、おそれ、ねたみ、いきどおりの視線――ずいぶん嫌われたものだと、心の中で自嘲じちょうする。

 そんな通りすがりの顔ぶれも、いつの間にやら年下ばかりになってしまった。


「聖二」

 入り組んだ通路を数分ほどぶらぶらと歩いた先、はちわせたのは深雪みゆきだった。

 駐屯ちゅうとん基地きちで言い合いになってから、今日まで気まずいまま過ごしてきた。


 深雪は両腕を胸の前で組み、弱弱よわよわしく震える何かを抱えていた。

 大きさからして、おそらく猫のようだ。聖二には曖昧にしか分からない。

 手足もなく、血まみれで、声を発することもなかった。頭のあたりから絹糸きぬいとのような線維せんいが伸び、深雪のうなじにつながっていた。


「何してるんだ、深雪」

「聖二、どうしよう。死んじゃう」


 船の中に野良犬や野良猫が紛れ込むのも、そういった動物が情緒じょうちょ不安定ふあんていなワイルドハントたちの玩具おもちゃにされるのも、よくあることだと聞いている。実際に見るのは聖二も初めてだが。

 深雪に限ってそういう残虐ざんぎゃく性はない。おそらく彼女はてられた瀕死ひんしの猫を拾っただけなのだろう。


「深雪、やめるんだ」

「どうして?」

「それはもう助からない」


 職業病しょくぎょうびょうとでもいうべきか、多くのワイルドハントたちには命のはかなさが分からない。

 頭や心臓が残っていても、ものきずつけば弱り、死ぬ。

 ろくな延命えんめい手段もなければ、野良猫一匹のためにけるような余裕もない。それが今の厳冬の世フィンブルヴェトだ。


「この子もきっと、生きたがっている」

「いたずらに苦痛を長引かせることは、お前のエゴだろう」


 深雪の神経線維が占領ジャックしている限り、猫はしばらくながらえるだろう。

 ただし、地獄のような苦痛とえに。その先に待つのは衰弱すいじゃく死か、あるいは二度とまわることもないからびた虫けらのような余生よせいか。


「分かった」


 深雪は目を伏せ、そっと猫をひとでした。びくん、と猫の身体が大きく震え、それきり動かなくなる。

 戦場せんじょうではめったに見せない、慈悲じひの一撃だった。


「……辛いなら、代わりにやっても良かったんだぞ」

「ううん。私がしてあげたかった」


 人造人間ホムンクルス灰川はいかわ深雪みゆき――その生い立ちにまつわる事情は、周りの誰もが知っている。

 彼女自身がそれを知られるよう望み、働きかけたからだ。


 人間としてのって立つ過去を持たず、ともすれば人よりもフィンブルの側に近い、死体を動かす寄生きせい生命体せいめいたい

 申告しんこくをそのまま受け取るならば、なんとも恐ろしい存在だ。


 ただ、聖二にはとてもそんな風には思えなかった。彼女は意思表示の薄いところはあるが、人間らしさも確かに備えている。

 陽彦はるひこ愛海あみも、きっと同じように感じているだろう。


「聖二たちにとっても……」

「ん?」

「生き残れることだけが、幸せではない?」


 黒曜石こくようせきひとみが、聖二を見つめる。


「時と場合によるさ。少なくとも僕らのきずえる。生きている限り、より良いみらい模索もさくできる」

「……そう」


 深雪はこくりとうなづくと、背中を向けてスタスタと歩き出した。


「この子を海にかえしてくる」

「外は荒れてる。気をつけろよ」

「うん、ありがとう。また後で」


 遠ざかる小さな背がやがてかどを曲がって見えなくなり、聖二はふう、といきをついた。


 彼女は言う――他の誰かの役に立つことが、自分が人間になる唯一ゆいいつのすべなのだと。

 けれど、聖二はそれだけではないと思っていた。本人は否定するのだろうが、きっと彼女は自分をてる瞬間しゅんかんを求めている。


 おそらくそれは、あがなうためだ。人間・灰川深雪の代わりに生まれてしまったという罪の意識が、心の奥底おくそこで彼女をしばっている。

 自分を怪物かいぶつ化し、卑下ひげすることが、彼女にとっての救いなのだろう。


 どう答えればもっと自分を大事にしてくれるのかが、聖二には分からない。

 生きている限り、より良いみらいを模索できる――そう言葉にするのは簡単だった。

 けれど果たして、深雪にそれを実感させられるぐらい、聖二自身が心からその言葉を信じられているだろうか。


――やめよう。考えても堂々巡どうどうめぐりになるだけだ。気持ちをえるために歩いてきたのに、これでは意味がない。

 元来た道を引き返す。仮眠を取っている間に船も着くだろう。その後は運転役うんてんやくが待っている。


 そういえば――久しぶりに深雪と普通に話せたなということに気付いて、聖二は苦笑くしょうした。

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