おーい

 作蔵は、自室にこもって腕を組んで胡座をかいていた。


 伊和奈が帰ってこない。

 業を煮やすとはこういうことだろうと、作蔵は唇を噛み締めた。


 飯がまともに作れないは、今回の一件ではっきりとした。それどころか、家の中をしきれない。

 仕事に没頭する方が、性にあっている。


 伊和奈、早く帰ってこい。


 作蔵は息を大きく吐き、座る畳から腰をあげた。


 ***


 作蔵は、台所にいた。


 流し台に作蔵の調理によって変わり果てた姿になった片手鍋を押し込み食器洗い用の研磨剤容器の中身をを空して、こびりついた焦げをステンレスたわしで擦り落としていた。


 作蔵の額は汗だくになっていた。


 研磨剤の白い泡に黒ごまのような焦げがまじっていた。

 作蔵は、片手鍋の焦げがまざった泡を水道の流水で落とした。


 困った。


 片手鍋にこびりついていた焦げは、確かに落ちた。


 作蔵がした片手鍋の洗い方。


 ステンレスたわしで焦げを集中的に擦った。かなりしつこくこびりついていたので、こするに力加減をしなかった。


 作蔵は、片手鍋を完全にみがきあげたを通り越して、鍋底に穴をあけてしまったのであったーー。


 ***


〔不燃物ごみ〕


 作蔵はごみ袋に駄目にした片手鍋を入れて、袋の口を方結びに縛った。


 台所の隅に綴じたごみ袋を置いて、作蔵は覚悟を決めていた。


 片手鍋は、使えなくなった。使えなくしたのは自分。どっちにしろ、怒られる。


 伊和奈、早く帰ってこい。


 作蔵は、伊和奈に怒られる覚悟を決めていた。


 ***


 ーー作蔵、何処にいる。


 ーー作ちゃん、もう怒ってないから出ておいで。


 作蔵は、四畳半に置く炬燵でうたた寝をしていた。

 最初はあわてふためいている男性で、次がすすり泣きをしている女性の呼び掛けだった。


 聴こえてきたのは外からだ。


 作蔵はかふり、と欠伸をしながら目を擦った。

 寒くて炬燵布団から出るのは嫌だと思いつつ、様子をみるために仕方なく窓際まで匍匐前進して窓枠に手掴みをした。


 窓の外での光景を見た作蔵の顔が凍りついたように険しくなった。


 聞いた声は、微睡みの最中とはいえ間違いではなかった。様子からして、ただ事ではない何かを抱え込んで、何かを懸命に逐っている。


 危険。


 作蔵の直感だった。


 作蔵は脱ぎっぱなしにしていた半纏を羽織り、玄関に向かった。下駄箱から普段履きにしている桐の二枚歯下駄を取り出し、鼻緒部分を足の親指と人差し指で挟んで履いた。


 玄関の扉を開き、下駄の二枚歯をからころと地面に着けながら作蔵が向かった先はーー。


「あら、あなたは確か作蔵さんと、いう方ですよね」

「そっちこそ、最近隣近所に越してこられた方ですよね」


 黒くて短髪、長身の猟虎に似た顔立ちの青年の隣には「あなた、作ちゃんを早く見つけましょう」と、泣き顔のちょっとだけ幼い感じの女性がいた。

 優しそうな声色、見たまんまおしとやかそう。ベージュのジャンバースカート。肩からすっぽりと巻き付くフェルト生地の赤いストールの裾を掴む、手の首を覆うピンクのセーターがあたたかそう。しかも、青年のことを『あなた』と呼んだ。


「奥さん、身重でこんな寒空の下では駄目ですよ。さあ、お家にもどってもどって」

 作蔵は女性の膨らむお腹と足に履く平底のブーツを見て言う。


 作蔵と目を合わせた女性は「はい」と、お腹をさすりながらおじきをした。


「で、お宅の『作』はなんでいなくなったのだ」

 作蔵は青年に振り向いて、下顎を突きだした。


「作蔵さん。カミさんを帰らせたとたん、態度がなんだかでかいですね」

「なにか文句あるのか」

「そんなに機嫌悪くしないでくださいよ。僕だって、こんな偶然があるのかとまだ信じられないのですから」


「おまえ、笑っているだろう」

 作蔵は、青年の両頬を両手の指先で挟んで引っ張った。


「お宅の『作』が失踪した経緯を説明してくれ」

 作蔵は、真面目に言った。


「些細なことです。うちの『作』は、カミさんが縫っていたぬいぐるみをかじって遊んで綻ばせてしまった。家の部屋床いっぱい、摘めていた綿を撒き散らせるほどでした。見たカミさんは茫然としていました。だから、僕が喧しく叱ってしまった。カミさんは、洗濯物を取り込んでいたから窓を開けていた。隙間から『作』は飛び出すように逃げたのです」


 作蔵は一枚、二枚と空中を舞っている枯れ葉をじっとして見ていた。


「作蔵さん」

 青年は作蔵の様子が気になって堪らず呼んだ。


「作蔵さん、作蔵さぁあん、さぁくぞぉおおうさん」


 空を仰ぎ、腕を組んでじっとしている作蔵に青年は何度も呼び掛けた。


「作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん、がはっ。作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん作蔵さん、はうわっ。作蔵さん作蔵さん作蔵さん」


 まだ動かない作蔵に青年は息継ぎをせずに連呼をするが、途中で噎せたり舌を噛んだりした。


「だんな、あんたも家に帰ってくれ」

 作蔵は青年をじろりと、見て口を突いた。


 青年は、作蔵の顔を見てぞくっとした。

 下唇を噛み締めて鋭い目つきをしている作蔵に「はい」と、返事をするのが精一杯だった。


 青年が背中を作蔵に見せているときだった。


「ヨメさんとヨメさんのお腹の中にいる子どもを護れるのは、あんただけだ。しっかりしろよ、父ちゃん」

 作蔵は、ズボンの右ポケットから掌におさまる大きさをしている筒型の容器を青年に差し出した。


「『作』を、よろしくお願いします」

 青年は右手で容器を握り締めて背筋を伸ばして深呼吸をする。そして、握り締めていた容器を離した。


「今夜の月はでかくて丸い。お宅の『作』は俺が必ず連れて帰って来てやる」

 作蔵は、翻してまっすぐと何処かを目指して下駄をならして駆けていった。


 青年は作蔵の背中をみると、いつまでも深々と頭を下げていた。


 一方、作蔵が向かった先は……。


 下駄の二枚歯の間に小石を詰まらせても踏みとどまるをせずに、路を全速力で駆けていた。


「伊和奈、伊和奈っ」

 作蔵は、叫びながら駆け抜けている路の辺り一面を目で追っていた。


 作蔵は、伊和奈を捜すを始めていた。

 伊和奈が帰ってこない、帰ることが出来ない何かが起きた。


 伊和奈には実体がない。

 普通に、何でもないで済む行動に抑圧が掛かる。作蔵はそんな情況の伊和奈を何度も見ていた。


 原因となるのは、天台の現象。特に、月の満ちと欠けがおおむね関係していた。


 伊和奈だけではない。例を挙げるならば、さっきまで会っていた若い夫婦が捜しているのが何かだ。


 夫婦は愛玩犬を飼っている。聞いた話からだと日頃はおとなしく、従順な飼い犬らしい。だが、火がついたように落ち着きがない行動をした。


 伊和奈と飼い犬。先ずは、伊和奈から捜すと作蔵は決めた。


 青年から飼い犬を捜す依頼を受け取った。筒型の容器には、青年からの依頼が詰まっていた。

 蓋を開ければ依頼が成立。だが、作蔵は蓋を開けなかった。


 伊和奈でないと出来ないことがある。蓋を開けたら仕事が始まる。

 だが、今回預かった依頼はひとりでは手に負えない。作蔵はそう、直感した。


 伊和奈がいないと、凄いことになる。

 事、依頼、どちらとも伊和奈が必要だからだ。


 作蔵は伊和奈を捜す。

 作蔵は脚を止めて息を切らせ、東にある山の天辺を見た。


 薄暗い空。淡く、白く周囲を明かりで照らす丸くて大きな月を、作蔵はじっと見たーー。

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