第三章 兄弟龍


 愚直ではあるが軍役ひと筋に二十余年、かつて若獅子と謳われた父・劉謙は病を得て亡くなった。

 劉隠は二十一歳、かろうじて成人に達していた。劉厳はまだ六歳にすぎない。

 劉隠は幼少より利発で、気質は英邁、勇略ひとに優ると評判の神童だった。深く父の寵愛をうけた。少年のころから父にしたがって領内を駆け回り、実践のなかで軍事を学び、身につけた。龍王のはなしを知るものは、だれもが劉隠を龍の化身だと信じた。

 しかし祖父の仁安だけは、言下に否定した。

「性格が温和にすぎる。龍の猛々しさに欠けている」

「ならば、人をつけよう。羅浮山の葛業かつぎょうではどうか」

 生前、韋宙が羅浮山人に請い、羅浮山の方士を推挙してもらった。葛洪十八世の子孫で、方術の達者だという。仁安は、まず自分の手もとに一年おいて海運の現業を仕込み、じっくり観察した。葛業という男は、集団のなかにいると目立たない。人前で弁じたり、表にしゃしゃり出て人を指図したりすることはない。人のかげに隠れて、黙々と作業する。もの覚えがよく、行動は早い。いちど聞いたことは、二度訊ねない。応用が利き、既成の観念にとらわれないから、口で説明をうけるまえに、人の振りを見てみずから実践し、からだで覚えることができる。

 年齢は劉隠の三つ上だが影に徹し、必要に迫られないかぎり表に出ない。傅佐ふさ(もりやく)として申し分ない。劉謙も同意し、劉隠の初陣いらい、騎馬隊の先鋒に配属し、先駈けを競わせている。

 方士とは方術修行者を指す。修行の範囲は、医経いけい(医学)・経方けいほう(薬学)・房中ぼうちゅう(性技養生法)・神仙しんせん(神仙術)から天文(星占)・暦譜(暦学)・五行ごぎょう(五行占)・蓍亀しき亀卜きぼく筮卜ぜいぼく)・形法(手相・人相などの観相)、さらに雲気の観察(気象学)や風水(地勢占)・算命(運命判断)・呪術・武技など多岐にわたる。一生かけて修得すれば、仙人になれる。しかし、凡人に修得は難しい。天仙・地仙・尸解仙しかいせんなど仙人になれるのは稀有な例なのだ。葛業は途半ばの修行者にすぎない。

 父の劉謙は、劉隠にとって完璧な模範といえる。裏おもてがなく、常住坐臥すべてに欠点を見出しがたい。武人としても一流で、仰ぎ見る以外、まねようがない。劉隠は無意識のうちに圧倒され、気が萎縮してしまっている。温和な性格は、卑屈の裏返しでしかない。

 だから葛業は、緊迫した修羅場で平然と劉謙の馬前を横切り、正面の敵を斬って見せた。劉隠も葛業にならい、父の馬前で敵にあたった。ぶざまな姿は見せられない。必死の覚悟が、臆する心を追いやり、劉隠の面貌から温和なゆるさが消え、龍に見紛う厳粛な逞しさにかわっていった。


 劉謙が残した領地と封州刺史の座は、すんなり継承されたわけではない。逞しく変貌したとはいえ、劉隠の若さだと実戦経験を甘く見て、侮るものもいる。ましてや父の代からの宿将が、要所をしっかり押さえている。黙って劉隠の下知にしたがう柔な徒輩やからではない。長子というだけでは、使いこなすどころか、逆にあごで使われかねない目の上のこぶなのだ。そこで、気兼ねなく自在に使える人材を、外部に求めた。

 唐末、中原の戦禍を逃れ、多くの漢人が南遷した。一族をひきつれて自発的にうつるもの、任期が切れても戻れない元官吏、左遷あるいは流罪にあってそのまま居ついてしまったもの。多士済々、選り抜きの逸材ぞろいだ。資金はある。用途に応じて採用した。のちの南漢で創業の賢臣と謳われる王定保・趙光裔・楊洞潜らは、このときの新参だ。なかには荒っぽい作業や裏の仕事の適任者もいる。葛業が活発に周旋し、目から鼻へ抜ける巧者や強面こわもての豪傑に交じり、得体の知れない男たちが劉隠の陣営に寄り集まった。


 死の直前、劉謙が言い残したことばがある。遺命いめいといっていい。

「いま天下は乱れ、もはや唐朝は立ち行かぬ。このときにあたり、封州は大事をなす地ではない。広州に向かって勢力を拡張せよ。封州に留まっていてはならぬ」

 みずからの生涯をかけて育てた封州でさえ、「こだわるな」と切り捨てたのだ。

 劉謙が亡くなってまもなく、地元の有力な豪族が劉隠に詰めより、「封州を渡せ」と露骨に迫った。危険を感じた劉隠は諾意を装って、その場を逃れた。むろん、そのままでは済まされない。封州にこだわりはないが、脅迫に屈したとあっては、為政者は務まらない。

「お任せいただきたい」

 葛業がことば少なに劉隠の意図を察知し、槍をとって立ち上がった。譲渡の交渉を名目に、かねて用意の荒くれ軍団をひきつれ、問答無用の実力行使におよんだのだ。

「ひとりでも生かしておいては禍根が残る。すべて殺せ」

 白昼、正面切ってくだんの豪族の屋敷を襲い、一族郎党百数十人を皆殺しにした。無法には無法をもってあたる。この時代、だまし討ちだと非難するものはいない。

「この若僧、なかなか見所がある」

 かえって、ときの嶺南節度使劉崇亀が賞賛した。右都押衙に封ぜられ、賀江一帯の警固を託され、封州刺史に推挙された。身をもって父の衣鉢をかちとったのだ。

 この劉崇亀もほどなく病死し、唐の宗室薛王李知柔が後任に充てられ、広州に向かった。ところが劉崇亀の手下てかの牙将が叛旗をひるがえし、赴任を阻んだ。劉隠は兵をひきい、叛乱軍を討伐、李知柔の広州入城を先導した。これを弾みとして積極的に東への勢力伸張につとめ、やがて端州(肇慶ちょうけい)を管轄下においた。広州は東に八十キロ、目睫もくしょうの間にある。

 唐朝滅亡まであと十年、嶺南は東西二道に分かれ、軍閥や地方ボスが蜂起し、割拠した。劉隠は広州を守護する清海節度使を助け、割拠勢力を討伐したが、五嶺の南北にはなお少なからぬ敵対勢力が残存した。代表格は嶺北湖南、楚国の馬殷ばいんにほかならない。

 五嶺を越えて侵入する馬殷を牽制しつつ、劉隠は行軍司馬・節度使副官などを歴任、軍政をまかされ、広州の兵権を握った。その後、清海節度使と静海節度使を任じられ、広・交二州を守護した。交州はいまの北ベトナムで、主にハノイの守護にあたる。


 一方、「武装商人」劉仁安の海運業は順風満帆、日の出の勢いといっていい。馬殷の軍勢が侵入し、蚕食された河川もあったが、劉隠の守護地域が拡大するつど漕運権も次々と増え、これを盾にとった運行取締りの独占支配は、ほぼ嶺南の全域におよんだから、みかじめ料収入で劉氏の倉は唸った。外洋交易は黄巣の乱で番商が大量虐殺された直後こそ衰退したが、仁安が率先して海事の要路に働きかけ、たちまち番商の欠けた穴を埋め、みずからも大型の外航船を新造し、南海航路に投入している。


 劉隠が清海節度使を拝命したとき、劉厳は十六歳で副使になった。ずいぶんと大柄だったらしく、背丈は二メートルにも達し、手は膝のあたりまで下りたという。

「弓をやるといい」

 劉隠のすすめで長弓をはじめたが、騎射の腕にかけては劉厳の右にでるものはなかった。

「漢の飛将軍李広の再来よ。小李広だ」

 周りは囃し立てた。しかし本人は不満で、「それ以上だ」と胸を張った。怒涛渦巻く波間で腕を競えば、「李広を越える」と豪語したものだ。

 李広は匈奴との戦で勇名を馳せた将軍だが、石に矢を立てたことでも知られている。あるとき草原で石を虎と見誤り、弓で射たところ命中した。やじりは深々と石に食い込み、弾き返されなかったのだ。その後、だれが試しても石に矢は立たなかった。

 父母を早くに亡くしていたので祖父の仁安が哀れみ、可愛がった。機会あるごとに川船に乗せ、操舵の技術や帆船の操作を教えた。小船に乗って弓を射る修練もこのころはじめ、激しい流れをものともせず、百発百中、目に見えるものなら小さい的でも外さなかった。謙虚さには欠けるが、豪語するだけの下地はあったとみていい。

「わしのあとを継いで交易を業とし、四海を家となせ」

 日ごろ仁安は、「商いで世界に名を成せ」と孫にいって聞かせていた。

爺爺イェイェ(おじじ)、タージとはどんなところだ。タージに行ってみたい」

 早熟な少年は、仁安をおじじと呼んでなつき、幼い日の記憶を蘇えらせた。

 そんな孫をいとおしげに見て、仁安はいっそう眼を細め、猫なで声で誘った。

「こんど遠洋航海に出る。乗ってみるか。わしはもう教えられぬで、葛業にしたがえ」

 葛業には最初の一年、手元において海運業の修行をさせ、その上で劉隠の傅佐につけた。劉隠がひとり立ちしたいま、ふたたび仁安のもとに戻っている。性格はかわらず、黙々と影働きに徹している。劉厳との歳の差は、親子ほども違う。

 劉厳が仁安にしたがって外航船に乗ることは、劉隠にも異存はなかった。即座にこれを認めたが、かわりに条件をつけた。

「祖父によく学び、航海から戻ったら、副使として清海節度使のわしをけてくれ」

 劉隠は外祖父の韋宙から野望の実現を託されている。その意に沿って父劉謙が鍛えあげた軍事集団を引き継ぎ、兵権は嶺南全土におよんでいる。資金にも不足はない。独立割拠の旗揚げは目前に迫っている。地の利、人の和を得て、天の時を待つのみだった。


 初対面の船上で、劉厳をまえに葛業は常とかわらぬ表情でいた。その実、腹のなかでは思案している。

「非はわしにあるのだが、劉厳のおごった性根を叩きなおしてくれ。わしが甘やかした」

 と、仁安から懇請されていたからだ。劉厳は倣岸不遜の態で腰に大太刀おおだちを提げている。

「背丈もでかいが太刀も大きいな。船上では大太刀は無用だ。小太刀を使え」

 いいつつ無造作に近寄ると、葛業は劉厳の肩に手をおく振りをして隙を誘い、反対に足を払った。どっと倒れた劉厳は、起き上がりざま腰の大太刀を抜こうとしたが、葛業の手にした短剣が一瞬早く、劉厳の咽喉もとにあてられていた。

「分かるか。船上では重心を低くし、揺れるに逆らわないことだ。手にする得物は、からだになじんだ小さなものの方が使いやすい。戦に備え、弓は鏑矢かぶらやを修錬しておけ」

 だれ憚ることのない怖いもの知らずの劉厳が、その瞬間から葛業に心服した。

 事の次第を見届けた仁安は、日焼けしたしわ顔をほころばせて葛業の手練を喜んだ。

(葛業に学べば、こやつも飛翔できる。劉隠とふたつならんだ兄弟龍か、あるいは――)

 葛業は劉厳を「わか」と呼んで、己の持てる術のすべてを伝授した。劉厳は苦行に堪えた。

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