えんじゅの木の白い花

 洗い終わってから、何もすることがないので、リビングでテレビを見ることにした。

 ソファにすわるように促すと、ちいさくうなずいて、そっと座った。

 まるで、勇魚のほうが年上のようだ。


「いつも何見てんだ?」

「……テレビ、あんまり見ないから……」

「ふうん……。じゃ、俺が好きなやつ、見る?」

「うん」


 腰をあげて、テレビの下にあるラックからブルーレイを引っぱり出す。

 すこし古いフランス映画だが、最近ビデオからブルーレイになったものだ。

 デッキにブルーレイディスクを入れ、ソファに戻る。


 シラノ・ド・ベルジュラック。

 1990年のほうだ。


 どうせ、あの三人は当分帰ってこないだろう。むしろ映画一本見ただけでは、時間が余るかもしれない。


「なんていう映画?」

「シラノ・ド・ベルジュラック。内容は、まあ、見れば分かる」



 シラノ、ロクサーヌ、クリスチャン。

 彼らの悲劇。恋文のゆくえ。シラノの、クリスチャンの死。のこされた、ロクサーヌ。


 何度も見た映画だ。吹き替え版はなく、字幕版しかない。

 だからだろうか。何度見ても、字幕を追わなければ分からないことばもあった。


 隣に座るウタを見る。白い文字の字幕を追う目は、真剣だ。

 ソファから立ち上がり、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。机の上に置くと、ちらりとそれをウタが確認した。


「飲めよ」


 ちいさく頷いたウタは、画面を見ながらオレンジジュースを飲んだ。

 その様子を何気なく見る。

 耳からは、フランス語しか入ってこない。


 白い喉がうごく。黒い髪の毛がゆれる。

 黒い目がじわり、と滲む。


 最後。

 ロクサーヌに抱かれてシラノが息を引き取るシーンだった。


 ウタの横顔。すっと涙が流れたのを見た。

 

 何故だろうか。

 それがとてもきれいに思えた。

 フラワーアレンジメントでどれほどうつくしく飾られたものよりも、きれいだった。

 

 シラノが死んで、哀しくて涙を流したのではない、と瞬時に悟る。

 ただ、うつくしかったのだ。ただ、ただ。


(何を考えているんだ、俺は……。)


 思わずうつむく。

 見てしまったことを後悔した。


 ウタは自分が泣いていることを知らないのか、勇魚へ顔をむける。

 目があった。

 彼の目はすこしだけ充血して赤い。


「泣くほどだったか? この映画」

「泣いてる……? 僕が?」


 勇魚よりも驚いたのは、ウタ本人だ。

 指を目じりにのせると、確かにそこにはしずくがあった。

 それを不思議そうに見下ろしている。


「ほんとうだ……。泣いてる」


 白い首が、わずかに赤くなった。


「ごめんね」

「何を謝ってんだ?」

「えっと……」


 理由を探しているのか、視線をうろつかせている。

 結局、自分がなぜ謝ったのか分からなかったのだろう、諦めたように視線をさげた。


「まあ、いいよ。オレンジジュース、まだ飲むか?」

「うん。ありがとう……」


 冷蔵庫をのぞき込む。

 紙パックのオレンジジュースを取り出す。

 

 ウタは、ぼんやりと何も映っていないテレビを見つめていた。

 彼をどう思えばいいのか、きょうだいとしてみることができるのか、分からない。

 それはそうだ。

 今日、初めて会ったばかりなのだから。

 そう、言い訳をする。


 コップにオレンジジュースを注ぐ。

 コップを持って、そのひとつをウタに渡した。

 素直に受け取り、そっとコップにくちびるをつける。


「おいしいね。このオレンジジュース」

「そうか? いつもおいてあるんだ。これ」


 やはり、ウタの白い手が絵具まみれになっているのが気になった。

 コップが汚れる、というわけではない。

 その視線に気づいたのか、ウタは申し訳なさそうにコップから手を放し、ローテーブルに置いた。


「ごめん。コップ、汚れるね」

「いいよ。別に。それに、汚れてねぇし。それよりおまえ、どんな絵を描くんだ?」

「絵、好き?」


 黒い髪の毛がふっとゆれる。

 首をかたむけて、まっすぐに勇魚を見つめた。


「好きか嫌いかって言われれば、好き、だな」

「そう。僕が描いてるのは油絵。今、海と空の絵を描いてる」

「今まで描いた絵の写真とか、ないのか?」

「……ない。描いたのは、作品展に出すもの以外、捨てちゃうから……」

「え、マジ? もったいねぇ」


 素直にもったいない、というと、ウタはわずかに悲しそうに眼を伏せた。


「描いたら、それでおわり、だから……終わってしまったもの、見たくない」

「……そんなもんか……」


 勇魚は絵を描かないので、その心は分からない。

 ウタのことも分からない。

 だからこそ、知りたいと思った。


「僕の家、なら、今描いている絵、あるけど……」

「え、まじ? 見る見る!」

「そう。じゃあ、うち、くる?」

「おう」


 絵画に特別思い入れはないが、ウタが描いた絵を見てみたい、という気持ちが強かったのかもしれない。

 海と空の絵。

 きっと、とてもきれいだろう。きれいな絵だろうと、思った。


 絵具だらけの手。

 きっと、それだけ打ち込んでいるのだろう。

 すぐに落とさないと、落ちにくいというだけある。


 そっと、ウタはほほえんだ。

 雪のように、すぐにほどけてしまいそうなほほえみだった。



 やがて三人は帰ってきた。和希の手には、この辺りで有名なパティスリー店の紙箱があった。


「ただいま。ああ、寒かった。もう、秋もおわりね」


 ゆるいカーヴをえがく髪の毛を横に束ねたのぞみは、それでも楽しそうに蛍の頭を撫でている。


「おかえり。なに、土産?」

「勇魚くんと蛍くんが、この店のケーキが好きだとのぞみさんから聞いたんだ」

「まあ、うん」

「仲良くしてた?」

「映画を……」


 ぽつりとつぶやいたのは、ウタだった。


「映画を見ていました」

「そうなの。また、あの映画? フランスの……シラ……」

「シラノ・ド・ベルジュラック」

「そうそれ。古い映画よね」

「もとは戯曲だけどな」


 和希から、箱を受け取る。ずしりとした重たさがあった。

 この大きさだと、ホールかもしれない。


「じゃあ、俺はこれで。ウタ。帰るぞ」

「わかった」

「なあ、えっと……」


 そのまま靴を履いたウタに、勇魚は蛍のように「兄」と呼べなかった。

 正式にはまだ兄でも何でもないのだが。

 ただ、なんと呼べばいいのか分からない。


「連絡したいから携帯番号、教えてくれよ」

「うん」


 スマートフォンを取り出すと、ウタの携帯番号とメールアドレスを登録する。

 ラインは、というと、登録していないし、アプリもとっていないという。


「まあいいや。メールと番号が分かれば」

「うん。……じゃあ」


 和希とウタは頭をさげて、家を出ていった。

 ドアをしめるまで、母は和希をずっと見送っていた。

 そしてしばらくすると、ふう、と息をつく。


「ああ、緊張した。でもよかったわ。仲良くなったじゃない。蛍も、ウタくんを気に入っているみたいだし」

「……母さん。俺たちの苗字、どうなるんだ? この家は?」

「心配いらないわよ。越してくるのはあちら。マンションだから荷物もそんなにないっておっしゃってたし、苗字も変わらないわ」

「え、そうだったのか?」

「だってあなた、何も聞かないで怒るんだもの」


 苗字がかわることも、ここから出ていくこともない。どこか安堵する。

 たしかに、部屋は余っているのだ。

 ウタの部屋くらいは用意できるだろう。


 二階にあがる。

 勇魚の隣の部屋が空き部屋だ。今はなにもおいていない。いや、本棚などの家具だけおいてある。

 あそこは、父が使っていた部屋だ。


 ベッドの上に寝転ぶ。

 変わった男だ。真崎ウタという男は。

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