第13話 笠森おせん

 江戸にあった水茶屋は、寛政末期に2~3万軒存在したと言われる。水茶屋とは、路傍や寺社の境内などに店を構え、湯茶を飲ませて往来の人を休息させた茶店(茶見世)のことである。「めぐりきて逢う日の首尾もよしず張り よそからささぬ水茶屋の中」と詠われたように、水茶屋は世間の目を盗んで男女が密かに落ち合う場所としても使われた。


 「五十文握って火蓋を切りに行く」という言葉がある。五十文を懐にいざ岡場所の安女郎と一戦を交えに行くのだが、彼女たちは梅毒に感染している者が多いため「鉄砲女郎」と呼んだ。そこで粋がって「鉄砲が怖くて戦ができるかい」と事を致したが後で怖くなり、境内入口の笠森稲荷に「どうか瘡にならないようにお願い申しやす」と祈った連中の話である。笠森稲荷の「笠森」という言葉を「瘡守(かさもり)」に転嫁し、梅毒の瘡から守ってもらおうと俄か信仰をしたというわけだ。


 本来、水茶屋は路傍などで休息する人に茶菓を接待する簡素なお店だが、中には本建築の芝居茶屋・相撲茶屋といった観客に酒肴や食事を提供する店もあった。そればかりか引手茶屋と呼ばれる遊廓で遊客を妓楼に案内し、女と酒色にふけさせる店もあった。そこから茶屋遊びや茶屋通いという言葉も生まれ、落語などでは若旦那が太鼓持ちに乗せられている姿が滑稽に語られてその風習は今に伝えられている。

 このお話は、身分を越え日の暮れるのすら忘れて楽しめる笠森稲荷の境内入口の茶屋界隈では、「日暮らしの里」と呼ばれた。その字のとおり、現在の日暮里辺りの出来事である。


 「お土のかえー、お米のかえー」と参拝客に客寄せの声を掛ける笠森稲荷の茶屋の女たちがいた。これは手鞠歌から来ている。お稲荷さんにお願いごとをする際に、お土のだんごをお供えし、願いが叶った暁にお米の団子をお供えするという習わしがあった。


 笠森稲荷は谷中感応寺(現在の功徳林寺)境内にあった。その中門前に『鍵屋』という茶屋があり、“お仙”という絶世の別嬪がいるという噂が立った。客が押し寄せて日増しに鍵屋は大忙しになった。お蔭で近所の茶屋は閑古鳥が鳴く事態になってしまった。


 お仙は鍵屋の主人・鍵屋五兵衛の娘である。宝暦元年(1751年)に生まれ、13歳ぐらいから笠森稲荷の水茶屋で働くようになったといわれている。飾り気のない娘だったが幼い頃から器量が良かった。

 美人と言えば本来吉原の花魁の印象であろう。絢爛豪華な衣装を身に着け、きらびやかな髪飾り、おしろいと口紅の化粧を施した近寄り難い気品を漂わせて登場する姿が持て囃された。しかし、人々は飽き易い。花魁に飽きると、吉原の遊女より安い上、芸も出来る「踊り子」が重宝された。ところがその踊り子業も苛烈を極めて来ると彼女らは枕営業を始めるようになった。そうした中、元号が宝暦から明和に変わる頃、お仙という素肌美人が現れたのである。色白で細身、首は長く、腰は柳腰のお仙は、木綿絣に赤い前掛けという素朴ななりできびきびと働き、気を利かせて甲斐甲斐しく働く客捌きで、男たちの目を虜にした。


 1768年(明和5年)ごろに、お仙の評判を聞きつけた浮世絵師の鈴木春信が『鍵屋』に出向いた。当時、春信は市井の美人を題材に錦絵を手掛けていた。彼が描いたお仙の美人画は、関東の女性の悪評を覆すほどの売れ行きとなった。


 戯作者である蜀山人こと大田南畝なんぼは、「谷中の笠森稲荷の境内にある水茶屋は、屋号は鍵屋で亭主は五兵衛。愛想よく客を迎えるお仙という女、年は十八というに評判の美しさ。その姿は錦絵・絵草紙・双六・よみ売りに載り、手ぬぐいにも染まる。そのお仙を見ようという人でお店はご繁盛。笠森お仙は、天から与えられた美貌に、上品な雰囲気を持ち、自然のままの清楚感、気取らぬなかに妖しさを潜む」と「半日閑話」で評している。

 さらにお仙を題材にした狂言や歌舞伎が作られ、お仙見たさに笠森稲荷の参拝客も増え、「娘評判記」なる美人番付の一枚刷りまで発売された。鍵屋はその人気に乗じて「お仙グッズ」なる美人画、手拭い、絵草紙、すごろく、人形、羽子板などを販売すると飛ぶように売れ、「向こう横町のお稲荷さんへ 一文あげて ちょいと拝んで おせんの茶屋へ 腰を掛けたら 渋茶を出して 渋茶よこよこ 横目で見たら お土のだんごか お米のだんごか おだんごだんご このだんご 犬にやろうか 描にやろうか とうとうトンビにさらわれた」とお仙ブームが手毬唄にまで歌われるほど一世を風靡した。

 ついには木挽町の森田座(のち守田座)や、茅場町の市村座でおせんを取り上げた芝居が上演されることになると、同業者は負けじと美人の茶屋娘を雇って張り合うようになり、新たな参入者も現れた。中でも二十軒茶屋の蔦屋「およし」、浅草寺内楊子屋の銀杏娘と仇名される柳屋「おふじ」が登場してから、お仙とともに「明和の江戸三美人」がと言われるようになった。童謡では「なんぼ笠森お仙でも銀杏娘にゃかなやしょまい」と歌われ、客同士の人気投票は過熱して行った。


 明和7年(1770年)2月ごろ鍵屋の茶屋客にとって大事件が起きた。お仙が人気絶頂の最中に忽然と茶屋から姿を消したのだ。


「あいつが怪しくねえか?」

「あいつって誰だよ」

「中川新十郎ってやつだよ。来るたび来るたびお仙ちゃんを口説きやがって…ここは茶屋だぞ。茶を飲むところだ。女口説くための店じゃねえんだ」

「ということは、奴と駆け落ちしたということか?」

「てめえら何を人聞きの悪いこと並べ立ててやがんだ!」

「おや新さん」

「おや新さんじゃねえよ。何が駆け落ちだよ」

「聞こえたか?」

「聞こえたも何も、境内中に響いてるよ。おれはな、お仙ちゃんに鼻も引っ掛けてもらえねえ哀しい男なんだ。お仙ちゃんほど身持ちの固い女はいねえよ。あの女は石だ」

「石なわけねえだろ。しなやかで艶やかで…それから見りゃおめえなんか使い古しのボロ雑巾だ」

「もう少しましな言い方があるだろ!」

「これでもましなほうだ」

「使い古しのボロ雑巾じゃお仙ちゃんと駆け落ちできるわけがねえよな」

「お仙ちゃんは武州草加在の名主・忠右衛門の娘・おきつの妹だ。姉の恋のもつれから市助という男に殺されてよ、口惜しさから幽霊となって化けて出るようになった。そして妹のお仙ちゃんが気丈にも姉の恨みを晴らすために市助を殺したんだよ」

「おい、タコ! そりゃ、歌舞伎の話だろ。河竹黙阿弥作の怪談月笠森じゃねえか」

「バレたか」

「あのな、ありったけの記憶を軽薄に披露すんじゃねえよ。歌舞伎は絵空事だろ。金儲けのためにお仙ちゃんを利用しやがって好き勝手に書いた作り話だ。罪だねえ。おまえみたいなやつがゴロゴロ居るから善人がバカを見るんだよ」

「おまえみたいなやつだと! おれに喧嘩売ってんのか、てめえ!」

「喧嘩売ってんのはおめえなんだよ」

「おめえだろ!」

「よく聞け! お仙ちゃんは今、由緒ある御大名に嫁いで幸せに暮らしてるんだよ」

「おめえ、だれからそれを聞いた?」

「父親の五兵衛さんだよ。わけあって身は明かせねえが、さるお大名に嫁いで今は幸せに暮らしているから無用な詮索はしてくれるなとしみじみ話されたんだ。この騒ぎには大層心を痛めているんだ。そっとしてやれ」

「なら、何でおれがお仙ちゃんに喧嘩売ってることになるんだよ」

「売ってるじゃねえか。おまえ、さっきお仙ちゃんがどうしたと言った?」

「あれは歌舞伎の話だろ。おれの所為じゃないだろ。歌舞伎でそう言ってんだからしょうがねえだろ」

「しょうがねえだと! だからおめえのようなバカがゴロゴロいるからお仙ゆあんは豪え迷惑すると言ってんだよ。この騒ぎにお仙ちゃんや五兵衛さんの心を痛めて何とも思わねえのか?」

「別におれだけそうだというわけじゃねえし…」

「何年もここで一息入れさせてもらった店の人たちじゃないか。おまえに労りの情ってものがねえのか?」

「・・・・・」

「金儲けのためなら人の不幸も顧みねえ作り話を鵜呑みにして、それがあたかも真実でございと見栄を切ってる役者をどう思うんだ?」

「・・・・・」

「あいつらはな、真実なんてどうでもいいんだ。話が大衆に受ければ満足なんだよ。その作り話が受けるたびに、お仙ちゃんも五兵衛さんも傷付いてるんだよ! 歌舞伎を見て喜んでるおめえは、お仙ちゃんに喧嘩売ってるのと同じなんだよ!」

「おれだけ責めても…」

「ああ、もう言わねえよ」

「そうか…お仙ちゃんは幸せに暮らしているか…」


 当時の川柳に「笠森の団子は七日母が売り」とある。甲斐甲斐しく働くお仙が休むのは生理休暇だけと思っていたのに、七日経っても店に現れないという意味である。

 折角お仙目当てに来たのに、禿げた親父の給仕に興醒めした客は、茶釜のお仙が禿げの薬缶頭の親父に化けたと苦笑いするしかなく「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行った。さらに「とんだ茶釜が…」が進化して、期待を裏切られたり、不意を突かれた時に「とんだ茶釜が…」という枕詞に至った。


 お仙失踪の噂が飛び交ううち、中川新十郎という客が話題に上った。彼はお仙と親しそうだった。きっと、やつと駆け落ちしたに違いない…とか、店主の五兵衛が身を固めようとした看板娘のお仙の喉首を掻き切り、殺して遺体を埋めたなどと実しやかに噂された。


 お仙には、鍵屋から姿を消す2年程前から心に決めた男がいた。その男とは、倉地甚左衛門という下級の旗本である。米村圭伍『錦絵双花伝』(2001年新潮社)ではのどこか茫洋な幕府お庭番の倉知政之助として描かれている。その甚左衛門は倉地家の分家の生まれで、笠森稲荷の勧請家だった本家・倉地忠見(文左衛門)の養子となり、明和2年(1765年)に忠見の隠居に伴い家督を相続した。笠森稲荷は倉地家の先祖代々が信仰していて、感応寺かんのうじに寄進したものだ。


 倉地家の先祖三代目の忠見は幕府旗本御庭番だった。つまり倉地家は代々御庭番家筋だった。本来、職分を果たすには人目を忍ぶべき御庭番である忠見が、なぜ人目に付くお寺の出入り口に近い敷地を借り上げ、「笠森稲荷」を勧請したのか…恐らく、「情報収集」が目的だったと推定される。感応寺は「富くじ」の勧進元でもあった。つまり、人が群がる場所に「霊験」あらたかな稲荷を祀り、合わせて茶店も開けば、江戸中の「噂」の類の情報が収集できる。


 笠森稲荷は倉地家が勧請し代々に渡って信仰していたが、感応寺に寄進された。従って、管理するのが寺に移ったわけだが、境内入口の鍵屋に管理を任せて久しかった。長男の久太郎が家督を継ぎ、弟の八郎八(新平)が分家の初代当主になり、甚左衛門は、本家の養子となった。そのため、先祖を祀るべく、たびたび参拝に訪れるのは甚左衛門の役割だった。参拝の帰りに鍵屋に寄るうち、お仙と親しくなり、互いを意識するようになっていった。

 しかし、夫婦になるにはお仙との間には家柄という壁があった。甚左衛門は笠森稲荷を勧請した倉地忠見の養子となって家督を相続したが、甚左衛門の実父は紀州徳川家の家臣・倉地文大夫忠利、実母は同家の家臣・山田清之宇右衛門某の娘である。御家人と平民ではつり合いが取れない。

 お仙は甚左衛門の妻になるため、明和7年(1770年)、一旦、西丸御門番の倉地家と同じ御庭番家筋の馬場善五兵衛信冨の養女となった。武家の娘の肩書を得たことで、晴れて甚左衛門に嫁ぐことが出来た。お仙20歳、甚左衛門25歳だった。その後、お仙は鍵屋から姿を消し、二度と人々の前にその姿を表すことはなくなった。


 倉地甚左衛門がおせんと結婚した当時は、百俵七人扶持で「吹上げお庭」の警備と管理の責任者をしていた。「お庭番」とは将軍直卒の「隠密」、諜報員である。百俵七人扶持という年俸は安いが、旗本格で将軍に近侍する重い役目である。お庭番であることを軽々しく漏らすような男は務まらない。職務内容を口外した者は死罪か遠島になる厳しいきまりがあった。従って、甚左衛門はおせんにも「お庭番」であることは隠していた。

 お庭番の屋敷は桜田門近くの御用屋敷だった。御用屋敷は周囲が塀で囲まれた造りになっている。お仙は夫のお役目も知らぬまま、亡くなるまでここで暮らし、めったに外出することもなかった。


 お庭番を務め上げた甚左衛門は、明和三年には「御休息お庭の者支配」に昇格し、寛政元年(1789年)12月、「御庭番家筋の面々廿七(27)人」の1人として「厚き御主意」のお役目を経て、寛政6年(1794年)7月に、幕府の金蔵(かねぐら)を管理する「払方御金奉行」に昇進した。「お金奉行」とはいえ、禄高二百石での生活は苦しかったはずだ。


 文化5年(1808年)6月に甚左衛門は68歳で病死。お仙は文政10年(1827年)正月に77歳で死去。


 甚左衛門・お仙夫婦は、長男・久太郎をはじめ、新平ほか9人の子に恵まれた。貧乏暮らしでありながら、やさしくて誠実な夫と子宝に恵まれて、平穏な一生を送った。お仙の墓は、甚左衛門の隣に「深教院妙心大姉 文政十年正月二十九日歿 お仙」の文字が刻まれ、東京都中野区上高田の正見寺にある。その墓石は1994年に中野区登録有形文化財に登録された。


 家督を継いだ長男の「久太郎」も優秀な「御庭番」で、東京大学資料編纂所が調査した新潟市郷土資料館所蔵の『川村清兵衛修就文書』によれば、天保4年3月には紀州、天保5年6月には上方筋、天保8年3月に起きた「大塩平八郎の乱」に際して、直後に「大坂表」へ遠国御用を命じられている。


 茶屋の店頭からお仙が消えて百年近くが過ぎ去った後でさえ『怪談、月の笠森』『雨催、月の笠森』『空朧、月の笠森』などの外題で次々と歌舞伎芝居が演じられ、笠森お仙はどんどんその実像から掛離れていった。


( おわり )

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ちょい濃いめの昔話短編集 伊東へいざん @Heizan

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