おまけ

ティーチングアシスタント

 大学にはティーチングアシスタント、略してTAというあまり聞きなれない役職がある。これは大学院生が雇われ、大学教員の講義の補佐をするものである。

 鹿鳴館大学大学院に通う森百花も、その一人だった。彼女の仕事は、講義の少し前に教員の研究室を訪ねるところから始まる。

「紫木先生、失礼します」

「……どうぞ」

「あの、どうしたんですか先生?」

 森が部屋に入った瞬間目にしたのは、机に突っ伏してもごもごと唸る紫木優の姿だった。いつもの暗いジャケットから顔をあげた彼は、一段と険しい顔をしている。彼は普段から真顔が貼りついたような表情をしている人間だったが、今日は明らかに苦しそうなしかめっ面になってしまっている。

 紫木は腹を擦りながら小さな声で答えた。

「あぁ……なんか、お腹の調子が」

「大丈夫ですか? 今日は休講にしたほうが」

「いや、ここまで来たんだしやりましょう。振り替えも手間です。今日はこの一コマだけですから……荷物をお願いします」

 森はのそのそ立ち上がる彼を心配そうに見つめながら、いつものように彼の机からトートバッグを手に取った。講義のための資料が入ったものだ。義足ゆえに片手で常に杖を突いている彼にはいささかの大荷物で、TAである森が運ぶのを手伝うのがいつもの業務だった。

 紫木は普段の倍ほどの時間をかけ、遅れて講義室へたどり着いた。彼が今日担当するのは心理学統計法の講義だった。パソコンの並んだ教室にはすでに学生が着席している。紫木の明らかに調子が悪そうな様子に、学生たちは無言で顔を見合わせる。

「今日は、あまり調子がよくないので、座ったままで……」

 紫木は備え付けのマイクを手に取ると、ぼそぼそと言った。聞き取りにくい音声に学生が耳を澄ませる。

「教科書は二〇九ページから。今日は要約統計量の考え方……」

 ぷつりと、紫木の声が途切れた。教室の最後列で待機していた森は、マイクの調子までおかしくなったのかと危惧した。しかし彼女が首を伸ばして様子を見ると、紫木が丸くなって硬直し、喋るのをやめているのが目に入る。

「……先生?」

 たまらずといった様子で、最前列の学生が言葉を発した。紫木は小さく首を振る。

「……だめか」

 その一言をかすかにマイクが拾った。

 次に教室に響いたのは、どんっと何かが床へ落ちる音だった。

 紫木が椅子から転がり落ちて倒れる音だった。

「先生……先生っ!?」


(『献身の規定因』に続く)

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アラフォー刑事と犯罪学者 新橋九段 @kudan9

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