「……こりゃまた、随分派手にやったもんだ」

 校舎内へと足を踏み入れた瞬間、陽彦は思わずそう零した。


 そこら中が血にまみれた昇降口――立ち込める生臭さが敏感な嗅覚を苛めてくる。

 こんな場所を見逃していたのかもしれないと思うと、ぞっとしなかった。


 人間の匂いはここにはない――正確にはわずかな残り香はあれど、死に至るような大量の血の匂いはしなかった。

 血だまりに浮かぶ肉片も、頭を砕かれて転がっている死体も、全てフィンブルのものだ。

 腕が異様に長く、骨が浮き出るほどに痩せた、出来損ないの不気味な猿のような姿だった。


「キヒサル。敏捷性の高さと、それなりに高い知能が特徴。フィンブルの中では非力」

 深雪が冷静に言及した。ちなみにフィンブルの中で非力とは、ライオンを殴り殺せる程度を指す。


「生き残りが襲ってきても、僕らの脅威じゃないな。それより陽彦、どうだ?」

「音がする、上の階だ」

「そうか。陽彦、愛海、先行してくれ。ただし危険ならすぐに逃げろ。深雪、ここに残ってしろ、僕も手伝う」


 聖二の指示に陽彦と愛海が素直に頷く。だが、深雪は首を縦には振らなかった。


「私もいく」

「駄目だ。強敵がいる可能性がある。」

「だったら、足並みを揃えるべき。二人を先に行かせちゃいけない」


『どの口が言うんだ』という目を、陽彦と聖二が同時に向ける。深雪は何も分かっていないように首を傾げていた。


「理想はそうだ。だが、別の班が今まさに危機に陥っている可能性がある。折衷せっちゅう案として、二人を斥候に行かせる」

「聖二は愛海や陽彦よりも、他の班の人たちが大事なの?」

 むっ、と聖二が眉根を寄せる。埒が明かないので、陽彦は助け舟を出すことにした。


「話してる時間も惜しいんだよ、聖二の言う通りにしろ。じゃなきゃお前に命は預けらんねえ、チーム解散だ」

「それは困る。言う通りにする」

 あまりにあっさりと深雪が折れるので、聖二が狼狽うろたえるような顔をした。陽彦は意に介さず、抜き身のチェーンソーを肩に担ぎ、飛びだした。

「行くぞ愛海」

「はーいっ!」


 わずかな匂いを頼りに廊下を先行し、突き当たりの階段を駆け上がる。

 この時すでに陽彦の耳は、確かな情報を捉えはじめていた。

 叩きつけるような鈍い音。濁った笑い声。呻くような悲鳴は、一人分だけ。

 ぎりっ、という音がするぐらい、奥歯を強く噛み締めた。この先に待ち受けているものは、おそらく――


 辿り着いた先――四階教室の扉を開ける。茜色の逆光の中で、人影が振り返った。


「■■ィッ……?」

 真紅色の瞳孔。薄汚く不並びな歯を見せつけるような笑み。硬質化して帽子のようになった赤い髪――残忍な人型フィンブル・赤帽鬼レッドキャップ

 身に纏うのは、ボロボロに破けた戦闘服ツナギ――おそらく、ワイルドハントから剥ぎ取ったもの。


「■■……■ャ■■■■■ャ■■■ャ■■ァ!」

「……ぁ……?」

 甲高く笑う鬼の背後で、零すような声がした。

 肌色の何かが、芋虫のように床でもがいている。


「――らあああああぁっ!!」

 チェーンソーの駆動を上げる――その唸り声によって、余計な思考を吹き飛ばした。

 歯を食いしばる――痛みに耐えるために。


 振り上げた得物を、眼前の敵ではなくその足元へと叩きつける。

 回転する凶悪な牙が、ワックスの剥げた木の床を嚙み砕いた。

 鋭利な破片が飛び散り、鬼と陽彦の両方へと無慈悲な雨のごとく突き刺さる。

「■■■ャァッ!」

「……っ!」


 鬼の動きが止まる――その隙を愛海が見逃さない。迷いなく飛び込み、胴体へとしがみついた。

 肉体に内蔵された殺戮機構の安全装置セーフティが外れ、チキチキと小気味よい音を奏でる。


「あはっ、いただき……ガボッ」

「■■■ゥッ」


 鬼と愛海が同時に吐血した。赤帽鬼の背中から対面する愛海の背中までを、鋭利な刃が串刺しにしていた。


 意識外からの攻撃に、陽彦までも固まる。

 一瞬前まで床を転がっていたはずの芋虫――裸で死にかけの青年が、成形しかけの不完全な両脚で立ち上がり、皮膚の出来上がっていない真っ赤な手を震わせながら、握った剣を刺し込んでいた。


 鬼ががむしゃらに暴れ、愛海を突き飛ばす。

 拘束が振りほどかれ、ついでに青年の手から剣が離れた。

 陽彦の対応が一瞬遅れる。


 鬼は背中から剣が突き刺さったまま、窓めがけて飛び込んだ。

 ガラスを砕き、重力加速度に従って落下――ドスン、と空気が震える。

 陽彦の聴覚は、鬼が両脚でしっかりと着地し、そのまま駆け出す足音までを捉えていた。


 同じように窓から飛び出すべきか一瞬だけ躊躇い、すぐにやめた。聖二から深追いを止められているし、もっと優先すべきことがある。

 陽彦は青年を見た。その眼は虚ろで、口から涎を垂らし、うわごとのように何かを呟いていた。


「……ね……死……■……!」

「ダメです陽彦くん。もう壊れちゃってますよ、この人」

 愛海がそう断じる。陽彦の目から見ても、それは明らかだった。


 ワイルドハントとなった者が、人間社会に再適合できない理由。

 自身の力フィンブルに飲まれるか、戦いの中で精神を摩耗しきった者は、人を見境なく襲う怪物となり果てる。爆弾を抱えて生きているようなものだ。

 あるいはワイルドハント同士ですらも、少数単位でしか徒党を組まないのはそういう理由だった。

 狂った仲間に食い殺されないように、リスクを分散するのだ。


「わたしがやりますか?」

「おれがやる。……なあ、お前、仲間はどうしたんだ」

 青年の呟きが止まった。一瞬だけ生気の戻った目が、悲しみの光をもって陽彦に訴えかけた。


「……奈緒ナオ……雄二ユージ……アキラ……ごめ……ん……」

 その言葉で、全て理解するのに十分だった。救うには手遅れだった。

 それならせめて刈り取ってやるのが、陽彦の考える慈悲だった。


「殺されたんだな」

「……っ、■アアア■■ァァァ殺■っ!」


 青年は床を蹴り砕きながら跳躍し、猛禽のような鋭さで陽彦へと飛びかかった。 陽彦はただその動きの先にチェーンソーを合わせ、回転数を上げた。


「苦しかったよな。楽になれ」

 回転する電動刃が、凶悪なワニの捕食めいて青年を飲み込み、頭から真っ二つにしてはじき出した。


 陽彦がスイッチを切る――死の静寂が、陽彦と愛海しかいない教室を満たしていた。


 ※※※


 青年のチームメイトと思しき三人の遺体は、同じ階の別の教室から見つかった。

 痣だらけの胴体、再生していない四肢――死んだ後もなぶられたとみて間違いなかった。


 小野おの大地だいち辻本つじもと奈緒なお大久保おおくぼ雄二ゆうじ川上かわかみあきら

 それが、貨物車バンの所持品から読み取れた彼らの名だ。

 けれど遺体のうちの二つは、どちらが雄二でどちらが彰なのか分からなかった。

 戦闘服ツナギの内側に縫い付けられているはずの認識票ドッグタグが、引きちぎられていたからだ。


 フィンブルの支配する不毛の大地、北海道――ここでは尊厳など当たり前のように踏みにじられる。

 これまでに何百、何千ものワイルドハントたちが、むさぼられ、はずかしめられ、誰にもかえりみられることのないままに消えていった。


「追えそう? 陽彦」

「ああ、あの野郎にはたっぷり匂いがついてやがったからな。まだ足跡もある」

 赤帽鬼の着地点――そこから延びるしるべを、陽彦ははっきりと知覚している。


「急ごう。悠長にしていれば痕跡が消える。だが、足跡や匂いでこっちを罠に嵌めてくるのには気を付けて……おい愛海、まだ何かやっているのか?」

 三人が追跡の算段を立てている間も、愛海は青年らの貨物車の中で、なにやらゴソゴソと探っていた。

 聖二の呼びかけに少し遅れて、愛海が車から降り立つ。その手には何かが握られていた。


「ねえみんな、これ」

 愛海が差し出したのは、一枚の写真だった。

 青年と、少年が二人に、少女が一人。写真の中の四人は戦闘服姿で煙草をふかしながら、悪戯っぽく笑っていた。


 そう珍しいものでもなかった。多くを持てないワイルドハントたちに許された、自分たちの生きた証が世界のどこかに残り続けるように、という祈り。

 だから電子データよりも、こうして形に残したがる者が多かった。


「仲良しさんだったんですね、この人たち」

 愛海――慈しみ深いとも、無関心とも取れる穏やかな声。きっとどちらも正解だった。

 彼女は死んでいった四人のためでなく、陽彦や聖二や深雪のためにそれを探したのだろう。


「……」

 聖二――複雑な表情で押し黙る。

 故人が相手でなければ、煙草なんてけしからんと文句の一つも言っていたのかもしれない。


「四人組。私たちと同じ」

 深雪――静かに燃える青い炎。

 私たちは同じ末路を辿らない、という想いをたぎらせている。


「いくぞ、みんな」

 陽彦――決断的に告げる。

 三人がそっと頷いた。無言のまま四人は車に乗り込み、やがて発進した。


 助手席の窓から顔を出し、鼻をひくつかせながら、陽彦は考える――きっと自分たち四人は、写真の中の彼らほど仲良くはなれない。

 互いの暖かさに時折触れるのがせいぜいなのだと。


 愛海のように仲間以外への関心を捨てることも、

 聖二のように目的のために共感を捨てることも、

 深雪のように諦めを捨てることも、

 陽彦にはできそうになかった。


 きっとそれで良かった。バラバラな気持ちを抱えたままでも、意思を向ける矛先さえ同じであれば。

 同じ気持ちを抱えたまま、違うところへぶつけるよりはよほど。


 普通の人生を失い、暗黒の土地へと送り込まれ、絶望の中で死んでいった者たち。

 あり得たのかもしれない――きっとこれからあり得るのであろう、未来の自分たち。


 彼らの死の報いを、まずはあの鬼に与えてやる。

 それが、陽彦自身が救われるために必要なものだった。

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