第六章 南漢大宮殿


 この年(九一一年)、南海王に封じられた劉隠が逝去する。小康を得て、安心した家人が眼を離したわずかなときを見澄ましたかのように、息をひきとっていた。

 ひとり葛業が、最期をみとった。

「兄者はなんと仰せられたか」

 遅れて帰陣した劉厳が葛業に糾した。めずらしく葛業が口ごもった。

「わが母のことであろう。長く気に病んでおられた」

 韋氏が、劉厳の母段氏になした仕打ちのことだ。当時、劉隠は十六歳、多感な盛りで、葛業はまだ傅佐ふさ(もりやく)にはついていない。

 劉隠は悩み、思い余って父をなじった。

「人として許せぬ所業、父上はなんとお考えか」

「過ぎたことを蒸し返すでない。騒げば蛟龍みずちたたる。いずれ劉厳にはわしから話す」

 劉謙の額に苦渋の色がにじんだ。

 ーー父も悩んでいる。しかし母を許すわけには行かぬ。

 それから劉隠は意識して母を避けたが、父に扈従こしょうして府邸を離れる機会が多くなっていたから、人に取られることはなかった。かわって幼い劉厳には親身に接した。

 六年後、父のあとを追うように母もみまかった。

 ー―これが蛟龍みずちの祟りか。

 母の死に様を見て、劉隠は身の毛がよだった。

「祟るのはおれまででよい。劉厳には、この嶺南に福地の園を築いてもらわねばならぬ。飛龍となるのは劉厳だ。さよう仰せられて、ご他界に」

 葛業は眼を伏せ、霊前に深々とこうべをたれた。劉厳もまた瞑目し、冥福を祈った。

 享年三十八歳、当時としても早い逝去といえる。南漢国の基礎を作った実質的な建国の祖だ。事実、劉隠の清海節度使就任をもって嶺南統一のはじめとし、劉氏五帝六十七年とするかぞえ方もある。厳密に南漢国だけなら、四帝五十五年となる。


 翌々年の夏、劉馬両家の聯婚式が執り行われた。広い式場には鮮やかに彩られた、大小さまざまな扇が張りめぐらされている。

「若、これはいったい、なにごとですか」

「戦をやめて商人に生まれかわる門出、末広がりの縁起かつぎだ。派手に祝ってくれ」

 眼を丸くする葛業にかまわず、劉厳は上機嫌で盃を重ねた。

 ついでながら、扇は日本の発明だ。平安・醍醐だいご天皇のこの時代、唐土に伝わり、やがて西欧にも伝播する。


 劉隠亡きあと六年間、劉厳は兄にならい、さい・象など珍奇な動物や金銀・名香を惜しみなく貢納しつづけ、中原の梁王朝にたいする礼を絶やさなかった。そして節度使や南海王などすべての官爵を引き継いだ。さらに南越王に封じることを求めたが、いまの蘇州・浙江に割拠する呉越王銭镠せんりゅうに気を遣った梁朝の末帝は、これを拒否した。

「己が頭の上の蝿も追えないで、天子面が聞いて呆れる。名だけの朝廷に仕えてなんになるか」

 すでに予見していた劉厳は、ぎゃくに後梁にたいし朝貢を断ち、自立したのだ。

 番禺ばんぐう(広州)を都に大越だいえつ国を建て、みずから皇帝の位についた。祖父の劉仁安を太祖文皇帝、父の劉謙を代祖聖武皇帝、兄の劉隠を烈宗襄皇帝とし追尊した。劉厳二十九歳の秋だ。広州を興王府と改称。翌年、国号を漢とあらためた。史上、南漢といわれる。


「容州の水戦のおり、おれの求めに応じたのはなにゆえか」

 皇后に冊立した大越国夫人馬氏に訊ねたことがある。

「こちらの船に飛び込んできたあなたが龍に見えたから。これが飛龍かと得心したわ」

岳父ちちにいいふくめられていたのではないのか」

「いいえ、すこしも」

「おれは楊洞潜から聞いていた。楚王にたいそう美しい姫がいる、奥方にどうかと」

「利かん気のじゃじゃ馬娘だとも、お聞きでしょう。でも、私でよろしかったのかしら」

「善いも悪いもない。ひと目みただけで心をひかれた」

「まあ、お上手だこと」

 そういって馬氏は、声を上げて笑った。

 ひと目惚れにせよ、楚の浸蝕に手を焼いた末の苦肉の策、休戦講和を念頭においた政略結婚に違いない。

「戦はもうやめにせよ。劉氏は商賈しょうこすえだ。早く本業に戻れと、先祖が嘆いていた。おれも戦は好まぬ」

 楚だけではない。江淮こうわいの呉と修好し、呉越には辞を低くして接した。呉越は平安朝の日本に入貢し、南海交易にも積極的だ。銭镠に学ぶことは多い。荊南に王定保を遣使し、劉隠の娘が皇子に嫁したびんとも和親関係で結ばれている。こうした善隣外交を積み重ねたうえでの後梁との断交だった。のちに遅れて建国した南唐とも友好裡に交流している。

 内外の交易ひと筋、みずから覇権を争う気のないことは、だれの目にも明らかだ。

「でも皇帝だと偉すぎて、商いを続けるにはどうかしら。王のままがよいと馬殷ちちはいっていたわ」

「おれの狙いはくに相手の東西交易だ。名乗りなぞ唐でもかまわんが、おれは劉氏だから漢だ。漢から来た劉だといえば、ひとことで相手には通じる。大漢帝國の大王なら皇帝と名乗って遜色ない」

 漢の名は、いにしえより四海に鳴り響いている。劉厳は馬氏の手をとって、明るくいい放った。

大食タージを知っているか。西方航路を拓き、漢の名をもって、ともにタージへゆこうぞ」


 劉厳にこだわりはない。王定保・楊洞潜ら劉隠の家臣をそのまま幕僚の根幹に据え、唐制にならって南漢国の官制を敷いた。農業増産を柱に経済発展を重視し、通商交易を奨励した。文化建設を謳い、学校を建て、科挙の制度を導入し、人材を養成した。ことに中原文化の嶺南伝播を積極的に推進した。文治国家を標榜、百官すべてを文官で占めた。戦争放棄の宣言にひとしい。近隣諸国は驚きもしたが、安心して南漢の商人を受け入れた。


 劉厳の代、文徳殿・南宮・玉堂珠殿・南薫殿・秀華宮・甘泉宮など名だたる宮殿を建立、金銀宝珠で飾りたてた。なかでも昭陽殿はその豪華さで群を抜いた。金で屋根を葺き、銀で床を張った。床下に水路を設け、底に真珠を敷き詰めた。水晶琥珀こはくを磨いて日月とし、東西二本の玉柱のうえに据えた。ひさし・門柱・欄間らんま鴨居かもいにいたるまで白銀で化粧した。

「この世の極楽、福地もかくやあらん」。

 人びとは驚嘆し、南漢大宮殿を伏し拝んだ。

 金色や赤青の光彩放つ華麗な宮殿で、真珠や翡翠などの珠玉を手にした劉厳は、全中国いや世界の商人と接見した。内外の特産物に先立ち、嶺南の産品を披露した。釉薬うわぐすりの色が透明でかつ光り輝く「南方青磁」、集団採集で増産に成功した「媚川真珠」、高品質で名高い東莞とうかんの香料「莞香かんこう」、全国銘柄「淮浙わいせつ塩」にならび定評ある「えつ塩」、さらには荔枝湾・芭蕉林・素馨そけい(ジャスミン)畑など興王府自慢の遊歩苑ででるしゅんの果実・花卉類も忘れていない。

「素馨はよい香りがするうえ、花の油を蒸して液をとり顔に塗ると、皮膚がつやつやと滑らかになって、それは美しいおなごに生まれかわれますぞ」

 商人然とした劉厳の口調が滑らかなのも道理だ。往来するものはみな客人であり、敵も味方もない。需要と供給が均衡し、物産の取引ができれば、それでいい。交易が成立し、劉氏の航路を利用してもらえれば、二重の稼ぎになる。戦を放棄し、商いに専従した南漢国は、日増しに富み栄え、劉厳はわが世の春を謳歌する。このまま行けば、南漢国が福地の園になる日も夢ではない。

 しかし、好事魔多し――、福地の園の実現は、いま一歩のところで足をすくわれる。


 建国の九年目、漢宮で白虹はっこうが見られた。「白虹、日を貫く」。至誠が天に感応して現れた瑞祥として、虹を龍に見立て、「白龍」と改元した。瑞祥にあやかり、劉龔りゅうきょうと名も改めた。「龔」字の共は、共進(天子に食事をすすめること)を意味する。その一方で、白虹は兵乱の前兆とささやかれ、のちに龔の字に不吉の烙印が押される。

 建国の十四年目、交州征伐に出た漢将梁克貞が帰路チャンパに立ち寄り、国王秘蔵の宝貨を分捕って、意気揚々と凱旋した。葛業の急報をうけ、劉厳こと劉龔は声を荒げた。

「これこそまさに海盗の所業、われらが取締まるべき悪行ではないか」

 かつての劉氏の水軍は建国後、南漢政府に編入され、長官は舵も握れぬ文官が担っている。葛業が黙って身を引いてから久しい。劉氏の威信は、地に堕ちた。

 建国の十八年目、南漢皇后馬氏崩御。ついに、ともにタージを見ることはなかった。

「兄たちがまた嶺南を侵略しだしたわ。ごめんなさい。あまりお役に立てなかったみたい」

 命の消える寸前まで詫びて涙する馬皇后に、劉龔はなすすべなく返すことばに詰った。往年の威勢衰えた馬殷の末期、楚漢の国境は軍靴で踏みにじられた。


 晩年の劉龔は人がかわった。横暴な態度を見せ、私欲をむき出しにした。贅沢三昧で、酒色に溺れた。諫言を退け、宦官をのみ重用した。みだりに酷刑を加え、囚人が苦しみ悶えるのを見て喜んだ。

 建国の二十五年目、亡くなる半年まえのことだった。劉龔は病臥していた。しきりに夢を見た。

 飛龍の夢だ。正夢まさゆめなら飛龍は人に幸いをもたらす。逆夢さかゆめなら蛟龍みずちとなって人に祟る。

「龔に不吉の意あり」と指摘され、名の文字をかえた。天の上に龍の字を置き、げんとした。造字である。新しく文字をつくり、己が名にあてたのだ。天上の龍、天翔あまがける龍。今生こんじょうでなしえぬ願望を夢寐むびに託したのであれば、まだ許される。正気で思ったのであれば、傲岸不遜といわざるをえない。


 劉龑りゅうげんの最期をみとったのは、やはり葛業だった。劉隠の死から三十一年経っていた。

「思えば早いものよ。もはやタージにはいけそうもないが、これは祟りのせいではない。おれがみずから招いた報いだ。福地の園の築造をあきらめたら、我欲に歯止めが効かなくなった」

「なんのまだまだ。あきらめるには、ちとはようございますな。飛龍天にあり、せっかくのよき御名ではありませんか。あきらめるのは、一、二度、飛翔してからでも遅くありますまい」

「不肖のせがれどもに愛想が尽きた。十九人も子がいながら、いずれも愚物ばかりだ。はたちに満たぬ弘操を、戦にやるのではなかった。いまさら飛翔しても、無益なことだ。弘操が戻って来ることはないし、国と財貨を残しても愚物どもに食い散らかされるだけだ。はたしておれは、時代を早まったのか。福地の園を築くには、なお時を待つべきだったのか」

「万王さまのこと。時代に先駆けるは王者のならいとはいえ、口惜しきことにございます」

 万王劉弘操、四年まえに安南ベトナムの戦役で亡くしている。白藤江バックダンこうの戦いだ。戦に勝った呉権ゴークエンは王を名乗り、古螺コーロアを都に北ベトナムで独立した。古螺はいまのハノイの一部だ。

「してこのさき、いかように――」

 もう劉龑は聞いていなかった。軽い寝息を立てていたが、一瞬、音が止まった。とつぜんくわっと眼をむき、また静かに閉じた。こときれていた。享年五十四、廟号は高祖。

 ーー魂が龍になって飛翔した。現世で遂げられなかった夢を後世に託して飛んだのだろう。亡くなる直前に改名したのは、飛龍となる予言だったに違いない。晩年、「時代がついてこない」と酒に酔ってはよく愚痴をこぼした。そのくせ、戦は商売の敵だと、戦を放棄して迷わなかった。武器ではなく算盤そろばんで戦って負けなかった。すでに世間の常識を超えていた。「時代を早まった」というからには、のちの世で福地の園を築きなおす確信があるのだろう。後世のいつの時代をいっているのか。飛龍となって飛んださきには、なにがあるのか。

 枕辺で寝入ったように眼を閉じていた葛業だったが、脳裏では忙しく思案していた。

 ーーはたして劉龑は飛龍たりえたか。来世で、福地は実現しえるのか。飛龍を追って見定めてみたい。


 高祖劉龑は、生涯に十九人の男子を残した。内、はじめのふたりは早世し、九番目も戦死している。劉龑病没のあと即位したのは、第三子だ。皇妃趙昭儀の子だが、凡庸で荒淫、選ばれたのは、さきに生まれたという理由でしかない。在位一年で、第四子の弟にしいされる。このふたりは月違いの同年生まれ、つまり異母兄弟なのだ。十七年後、兄殺しの三代皇帝も身まかり、その長子が位を継ぐ。後主と呼ばれる。

 特筆すべきは、後主には叔父にあたる父帝の兄弟ー祖父劉龑の子十九人のうち十四人の没年が、いずれも後主の即位以前だったという事実だ。わが子に帝位を相続するために、障害となりそうな弟たちをひとりずつ殺していったという説が有力だ。兄殺しの疑惑の口封じを兼ねていたのはいうまでもない。


 後主の時期、中原を制して建国した宋朝は天下一統を目指し、十国征討に着手した。まず荊南・楚・後蜀を併合し、ついで南漢に迫った。後主の十四年目、宋軍は興王府を攻略、南漢を滅ぼした。後主のめいで大宮殿に火が放たれ、劉氏の財宝のすべてが灰燼に帰した。


 葛業は羅浮山に向かっている。白寿を越えてなお、方術の修行をやり直すつもりでいる。葛業の倍はあろうかという歳の羅浮山人が、再度の入山を許したのだ。

「いまいちど修行し、尸解仙しかいせんとなって、飛龍のゆくえを見定めてみるか」

 尸解仙になれば最長千年の時空を超えられる。

 飛龍を追って、葛業は羅浮の山中に分け入った。


        (完)

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飛龍天にあり ははそ しげき @pyhosa

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