誰かの役に立つというのは、とても難しい。

 本人の望むままにしてあげるのが、いつだって正しいとは限らないから。


 未成年が煙草を吸うのは良くないこと。これは子供だって知っている。

 どうせ陽彦は、自分は長生きできないから好きにさせろとか、そんな風に反論するのだろうけれど。

 私が陽彦を守るから、そんな風にはならない予定だ。

 本当は健康のためにずっと吸ってほしくないけれど、そこは私が折れてあげようと思う。

 二十歳になったら、私はもうなにも言うつもりはない。


「あ~……う~……」

 プレハブ寮に併設された食堂――向き合って座る愛海あみが、卓上に突っ伏して唸り声を上げる。

 彼女は自分の分の給食を早々に平らげて、私が食べ終えるのをそわそわしながら待っていた。


「どうしたの、愛海。ゾンビみたい」

「深雪ちゃ~ん……ひもじいよぉ……」

「私のからあげ食べる? それとも、何か作る?」


 食材さえ持ち寄れば、台所を借りることは許されている。

 私たちの手元に入る僅かばかりの給金で買うには肉も野菜も割高だけれど、先日聖二が作ってくれたシチューの材料がまだ何かあるはずだった。


 そんな私の提案に対して、愛海は首を横に振って。

「血が吸いたいです……」

 そうリクエストした。


 フィンブル細胞がもたらす特性はそれぞれ違う。

 愛海の場合、暗黒地帯での極貧生活をそれほど苦にしない代わりに、本土での生活の方にあまり適応しない。


 少し考える――愛海に血をあげることは、聖二から止められていた。

 けれど、理由が分からない。

 陽彦の煙草と違って、血を吸えない時の愛海は本当に苦しそうな顔をする。


 結論――これは、本人の望みを叶えてあげるべきだ。


「任せて、愛海。

 愛海が顔を上げて、ぱあっ、と笑った。

 これで私はまた、仲間を助けられる。


 ※※※


『既に知っているだろうが、T市に向かったワイルドハントたちが多数戻っていない』

「存じています」


 受話器から響く冷淡な男の声に対し、聖二も同じぐらいに感情のこもらない声で答える。

 事務棟地下一階――ワイルドハントですら覗き見、盗み聞きができないよう、完璧に密封・防音が施された鋼鉄囲いの一室。

 この部屋で通信を受けさせられるということは、秘密裏に命令を与えられるということだった。


『宗像班。T市に向かい、原因を調査しろ。そして可能ならば取り除け』

「内容に不服はありません。ですが、フィンブルとの戦いで危機に陥っているとしたら一刻も早い救助が必要です。我々よりも今北海道に居る班に、基地を通じて命じた方が早いのではないでしょうか」


 一応の正論を口にした。本気でそう思っているわけではない。模範的ワイルドハント・宗像聖二としての定型句。

 電波の向こうにいる男がなぜ自分たちにそれを命じるのかも、本当は分かっている。


『しらばっくれるようなら、はっきりと言ってやる。T市に棲息するフィンブルが、彼らを皆殺しにしたか。あるいはT市のワイルドハントたちが、意図的にこちらとの繋がりを断ったか。このどちらかだ』


 この国が抱える根本的な問題――ワイルドハントが大人を信用していないのと同じぐらい、


 男はこう言っているのだ――T市に集ったワイルドハントたちは死を偽装し、政府を出し抜こうとしている可能性がある。

 もしそうだったなら、聖二たちが彼らを粛清しろ、と。


 向こう側に伝わらないよう、そっと溜め息をついた。

 前向きに考えるならば、これは信用されているという証左なのだ。

 他のワイルドハントたちには任せられないが、聖二たちならば裏切る心配はないと思われている。


 しかしそうだとしても、同族殺しなんて進んでやりたいわけがなかった。

 死んでいてくれた方がマシだ――そんな風に考えてしまう、自分の思考が嫌になる。


「分かりました。我々にお任せください」

 嫌がっていることなどおくびにも出さず、そう返した。

『よろしい。報告を期待している』


 尻尾を振って媚びろ。お前がいつも必死に欲しがっている、手柄をあげる絶好のチャンスだぞ。

 言外にそう言われているような気がした。

 望むところだ。不味い飯を食らって必死にフィンブルを追いかけ回してきたのは、そういう評価を勝ち取るためなのだから。


一歩ずつ着実に、自分は目的へと近づいている――そう、信じるしかなかった。


※※※


 プレハブ寮の部屋は、男子が下階、女子が上階と申し訳程度に区分けされている。

 セキュリティなどが設けられているわけではないため、連絡のための出入りに支障はない。


「おーい、聖二」

 外付けの階段を昇っていると、下から声を掛けられた。陽彦が手を掲げている。

 金色に輝く両目超視力が、外套がいとうの襟に付く血をぬぐった痕跡を目ざとく見つけていた。

 大方また悪い友人とつるんで何かしていたのだろうと、心の中で呆れる。


「いいタイミングだ、陽彦。次の遠征が決まった」

「短い休みだったな。あいつらにそれを伝えにいくのか?」

「それもある。ついでに少し深雪に説教をしに行く」


 T市のワイルドハントたちが、強力なフィンブルとの戦いで全滅していたとしても。あるいは、彼らが死を偽装し徒党を組んでいたとしても。

 どちらにせよ、手強い相手との戦いを強いられることになる。


 独断でネストの奥に突っ込んでいく、深雪の行動は目に余る。

 北海道に渡る前に、しっかりと言い聞かせなければならないと思っていた。


「最高だな。俺も行くわ、あいつが怒られるところを見たい」

 思いのほか陽彦が食いついてくる。少し前のやりとりで鬱憤うっぷんがたまっていることなど、聖二には知る由もなかった。


 階段を昇りきり、深雪の部屋の前に辿り着いた頃、後から昇ってきた陽彦も追いつく。

 呼び鈴を押した。薄い扉越しに響くチャイム音――だが、中からの反応はない。どうやら留守にしているらしい。


「どこかに出かけているのか?」

「愛海の部屋かもしんねーぞ」

「なるほど。どうせ声をかけないといけないしな」


 愛海の部屋は、すぐ斜め向かい――扉の前に行き、呼び鈴を鳴らした。

「……誰ですかぁ~?」

 少しの沈黙を挟み、隙間から漏れる声。能天気を煮詰めてジャムにしたような甘ったるさ。


「愛海、今話しても大丈夫か? あと、深雪も中に居ないか?」

「あ、聖二くん! はいどうぞ、鍵は開いてますよ~♪」

 妙にテンションが高い――聖二の記憶が確かなら、ここ数日は血が吸えなくてダウナーになっていたのではなかったか?


「だ、め、愛海……聖二に、怒られ……」

「えっ? なんですか深雪ちゃん?」

 囁くような会話を、陽彦の耳だけが捉えていた。聖二がノブを回してドアを引く。


「入るぞ、ちょっと話が……――」

 足を踏み入れた瞬間――目の前に広がる光景に、聖二は絶句した。

「……マジかよ」

 遅れて入った陽彦もそう漏らす。


 洗濯していないシャツや、どこから持ち込んだのかも分からないような菓子の袋が床に散乱する、だらしのない部屋。

 窓際のベッド上、二つの影が膝立ちで向かい合っていた。


「ふふ、深雪ちゃん、とっても素敵ですよ♪」

「……あ、う……」


 服を肩まではだけさせ、ぼんやりとした目つきで妙に色っぽくうめく深雪。

 そんな深雪を胸に受け止めながら、暗黒の慈母のように艶やかな笑みを浮かべる愛海。

 深雪の首筋についた赤い唇の痕。そこから愛海の口元にまで繋がる、粘っこい唾液の糸。


「ふ、風紀の乱れ!!」

 魂から弾き出すような聖二の叫びが、小さな部屋に響いた。

「落ち着け、外まで聞こえる。とりあえず、なんか撮るもん持ってないか? カメラとか」

「何がとりあえずだ!」


「……あっ、そっか! 聖二くんにはダメって言われてるんだった!」

 衝撃――開いた口が塞がらないまま、陽彦が聖二を見る。

「聖二、お前知ってたのか? 優等生みたいな顔しやがって!」

「知らないし言ってない!」


 狼狽うろたえる二人に、愛海がいつもの調子で更にうた。

「もしかして、二人もくれるんですか?」

「そういうのもアリなのかよ!?」

「の、ノーだ! こんな昼間からこんな、よくない!」

「ちょっと待ておれの返事はおれが決める、口出しすんじゃねェ聖二」


「二人の血も吸ってみたいなぁ……」

 ぎゃあぎゃあと喚き散らかす男二人が、その一言でぴたりと止まる。


「え、あっ……」

「……血ぃ吸ってただけか……?」

「はい。深雪ちゃんが吸わせてくれてたのです」

 陽彦と聖二が、気まずそうに顔を見合わせた。人語を介さない子犬のような顔で、愛海が首を傾げる。


「二人とも、一体なんだと思ってたんですか?」

「何って、そりゃまあ、その……」

「み、深雪がいじめられていると思ったんだ」

「え~、酷い! そんなことするわけないじゃないですか!」

「す、すまない……けどな愛海、吸血だって本当は駄目なんだぞ……」


 愛海がぷんぷんと怒りだす。聖二が申し訳なさそうにするのが自分をかたっているからだとは、欠片ほども気付いていないようだった。


「……愛海、その二人はケダモノだから……部屋に入れちゃだめ」

 やや意識の覚醒を取り戻した深雪が、聖二と陽彦に対してシャワー室の黒カビを見るような視線を向けていた。


 ※※※


「何度も言っていることだが、勝手な真似は慎んでくれないか、深雪」

 はだけた服を戻すベッド上の深雪に、腕組みをした聖二が重々しく告げる。

 陽彦にはそれが、失った威厳をなんとか取り戻そうとしているように見えた――元々威厳があったかは別として。


「あの、聖二くん。深雪ちゃんのこと責めないで。わたしが悪いんですよね」

「いや、まあ……そうだ、まずは僕に相談するべきだったな」

 落ち込む愛海の態度に、聖二が歯切れ悪くなる。

 おそらく愛海には最初からそういう自制を期待していなかったのだが、本人にはっきりとそうは言えないのだろう。


「私は何も悪いことをしてないし、愛海が謝る必要もない」

 対して、深雪の反応は刺々しかった。

 言葉以上の意味はない。自分たちには毛ほどの落ち度もないと、本気で思っているようだ。


「少し前までフラッフラだったじゃねーか。いったいどれだけ吸ったんだ」

「「もっと吸ってもいい?」って聞いたら、深雪ちゃんが「良い」って言うから……」

「何回だよ?」

「十回ぐらい」

 計算すれば、人間の致死量ぐらいにはなるだろう。愛海が元気を取り戻すわけだった。


「問題ない。再生力の許すかぎり、吸われた血もすぐ元に戻る」

「そうやって勝手なことをして、倒れられたりでもしたら困る」

「愛海が倒れていたかも」

「きちんと食事で栄養を摂っているかぎり、愛海はそう簡単に倒れたりしない」

 深雪が少しムッとした表情を作る。聖二あなたに何が分かるのか、と言いたげだった。


「何かあった時、困るのはお前だけじゃないんだぞ。今に限った話じゃない、北海道むこうでの振る舞いもそうだ。というか、その話をしに来たんだ」

 聖二の方も、一歩も譲る様子はない。


「一人で勝手に突っ込むのをもうやめろ。そのうち死ぬぞ」

「でも、私が一番強い。私が敵をたくさん殺せば、みんなは安全に戦える」

「ゴリラかよこいつ。聖二、説得したけりゃゴリラ言語で話した方がいいぜ」


 陽彦が茶化すのを無視して、聖二と深雪は視線をぶつけ続ける。

 一度言い合いになると、陽彦などよりもよほど自分を曲げるということをしない二人だった。


「お前は善意のつもりかもしれないけど、勝手なことをされると迷惑なんだ」

 迷惑――その言葉フレーズに、少しだけ深雪がたじろぐ。

「じゃあ、私はどうすればいい? 何をすれば、もっとあなたたちの役に立てる?」


「もう十分に役に立っている。あとはもう、余計な事をしなければ何も文句はない」

「それじゃあだめ。まだ足りない」

「駄々をこねたって変わらないぞ。どんなことだってそうだ。欲しい機会がいつだって与えられているとは限らない」

「……聖二は分からず屋」


 深雪はそう言い捨てると、ベッドを降りて聖二と陽彦の横をするりと抜け、玄関から出て行ってしまった。

 風が吹き抜けるようにあっという間で、聖二が面食らっていた。


「お前さあ、どんだけ言い方がヘタクソなんだ」

「……何だと? 僕のせいか? 今の」

「言うこと聞かないとクビにするぞ、で良いんだよ。あいつの場合」

「それじゃ根本的な解決にならないじゃないか」


 そういうところだよ、と陽彦が肩を竦める。

 本人がでやっている辺りが、実にままならなかった。


「っていうか、素直に言えばいいと思うんです」

 自分に矛先が向かないことに安心してか、やや強気に愛海が口を挟む。


「何をだ?」

「深雪ちゃんが心配だから、無茶しないでって。聖二くんがみんなのことを大事に思ってるの、わたしたちちゃんと分かってますよ?」


「……いや、僕はそういう私情を持ち込むつもりはない。公私をしっかり分けて、チームメイトであろうと厳しく接する」

「……お、おう」「えーっと……あははっ」

 陽彦と愛海が気まずく頷く。聖二が怪訝そうに眉根を寄せた。


「お前たち、なんだその顔は」

「いや……こう、自分を客観的に見るって、難しいよな……」

「聖二くんのそういうところ、わたしは好きですよ♪」


「なんだか知らんが、すごく負けた気分だ」

 聖二自身がどう思っていようと、彼が身内を贔屓ひいきしているのは明らかだった。


 ※※※


 暗闇の海で感覚を探る――赤ん坊が最初の呼吸をするように。

 たくさんの何かが私の中に押し寄せてくる。


 初めてのいろ――網膜にチカチカと滲む、照明灯の光。

 初めてのにおい――空間を満たす、消毒液の臭気。

 初めてのおと――電子計器が告げる、無機質な生のリズム。

 初めてのここち――頭蓋の内側で、ズキズキと滲む痛み。

 初めて知るはずのそれらを、私は言葉にすることができた。


 ごうごうと渦巻く記憶の潮流。

 十一年の人生/喜びや悲しみ/私の名前=灰川深雪。


 違う、違う、違う――全部、私のものじゃない。


「私は……だれ?」

 唇が紡ぐその疑問が、私の産声だった。




「つまり君は自分が、灰川深雪ではないと言うんだね?」

「そう」

 神妙な顔で医師が私に尋ねる。手術の前、「怖いかい?」と深雪あの子に訊いた人。


「君に施したのは、侵された脳細胞を置き換える手術だ。人工的に培養されたフィンブル細胞が、元ある正常な細胞と共生する。君には灰川深雪としての、十一年の記憶があるのだろう?」

「ええ。でも、これは私じゃない」

 記憶はあるのに、自分のものだという実感が持てない。

 まるで頭の中で、他人の人生をページにしてめくっているみたいだった。


「とりあえず、簡単に考えられるパターンは二つある。一つは急激に脳の構造が変化したことで、君は自分を別人だと思い込んでしまっているということ。もう一つは」

 医師が深く溜息をく。


「……今こうして話している君の意識、君の本体は、移植されたフィンブル細胞に由来していて、のだということ」


 少なからずショッキングな答え――という宣告。


「私は……前者だと思うけどね。自分を自分と思えなくなるというのは、精神疾患としてあり得ることだ」

 私は後者だと思った。に、この時既に心当たりがあったから。


「私はこれからどうなるの」

「法律上、君は治療によって生命活動の危機を脱してワイルドハントとなった灰川深雪だ。実際のところがどうであれ、それは揺るがない。訓練期間ののち、暗黒地帯でフィンブルと戦ってもらう。……すまない」


 医師の眼は優しかった。子供を改造して死地へ送ることを悔やみながらも、そうする使命からは逃れられないという、悲しい決意をたたえていた。

 けれど、そうじゃない。本当に尋ねたいのは、私がこれから――そういう実感を持てるのかということだった。


「分かった」

 それ以上は聞かなかった。目の前の人は、私の疑問に答えをくれないような気がしたから。




 錆びついたブランコをゆっくりと漕ぐ。ギイコ、ギイコと虚しい音が、吹雪に掻き消える。私以外、庭には誰も居なかった。

 戦うことは怖くない。ただ、がないのが恐ろしかった。

 自分が世界のどこにも、存在することを許されていないような気がして。

 灰川深雪でも、それ以外でもいい。これが私なのだと、そう言い切れるしるしが何か欲しかった。


「よお、深雪。風邪ひくぞ」

 ぶっきらぼうな声に振り返る――短い髪を逆立たせた少年。着ている上着を脱いで、そっと私の肩に掛けてくれる。


「新藤、陽彦……」

「おう。……なんか雰囲気変わったな、お前。ワイルドハントになったからか?」

 その言葉が、今際の記憶を呼び起こした。


(私がワイルドハントになったら。戦えるようになったなら)


 もうどこにもいない灰川深雪少女の、最期の想い。

 それをなぞれば、私はいつか深雪あなたになれるだろうか。

 温かな血の通った、人間になれるのだろうか。


「陽彦――」

 私は、それを口にする。


「私、あなたを守っても良い?」

 それだけが、深雪が私に残してくれた、最後の希望だった。

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