03 ダウンフォース

 おれはそっとかぶりを振った。ネガティブにねじれた胸の内をスバルさんに悟られないように、用心深い笑顔の仮面をかぶっている。

「田宮先生には感謝しています。おもしろい本を紹介してくださったり、大学時代に研究されていたことを教えてくださったり。田宮先生とお話ししてると、楽しいんです」

「中学生にして研究の話が楽しいとは、ユリトくんは将来有望だよ。まあ、実際、田宮先輩やぼくの専門は、サイエンスの中でも特に楽しい研究の一つなんだけどね」

 スバルさんはいたずらっぽく笑った。田宮先生と同じ笑い方だ。ワクワクできる魔法がここにあるんだよ、と自慢するみたいな笑顔。おれの嘘くさい笑顔の仮面なんかより、ずっと純粋で子どもっぽい。

「流体力学って、すごく幅が広い分野で、おもしろいですよね。気体でも液体でも同じ原理が観測されるし、電子の渦も流体力学で説明できるし、宇宙関連の技術ではいろんな場面で登場するし」

「よく知ってるね。ぼくや田宮先輩の大学時代の研究は、主に気体の流体力学で応用寄りだった。つまり、電子や粒子みたいな基礎科学を理論するんじゃなくて、商品として工業化する一歩手前のあたりを研究していたんだ」

「具体的には、風力発電の風車の空力をコンピュータでシミュレートする研究だったんでしょう? 理論上の世界で風車を作って風を当てて、どれくらい効率よくタービンを回して発電することができるか、計算して調べるんだって聞きました」

「風車以外にも、風をつかまえる形をしたものの空力は、いろいろ調べたよ。ヘリコプターのプロペラや飛行機の翼、火力発電や原子力発電のタービン。風をつかまえるのと表裏一体の、風を逃がして活かす構造も見てみたくて、F1マシンもシミュレーションの素材にした」

「あ、F1マシンのダウンフォースですね。風を味方に付ける発想のあのデザイン、カッコいいですよね」

 F1マシンのボディは、空力を徹底的に追究したデザインになっている。このデザインによって、マシンの空気抵抗が限界まで削られると同時に、空気がマシンを地面に押し付ける強烈な力、ダウンフォースが獲得される。

 ダウンフォースがなければ、マシンは安定しない。軽量化するほうがいいんじゃないかと穴だらけのスカスカの車体を作っても、そんなのは吹っ飛びやすくてかえって遅い。空気抵抗を利用して地面に貼り付く走りをするほうが圧倒的に速いんだ。

「ハイスピードで移動する乗り物は、クルマでも新幹線でも飛行機でも、全部そうさ。いかにして空気抵抗を、ダウンフォースや揚力として利用するかが大事。強引にぶつかっていくだけじゃダメだ。うまく、いなしていかなきゃ」

「正面から邪魔しに来る風を味方にするっていう発想、逆転的ですよね。最初にきちんと証明して理論化した人はすごいなって思います」

「だよね。理論的に証明した人、工業的に実証した人、既存のデザインに飽き足らず、より効率的な形を目指して研究を重ねる人、いろいろ。物好きなマニアじゃないと、こういう分野には携われない。ぼくもそのうちの一人だね」

「物好きなマニア、ですか」

「サイエンスが好きで好きでしょうがないマニアだよ。ぼくの場合は、自分で設計した風車の羽の形が本当に好きで、ずっと見ていても飽きない。いや、もっと美しくしてやる方法はないかと、いつも考えてる」

 目を輝かせるスバルさんに圧倒される。何でこの人はこんなに無防備でいられるんだろう? 物好きなマニアだなんて、どうして平気で名乗れるんだろう?

「スバルさんは、自分の好きな研究を仕事にされてるんですね」

「ああ、ちょっと語りすぎかな。ごめん」

「いえ……うらやましいです」

 おれは目を伏せる。スバルさんが柔らかく笑う気配があった。

「ぼくなりに迷う気持ちもあったけどね。どんな形でサイエンスに携わるのがいいのか。都会の研究所でこれをやるか、現場である離島に拠点を据えるか」

「やっぱり、迷ったんですか?」

「迷ったよ。だって、都会の大きな会社で風力発電のプロジェクトリーダーにでもなれば、大出世間違いなしだ。だけど、ぼくは現場を選んだ。生まれ育った離島という環境で、好きな研究ができるなんて、最高じゃないか」

 龍ノ里島を始めとする離島には、風力発電や海流発電、太陽光発電の施設がたくさん建てられている。住む人が減って余った土地を、次世代エネルギーの発電施設の実験場として、いろんな企業に貸しているためだそうだ。

 スバルさんも実は、大きな重工業会社の社員として龍ノ里島に派遣されている。島暮らしの気楽な格好で発電施設を管理する仕事で、都会のオフィスでネクタイを締めて働くのと同じ給料をもらっているらしい。

「後悔や未練、スバルさんにもありますか?」

「もちろんあるよ。ぼくも一度は島を離れて暮らしたことがあるから、ここの不便さは身に染みてわかる。コンビニもファーストフード店もない。新聞の朝刊は夕方にしか届かない。台風が来たら船が止まって、店から商品が消えてしまったりね」

「ぼくはまだここに来て二日目で、きれいな場所だなってくらいにしか思っていないけど、生活するのはやっぱり大変なんですね」

「大変だ。でも、ぼくは島が好きなんだよ。龍ノ里島は特にね、生まれ故郷ではないのに、すごくなつかしい。できれば龍ノ里島から離れたくないけど、八月いっぱいで全員移住するって決まっちゃったから、こればっかりは仕方ないな」

 最後の夏、と田宮先生から聞いたとき、どういう意味かと質問した。何かの比喩かと思った。でも、島に人が住む最後なんだと、本当に文字どおりの意味なんだと説明されて、言葉に詰まった。そんな寂しい場所が日本にあるなんて、想像したこともなかった。

「人がいなくなって、建物だけ残るんですか?」

「うん。家も学校も神社も波止場も、そのまま残していく。だんだん自然が呑み込んで、いつか壊れてしまうのを待つ。壊そうにも、ここには重機もないし、予算も付かない。どうしようもないんだ」

「廃墟の島になるんですね。スバルさんが龍ノ里島に来たのは、八年くらい前でしたっけ? そのころには、ここが無人島になるなんて予想できなかったんじゃないですか?」

「いや、わかってたよ。こんなに早いとは思ってなかったけど、いつかはきっと、人が全員いなくなるのはわかってた。龍ノ里島との別れは、最初から覚悟してた」

「覚悟しなきゃいけないのに、ここに来たんですか? どうして?」

 スバルさんは、嘘偽りのない笑顔で答えた。

「好きだから。ユリトくんは、出会った瞬間に魂が震える体験をしたこと、ない?」

「魂が震える、ですか?」

「ありふれた表現で申し訳ない。人でも島でも町でも、研究や興味の対象でも何でもいいんだけど、その理由を言葉で表せないくらい本気で、一瞬で好きになってしまうものって、あると思うんだ。そういうとき、魂が震える」

「わかる気がします」

 おれにとって、プラモートがそうだった。一台六百円、全長十五センチちょっとの自動車模型。

 かつてはブームになったらしいけれど、おれが小さいころなんて、まわりの子どもは誰もプラモートをやっていなかった。たまたま近所に模型屋があって、たまたまそこにプラモートが売られていて、たいして高くないことがわかって、お小遣いで買ってみたんだ。

 指先に神経を集中して、父親に借りた工具を使って、細かいパーツを組み立てる。プラスチック製の小さなギザギザの組み合わせがモーターの回転を車軸に伝えて、コインくらいの直径のタイヤが勢いよく回る。シンプルなおもちゃだ。

 シャーシに動力を組み込んで、ボディをかぶせて、キャッチを留めて、車体の裏のスイッチを初めてオンにした瞬間、その軽快なモーター音のとりこになった。家の狭い廊下を疾走するプラモートの雄姿は、すごくキラキラしていた。

 スバルさんは、優しい声で噛みしめるように語る。

「ぼくが龍ノ里島を選んだ理由は、特にないよ。ただ、どうしようもなく心を惹かれただけ。大好きなこの島の最後の時間に居合わせることができるのは、きっと幸運だ。こんな寂しさを味わえば、ぼくは一生、この島が好きだったことを忘れないだろうから」

 終わってほしくないと願っても、必ずいつか終わりは訪れる。島も人間も同じだと、カイリが言っていた。

 窓の外からハルタの大声が聞こえてきた。釣りから戻ってきたらしい。スバルさんがクスッと笑った。

「ハルタくんは元気がいいね」

「うるさくて、すみません」

「いやいや。ああいう元気いっぱいの男の子は、昔からうらやましかった。ぼくは本が好きなインドア派だったからね。今思えば、もったいないな。せっかく島で暮らしていたんだから、もっと外で遊んでおけばよかったよ」

 ただいまーっ! と、ハルタが勢いよく玄関を開ける音がした。カイリが少し笑っているのも聞こえた。

 ああ、まただ。ハルタばっかり、カイリと仲良くしている。あっという間に人と友達になって、一生忘れられないくらいの思い出を簡単に作ってみせる。

 うらやましいを通り越した嫉妬が、おれの胸の奥に、じわりと黒い染みを作った。頭痛がぶり返してきた。

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