03 ビート

 生徒会室は、特別教室が並ぶ棟のいちばん端にある。言い換えると、放課後には使われない場所のいちばん奥だ。

 ひとけのなくなった放課後の廊下は、当然というか、通行以外の方法で使われることになる。意中の人をこの廊下に呼び出すというのが、うちの学校の伝統的な告白スタイルだ。おれも生徒会室に向かう途中、呼び止められたことが何度かある。

 三月初めのことだ。おれは一人で卒業式関連の仕事をしていた。もうちょっとしたら、ほかの生徒会役員メンバーも来る予定だった。換気のために、窓だけじゃなく、廊下側の引き戸も半端に開けていた。

 足音が聞こえて、やっと誰か来たかと思ったら、違った。足音は、生徒会室より向こう側で止まった。

「き、来てくれて、ありがとな」

 男子の震える声がした。ああ、告白か。盗み聞きする趣味はないんだけど、この状況じゃ、どうしようもないな。

 知らない声だった。しっかり声変わりしているから一年生ではないだろうなと、おれは当てずっぽうなことを考えた。

「お、おれがこれから言うこと、わかってると思うし、おれはおれで、どんな答えが返ってくるか、わかってる。だけど、おれ、もうすぐ大事な試合があって、今のモヤモヤのままでいたくないから……す、好きです。チナミちゃんのこと、ずっと、好きでした」

 チナミ? 幼なじみと同じ名前に、ドキリとした。まさか本当に、あのチナミちゃんのことなのか?

 ペンを動かす手を止めたおれの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。心臓をギュッとつかまれた気分になる。

「ありがとうございます、先輩。でも、ごめんなさいっ」

 チナミちゃんだった。おれは糸に引かれるように立ち上がって、足音を殺して、ドアのそばに潜んだ。

 先輩と呼ばれた人は、遠目に顔を見たことがある。おれと同じ学年のサッカー部の人だ。チナミちゃんと同じ体育委員。球技大会や体育祭の準備期間中、二人が仲良くしゃべる様子を何度も目撃した。

「いや、おれのほうこそ、気持ちを押し付けて、ごめんな」

「謝らないでください。あたしみたいにガサツな女の子を好きになってくれて、ありがとうございます」

「ガサツじゃないさ。元気で頑張り屋で、おれ、初めて話したときから、ほんと……でも、チナミちゃんには剣持兄弟がいるもんな。かなわないって、わかってた」

「剣持兄弟って、やだな、幼なじみってだけのつもりなんだけど。何か、みんなにそう言われるんですよね」

「だって、チナミちゃんと剣持兄弟の三人でいたら、そこだけすげぇキラキラしてるもんな」

 キラキラ、か。他人の目には、おれたち三人はキラキラに見えているのか。おれは、ざわつく胸を押さえた。

 光景を見ていられない。本当は耳をふさいでしまいたい。でも、聞きたい。光景の中に飛び込んでいって、ぶち壊しにしてしまいたい。

 少し黙ったチナミちゃんが、彼の言葉に応えた。

「あの二人だけですよ、キラキラしてるの。ハルタもユリくんも昔から知ってますけど、このごろ、あたしじゃ手が届かないくらいキラキラしてますもん」

「チナミちゃんも十分、輝いてるけどな。あのさ、ぶっちゃけついでに、失礼なこと訊いていい?」

「何ですか?」

「噂なんだけどさ、チナミちゃんが好きな相手、剣持兄弟の兄のほう?」

 息ができなくなった。うなずいてくれと、すがるような気持ちで願った。

 沈黙。

 それから、チナミちゃんは告げた。

「あたしもその噂、聞きました。でも、違います。ユリくんのほうが条件はいいって思うし、顔もきれいだけど、あたしが好きなのは、ハルタのほうなんです。ずーっと昔から、ハルタなんです」

 おれは、うぬぼれていたかもしれない。チナミちゃんは、いつもおれに「すごいね」と言ってくれる。チナミちゃんが選ぶのはケンカ相手のハルタじゃなく、一目置いているおれのほうだと勝手に思っていた。

 ああ、でも、わかっていたかもしれない。学校の行き帰り、おれたちとチナミちゃんが一緒になるときは、並び方が決まっている。左側がハルタで右側がチナミちゃん、おれが一人で後ろを歩く。ハルタとチナミちゃんが言い合うのを、おれは笑って聞いている。

 チナミちゃんと二人で歩いたこと、最近あったっけ? おれはなくて、ハルタはたまにある。帰りに偶然会ったからってハルタは言うけど、本当は違うんだろう。チナミちゃんはハルタだけを待っていたんだ。

 おれは力が抜けて、そろそろと座り込んだ。チナミちゃんとサッカー部の彼の会話は、声が聞こえているのに意味がわからない。

 バカみたいだ。チナミちゃんがハルタを選ぶのを聞いた瞬間に、自分の想いをハッキリと知った。おれはチナミちゃんが好きだったんだ。

 ハルタにはチナミちゃんを取られたくないと思っていた。頼れる優等生のユリトでいれば、チナミちゃんはおれを好きでいてくれると勘違いしていた。

 痛いな。おれはまたハルタに負けた。おれは精いっぱい頑張っているのに、頑張りが通用しない負け方で、ハルタに奪われた。

 胸に穴が開いたようで、傷口に風が吹き抜けていくみたいで、痛くて寒い。次にチナミちゃんに会ったら、どんな顔をすればいい? 今晩、ハルタの前で普通にしていられる?

 ぶちぶちと音をたてて、おれの中で、おれを支える糸が切れる。こんなにいっぱいあったんだ。チナミちゃんの前でカッコつけようと、ポーズを取っていた部分。

 だけど、全部じゃない。全部だったらピュアなのに、おれは計算高い。頼れる優等生だねと誉めてくれるなら、チナミちゃんじゃなくてもいいらしい。剣持ユリトという操り人形を吊るす糸は、まだまだこんなにたくさん、切れずに残っている。

「最悪だ……」

 つぶやいたとき、廊下から二人はいなくなっていた。おれは頭を抱えてうずくまったまま、動けずにいた。



 洗濯物を干し終わって、そばの木陰で龍ノ原湾を眺めていたら、ハルタがおれを呼ぶ声が聞こえた。あちこち探し回っているらしい。

「来るなよ、面倒くさい」

 ひとりごちた途端、ギシギシと耳障りに軋みながら、二階の網戸が開けられた。降ってきたのは、カイリの声だ。

「あ、ユリト、いた」

 目を上げたら、窓からカイリが顔を出していた。その隣にハルタが割り込んだ。肩が触れ合っている。

「おーっ、兄貴えらい! 洗濯物、やってくれてたのか。サンキュー!」

「別に。おまえがやったら、グチャグチャになりそうだしな」

「兄貴、噂してたら、ちょうどチナミから連絡来たぞ。絵葉書だ。二人とも元気してるかー、って」

「おまえ、チナミちゃんにここの住所、教えてたのか?」

「教えたよ。だって、しばらく留守にするっつったら、どこ行くんだって訊いてくるからさ。チナミが相手なら、隠さなくていいじゃん。今からチナミに電話しようぜ」

 ハルタはいつチナミちゃんと話をしたんだろう? おれはいつからチナミちゃんと話していないだろう?

 よく倒れるようになって、人を避けるようになった。話をしても、覚えていられないことがあるせいだ。おれは、頭がおかしくなっている。記憶力のよさには自信があったのに。

「電話なら、おまえだけで掛けろよ」

「何だよ、やっぱ機嫌悪ぃ。カイリ、兄貴って面倒くさいんだぜ。一回へそ曲げたら、なかなかもとに戻らねぇんだ」

 ごく近い距離で、ハルタはカイリに笑ってみせた。カイリもちょっと笑い返している。

 じりっと胸が痛んだ。しかめっ面が直らない。一緒に笑えないおれは仲間外れかよ。ハルタのバカ野郎、チナミちゃんの話をしながら、カイリとベタベタするな。

 ハルタには、ベタベタしているつもりなんてないんだろう。あれがいつものハルタの距離だ。だからこそ余計に、おれは腹が立つ。人のふところに飛び込んでいって簡単に受け入れられるハルタに、嫉妬する。

「おい、ハルタ」

 自分でもゾッとするくらい冷たい、低い声が出た。

「何だよ?」

「チナミちゃんにいい加減な返事をするなよ。ちゃんと向き合え。気付いてやれよ、バカ」

 ここにいるのがおれだけだったら、きっと、チナミちゃんからの連絡は来ない。ハルタがいるから、絵葉書が来た。夏の予定を訊かれたのも、ハルタだけだ。おれじゃない。

 そういうサインはいくつもあって、しょっちゅう目に入って、ひとつひとつ数えるたびに、おれはやるせなくなる。

 おれはあきらめたんだぞ、ハルタ。なのに、おまえ、自覚なすぎるんだよ。おまえがいつまで経ってもその程度なら、おれがあきらめた意味、全然ないじゃないか。

 胸の奥をいぶす思いは、決してきれいなものじゃない。恋から逃げ出した自分を正当化しているだけだ。チナミちゃんを想って身を引いたわけでも、ハルタの背中を後押ししてやるわけでもない。

 ふられるとわかっていてチナミちゃんに告白したサッカー部の彼は、なんて立派だったんだろう。おれはハルタに負けるとわかった瞬間、自分で自分の心を捨てた。

 おれは、臆病で卑怯だ。

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