赤く、曲がる
伊和奈の身に何かが起きた。
作蔵がわかることは、そこまでだった。
ーー気付かなかったのが、いけなかったのだよ。
作蔵に食って掛かる声は、伊和奈ではない。
伊和奈の声の音量は吠える猛獣よりも大きく、質は害虫が気絶するほど甲高いと、作蔵は知っていた。
……。
はい、失言を撤回します。
兎に角、伊和奈ではない声の主が暗闇の中にいる。
証拠は、足元の粘着性がある感触だった。動けば、一気に喉元までにたどり着き、息の根を止める。
まさに仕掛けられた罠に、はまった状態の作蔵だった。
ーー作蔵。おぬしは、おぬしが大切にしていた“宝”が隠されてしまったと、焦っているところだろう。有ることに慣れてしまって、失ったときに気付く。哀れだなと、いいようがない……。
勝ち誇るような相手の言い方に、作蔵は眉間にしわをよせて、下目蓋と頬を痙攣させた。
せめて、声の主の姿を捉えたい。だが、今いる場所は暗闇のままだった。
わずかな明るさでかまわない。
誰なのかをはっきりとあらわす“光の素”が欲しいと、作蔵はじっとしながら思った。
真後ろから、ガラス戸越しであったが鼓膜が破れると思えるような轟の音の雷光が、照らされた。
時間にすればわずかだったが、畳の上に作蔵の影を落とした。
ーーぐ……。
暗闇の中からうめき声がした。何処にいるかはわからないが、作蔵にははっきりと聴こえた。
ーーう、うう……。
落雷の音と稲光りが絶えなかった、同時にうめき声も繰り返された。
偶然なのか、それとも……。
もう少し、様子を見よう。と、作蔵は足元の粘着性がある感触に緩みを覚えながら考えた。
「弥之助、汗臭くて苦しいだろうが辛抱してくれ」
羽織る甚平の前身頃の中にいる弥之助に言う作蔵の胸元は、汗まみれだった。
ーー作さん、あとで水浴びさせてね。
遠回しの本音。作蔵は、弥之助の言うことに反論が出来ないと苦笑いをした。
「おっと、近くに雷が落ちたらしい」
さすがの作蔵でも家全体が振動をするほどの落雷の衝撃に、身震いという驚愕を示した。
ーー離すのだ、今すぐ離れるのだ。奴に、姿を気付かれてしまう。今一度“
誰と話しているのだ。と、聞き耳をたてる作蔵は、暗闇へ目を凝らした。
ーー観念しなさい。あんたが作蔵に勝つのは、絶対に無いの。作蔵は“取りつかれる”ことが『本業』だから、免疫力がたっぷりと備わっているほど頑丈なの。そして、一番に頭にきているのは、あんたが……。あんたがーー。
声に、聞き覚えがある。
ガラス板に爪をたてたときのような、寒気。大山の頂点を通り越して大気圏を貫く威力があると思える肺活量。何処までもしぶとく燻るのが、最大の性質の持ち主……。
ーー『わたし』に化けて、貯金を減らしてくれたことよっ!!
暗闇が、眩い落雷の光で照らされた。
「伊和奈、そんな大声を出したら近所迷惑だぞ」
やっと身動きができると、安堵する作蔵だったが、千鳥足状態になる。そして、踏ん張ることさえなく、背中からまっすぐと倒れると……。
四畳半に、照明灯のあかりが戻ったーー。
***
作蔵は、先が縛ってあるビニール袋(伊和奈がスーパーマーケットで買った豆腐が入っていた)を握り締めて自室に移動した。
煮ても、焼いても、生でも食べられない、見た目は食材の象がビニール袋に詰められていた。
◎
『化け』る体質を利用して“見えない世間”を騒がせていた。
今件は匿名であったが、退治をする『依頼』に至った。
詳しい経緯は、省くことにする。
自室の机に備えている椅子に腰掛けて頬杖をしている作蔵が「はあ」と、溜息を口から吐く。
名目だけの〔報告書〕を、A4サイズ(罫線入り)のレポート用紙に2B鉛筆で書き記している途中でのことだった。
ーーだんなぁああ、少しだけで良いですから外の空気を吸わせてください。
「うるさい、ナマモノ。そして、誰が『だんな』だ」
机の上に置くビニール袋の中から〈海老〉が言うことに、作蔵の機嫌は斜めになった。
ーー息苦しいのは、本当なのです。お願いですから……。
「嘘は大概にしろ、偽海老め」
作蔵は“中身”が入ったままのビニール袋を片手で持つと、腕を振り上げて撹拌した。
ーーあっしは、だんなに美味しいご飯を食べさせてくれと、頼まれて“お嬢さん”に化けたのです。
「盗んだ銭で、しかも完コピしそびれて俺を罠に嵌めようと企んでの犯行だった。どっちみち、おまえは箱にぶちこまれる」
海老反りになって目をまわす(略)中身に、作蔵の怒りは頂点に達していた。
ーー完全な“化け”でなかったのが、気に入らない様子ですな。
「俺が飯でつられた。俺にとっては、この上なく見苦しいしくじりをした。飯の所為で『偽伊和奈』に気付くのが遅かった。おまえが化け損ねた部分は、伊和奈のーー」
作蔵は、背後からの悍ましい気配の為に、言うことを途中で止めた。
「悪かったわね、作蔵。あんたは『偽の〈わたし〉がおしとやか』だった。だから『まんざらでもない』と、言いたいのでしょう」
作蔵は、寒気を覚える声色の方向を、見ることができなかった。
ーーぎゃあぁああん……。
奇妙な声を発する作蔵。
論じる必要がないほど明らかなさまと、いうしかない。
作蔵は、伊和奈にこっぴどく叱られたのだったーー。
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