終幕:サミュの図書館

 リュミエール皇国国立図書館は、首都ウィーレの中心部に位置する。石畳でしっかり舗装された道を行けば、その荘厳で趣ある佇まいに魅了されることだろう。白亜の外装はどこか物々しさや歴史を感じなくもないが、扉を開いてしまえばそこは空想と幻惑の世界が待っている。かつて一人の少女が古本の香りに興奮したように。


 昼休みはあと五分ほどで終わってしまう。束の間の休息に包まれていた図書館の扉が、ギィと軋んだ音を立てて開いた。金の長髪、蒼い瞳。ややつり上がった眉は駆け足でやって来たためだ。息は上がり肩も大きく上下している。走り慣れていないせいでうまく呼吸ができていないようだった。

 少女は片手に大きめの紙袋を提げてつかつかと図書館を闊歩した。肌は怒りと疾走で上気している。紙袋には老舗の文房具店「ランドヴォー社」のロゴが入っていた。


「サミュさん!」


 図書館の奥、窓際で一際南からの陽射しが目映い場所。修復士サミュエル・ジュブワの作業スペースだ。机に積み上げられた本は相変わらずの高さを誇る。埋もれるように倒れていたサミュエルを、助手であるセレスティーヌは開口一番怒鳴り付けた。


「何度言ったらわかってくれるんですか、マスキングテープの不足は前日に言ってくださらないと用意できないって!」

「でも朝に言ってもセレスが買ってきてくれるじゃん」

「私の昼休みが七割なくなってしまうんですっ」


 ぷりぷりと怒りながらもセレスティーヌはマスキングテープを出し始めた。机に並べるだけでは散らかってしまうので、数歩先の棚の引き出しを開ける。今日使うもの以外はここにストックしておくのだ。


「昼休みなんだから休めばいいのに」

「サミュさんを午後暇人にするわけには行きませんから」

「はっきり言うようになったよね、きみ」

「はっきり言わないと理解してくださらないとわかりましたので」


 皮肉の叩き方を覚え始めたセレスティーヌは、胸にネームプレートを提げていた。「リュミエール皇国国立図書館 司書 セレスティーヌ・リシュリュー」と書かれている。


「私も四六時中サミュさんのお世話をできるわけではないんですから、少しはご自身で管理してください」

「えー」

「えー、じゃありません」


 セレスティーヌは額に浮いた汗を菫色のハンカチーフで拭いながら言った。


「私も午後からはフロントですし、ずっと修復に立ち会えるわけではありません。それにサミュさんなら、お一人でも十分お仕事ができるでしょう?」

「……まあ、きみが半分しか手伝ってくれないから」

「恨むなら館長うえを恨んでくださいな」

「うう、ぼくをこき使うなんてさ。アルベールにはハネムーンで一週間も休暇をあげたのに」


 サミュエルはひとしきり恨み辛みを吐き出した。セレスティーヌが正式な司書に就任してから愚痴が増えたことは言うまでもない。


「ぼくも結婚したらお休みもらえるかな」

「現実逃避しないでください」

「割と本気だけど」


 マスキングテープを棚にしまい終えたセレスティーヌの手を掴む。『虹色のメルヒェン』で繋いで離れた、あのときと同じあたたかさ。ランドヴォー社から疾走したせいではない。サミュエルにとってセレスティーヌの手はいつだって同じ温もりを与えてくれる。


「きみが教えてくれるんだろ? ぼくのこの感情を」


 ぐん、と腕を引いてしまえばセレスティーヌが身体をもつれさせる。窓際に寄りかかり彼女を受け止めたサミュエルの顔は、ずっと近くにあった。太陽に反射する銀の綿毛、チーズを溶かしたような瞳。食えない顔をしたサミュエルが、ゆっくりと唇を開く。


「ぼくはいつでも待ってるからね?」

「~~~~ッ、仕事に戻ります!」


 顔を真っ赤にしたセレスティーヌがサミュエルを突き飛ばすように離れる。ニコニコと嫌な微笑みを浮かべる上司が憎らしい。何も考えていないように見えて行動力があるから厄介だ。セレスティーヌと修復を繰り返すことで、彼にも転機があったらしい。

 わかりやすいくらい赤面したセレスティーヌが、午後からの持ち場であるフロントに向かっていく。あの顔がどれくらいの時間で冷めるのか。なんだか駆け引きをしているみたいでサミュエルは楽しかった。


「さあて、と」


 机にはセレスティーヌが買ってきてくれたマスキングテープ。愛用の液体のり。今日修復予定の本は赤い付箋がついている。

 それぞれの本を一回は読んだ。それから気になった部分をピックアップしてもう一度。読んでみて感じるのは、サミュエルには世界観に関する基礎知識がまったく足りていないということだ。


「関連書籍も読まないとなあ。セレスってすごい読書家だったんだな、ほんとに」


 本を理解し、本を愛し、本を治す。そのために必要なことは山ほどある。日々常に勉強だ。

 午後の始業は目の前に迫っている。サミュエルは大きく伸びをして、愛用の黒縁眼鏡をかけた。マスキングテープと液体のりを溶かしていく。黒く表紙が塗り潰された表紙を見て、サミュエルは小さく呟いた。


「大丈夫。ぼくがきみを、治してみせよう」


 ――リュミエール皇国国立図書館には、本を救う修復士がいる。

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サミュの図書館 有澤いつき @kz_ordeal

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