野辺に咲く赤い花

「勇魚くんが?」

「……うん」


 顔合わせから、一週間が過ぎた。

 勇魚から電話があったのは、昨日。


「僕の絵を、みたい、って……」

「いいんじゃないか。明日、来るんだろう?」


 ふたりで夕食をとっているときに、打ち明ける。

 和希は、喜んでいるようだった。

 勇魚とウタが仲良くなったことが、純粋にうれしいのだろう。


 勇魚は、切れ長の目をしていた。

 そして、理知的な顔をしていた。


 高校生だといっていたが、それよりもすこし、大人びて見えた。



 自室にあるカンバスを見る。

 空と海の絵は完成した。けれど、まだ捨てなかった。教授にも見せて添削してもらい、直せるところは直した。

 あとは勇魚に見せるだけだ。

 見せたら、捨てる。

 おそらく、明後日には捨てるだろう。それが、この絵の最期だ。

 そっとカンバスを撫でる。

 油絵具独特の、凹凸のある感触。


「さよなら」


 そっと別れを告げる。

 まだ早い別れを。






 次の日、和希はのぞみと一緒に区役所にいった。婚姻届を出すためだ。


 一か月後、ここを出る。それまでに荷造りをしておくようにと和希が言っていた。

 和希が出ていったあと、入れ替わりのように勇魚がやってきた。

 グレーのパーカーにブラックのジーンズを身につけていた。



「いらっしゃい」

「お邪魔しまーす」


 マンションの5階。

 エレベータを出て、いちばん奥。そこが、ウタの家だった。

 玄関はとてもきれいだった。

 絵も飾られている。だが、ウタが描いたものではないようだった。水彩画だったからだ。

 木の額縁に飾られている。 


「油のにおいがするな」

「……油絵具のにおいかな……」


 顎にあてた手は、相変わらず絵具がついていた。

 黒いティーシャツから鎖骨が浮き出ているのが見える。

 痩せすぎではないかと思うくらいだ。


「こっちだよ」


 廊下のいちばん奥の部屋に招かれる。

 油絵具のにおいが充満していた。それは、ウタの生きた道のすべてが詰まっているようだった。


 イーゼルの上に、カンバスがのせてある。


 海と空が、そこにあった。

 鮮やかでも、控えめでもない。

 ただ透明感がある、青。それがそこに収められていた。


「すごい……」

「え?」

「すごくきれいだな。この絵。こういう絵を描くのに、捨てるなんてもったいない。やっぱり」

「もったいないとか、そういうこと、思ったことないから……。でも、ありがとう。そう言ってくれて、うれしい」


 かすかにほほえむウタの表情は、やはり儚いもののように感じた。

 そして、いとけない、とも思う。

 まだ幼い子どものような、声色。

 表情は派手ではない。

 声も細い。

 

 ただ――絵を描くための手は、存在感をひどく表していた。


 青いほどに透明感のある絵。それが、ウタを表しているようにも見える。


「これも、捨てるのか?」

「うん。そのつもり」

「じゃあこの絵、俺にくれよ」

「……こんな絵でよければ、あげる」

「まじ? やった」


 この絵は、勇魚の特別だ。

 今まで絵画にあまり興味がなかったが、ウタの絵は特別だ。

 美術館で見るような絵ではないが、勇魚のこころを強く揺さぶったからだ。


「どうしたらこういう絵、描けるんだろうな。俺、全然絵は描かないし、描けないからすごいと思う」

「僕には、絵しかないから……」

「そんなことないだろ? 趣味とかねぇの?」

「絵を描くこと?」

「絵じゃねぇか!」


 趣味も特技も絵を描くことならば、それでもいい。

 けれど「絵しかない」というのはかなしい。


「絵しかないってのも、なんだかな」

「きみは知っているのかな」

「?」

「僕が、父のほんとうの子どもではないこと」


 海と空を切り取ったカンバスを、ウタは見下ろしている。そのうなじは、驚くほど白かった。

 かすかに胸をよぎった、不可解な感情。

 その首は、どんな体温をしているのだろう。

 冷たいのだろうか?

 あたたかいのだろうか。

 ふれたい、と思った。


 それほどまでに、儚い。


 ふれたら、壊れてしまいそうなまでに。


「え」

「僕は養子なんだ。ほんとうの両親の顔は知らない。興味もない。でも、僕には絵があった。それだけでいい」

「それだけで、って……。つまらないだろ? そんなの」

「そうかもしれないね。でも、僕にはそれしかないんだ」

「――探しもしないのか?」

「探す……?」


 さらり、と黒い髪がゆれる。

 こちらを振り向いて、不思議そうに首をかたむけていた。


「探さないで、諦めるのか」

「……分からない。きみの言っていることが」

「絵以外にも、いろいろあるだろ? 好きなものとか、好きなこととか」

「うん……。そうかもしれない。不思議だね。僕に絵以外のこと勧めるなんてひとなんて、いなかったのに」

「その、和希さんもか?」

「美大生だから、絵を描いていればいいと思っているみたいだし。僕もそれでいいと思ってた」


 ウタはすこしだけ寂しそうに目を伏せた。

 絵だけでいい。

 それもひとつの道かもしれない。

 でも、それだけだと決めつけるには、ウタはまだ若すぎるはずだ。


「美大っていっても、絵ばっかり描いているわけじゃないだろ? ふつうに勉強したりするんじゃないのか?」

「うん。そうだね。普通の大学でやるような科目もあるよ」

「だろ? まあ、俺もよくは分からないんだけどな。まだ高校生だし」

「きみは?」


 すこしだけ長い前髪の奥。

 翡翠のような目がこちらをのぞき込むように見つめていた。


「きみの好きなことは、なに?」

「俺? 俺は……映画見ることとか、本読んだり……時々料理手伝ったり。まあ、結局おまえと同じ、インドア派だな」

「多趣味だね」

「まあな。でも、どれも中途半端に好きなだけだし」

「うらやましいな」


 ふふ、とほほえむ。

 まるで、きれいなものを見るように。


 さわりたい、と思った。

 なぜそう思うのか分からない。


「……? どうしたの、勇魚くん」


 その思いは、腕を動かす動機になった。

 勇魚の手が、ウタの腕をつかんでいた。


「あのさ……」

「……?」

「おまえの絵、すごく、いいと思う。だから絵もつづけてほしいし、絵以外のことも知ってほしい」

「うん」

「だから、その、いろいろ試してみようぜ。外に出かけたりしてもいいし、うちで映画見たり、本読んだりしてもいいし……」


 なぜ自分が、まるで言い訳のようなことを言っているのだろう。

 腕をつかんだまま。

 それでも、ウタはすこしだけうれしそうに頷いている。


「ありがとう。勇魚くん」

「勇魚でいいよ。俺より年上なんだろ」

「……うん。勇魚」


 どこかくすぐったそうに笑うウタに、鼓動が強くなった。

 こんなふうにも笑えるんだ、と。

 そして、感じたことのある名前がうかぶ。


 恋、という名が。

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