第33話 【他人事の戯言 -1-】
―――明け方・柊八束宅。
階段をかつかつ上がってくる音がした。海鳴は落ち着かない様子で、ベッドの上で横になっていた。八束の帰りをまだかまだかと、眠たい目を擦りながら待っていた。
自分の家の扉が開くかと思ったら、八束じゃなく隣の住人だった。
「……はぁ」
軽く溜め息をついて、そわそわしてしまった。しかし、だんだんうとうとしてくる。落ち着かないのに、眠気は待ってくれない。毛布を顔の上に勢いよく被せると、目をまた閉じたくなる。目を瞑った瞬間、側に置いてあったスマートフォンが鳴り響いた。夜型人間には必須のスヌーズ機能かと思いきや、八束からの着信だった。
「もしもし? え?」
――『やっぱ起きてたか。あのさァ……ちょっとコンビニ寄ってから帰るから』
「いちいち言わなくてもいいだろ、そんなこと? うん。起きてるから、それじゃ」
海鳴にとって早朝の八束からの電話は特別だった。何故なら、八束が氷峰の家に向かって行くのを黙って見送ったし、そこで何が起こったかなんてことは重々承知の上だった。
「コンビニで朝飯買うって報告……めっちゃ気にしてんじゃん、俺のこと……」
電話を切った後、海鳴は真っ白な天井をぼんやり眺めながらぼやいた。
氷峰と八束が一緒にいる間、亜結樹はどうしていたのだろうか。どういう気持ちで家に居たんだろうか。
――アイツ、亜結樹が傷つくようなこと言ってなきゃいいけど……。
――……ってか亜結樹は気にするよな、普通。二人が妙な関係だったら。
――というか、ますます蔀さんが過去にどんな人間だったのか、気になるな……。
「俺は……俺がもっと亜結樹に積極的になって、いや――」
――俺は前に、『亜結樹とは友達以上の好きにはなれない』って吐いちゃったし……。
海鳴は枕に顔をうずめて、息を詰まらせた。そして唸っていた。
すると今度は玄関の鍵がガチャリとなって、開いて閉まる音がした。それを気にもせず、海鳴は枕に向かって「あー、うー」と唸り続けていた。
八束が部屋にやって来ると――
「お前、何してんの?」
と、一言何もわからない様子で呟いた。
「八束には関係ないもんっ!」
枕に顔を押し付けながら吐く声音はかぼそくて、彼の耳に届く筈もなかった。
***
八束はリビングに戻って朝食を食べ始める。向かいに座っていた海鳴は、八束の顔色を窺っていた。冷蔵庫から予め冷やしておいた、ガゼットパウチの栄養剤の蓋を開ける。開けて口へ運びながら、再び八束と目が合う。八束はおにぎりを食べていた。彼が海鳴の視線に気づくと、黙っていられなかった。
「お前、さっきから人の飯食ってる姿ジロジロ見んな」
「…………」
――「悪かった」
と、素直に謝ったら、氷峰の家での出来事を話す気になってくれるかもしれないと思った。心の中で思ったことであり、口からこぼれた言葉は違った。
「亜結樹の様子は?」
「は? あーいや……知るかよ、そんなん」
「ねぇ、俺わかったよ? 八束がミネさんの家に何しに行ったか」
「……わかってんなら――」
八束がそう言いかけた時、海鳴は椅子から立ち上がり、八束を黙って睨んだ。
「……怒ってん……だよな。あ、俺とミネの関係ってか、昔のこと話してなかったよな」
「昔のことじゃなくて、今! 亜結樹が居たのにどうして蔀さんの指示に従ったの!」
言葉がもつれてしまった。もつれにもつれて、蟠る気持ちはどうしたらいいのだろうか。
海鳴にとっては氷峰があの日に陵と対峙してどうなろうと、関係ない。陵の言葉に惑わされた氷峰の気持ちなんか、亜結樹より遥か遠くにあって手の届かないようなものだ。ただ、氷峰の死のうとする気持ちを引き留めるために、八束が蔀によって呼び出されたこと――その関係性がクローンである海鳴にとって腑に落なかったようだ。
「そ、それは……そうしろって言われたからに決まってんだろ!」
「亜結樹がいるのに? お前やっぱ異常だよ。俺もそうかもしれないけど、じゃあそれを指示した蔀さんも異常者だよね」
「あ? 異常者だと? 俺は病気だっつってんだろが」
「俺を利用して、本当に治るの? 俺だったら……俺だったらあのままミネさんに死んでくれた方が――」
言葉は紡いでいくうちに、だんだんエスカレートしてくる。ついに言ってはいけない言葉を言ってしまった。途端に八束は海鳴の胸ぐらを掴んだ。
「死んだら、目の前にいた亜結樹ちゃんはどーなんだよ! わかってんだろがッ!」
「わかってるよ! わかった上で言ったんだよ! !」
海鳴は胸倉を掴まれても動じもせずに八束を睨み返す。その濁った燻んだオリーブ色の瞳で、じっと彼の目を捉える。亜結樹を一人にしたくない気持ちは二人とも同じだった。でも、もし亜結樹が氷峰と八束のやりとりを見てしまったとしたら、と海鳴は考え過ぎてしまう。そうではないにしても、現在のパートナーのいる目の前で――海鳴や亜結樹の目の前で過去の男と性行為をしてきたこの男は、平然と朝飯を食べている。
少し互いに熱が冷めたようだ。八束は海鳴を解放する。掴んだ手を放し、椅子に座り直した。
「何が聞きてぇんだ……。俺は悪くねェ」
「いい悪いの話じゃない……。俺は理由が知りたいだけ」
「あ? 理由? 何の理由?」
「お前、俺の言いたいことわかってる?」
「…………」
八束は二個目のおにぎりを咀嚼しながら、黙り込んでしまった。海鳴の『少し先を見据えた言動』を理解している様子ではなかった。
「さっきの、わかってるっていうのはさ……蔀さんのこともだよ」
「…………」
八束は海鳴から目を逸らした。あの男は氷峰の何なんだろうか。きっと八束も知りたいに違いない。わかっていることは――。
――俺の兄貴は、ミネの唯一の親友。
――高校の時に、允桧と一緒に意地悪してやった。
――その後は組織に入って、居場所がなかった俺を二年間住まわせてくれて……。
――今から三年前、海鳴を連れて来た奴。
「八束……ミネさんのことは俺に話さなくてもいいからさ……」
「兄貴のことが知りてぇのか……。仲悪いの知ってんだろ?」
「でも……いや、きっとあの人は亜結樹のことも詳しいはずなんだ」
海鳴はそう言い切ると、水を流し込んで栄養剤を吞み下した。
八束は少々勘付いた。海鳴が『蔀』のことを口にする度に『亜結樹』を知りたがっていることに。
そう思いながら、海鳴の部屋に脱ぎ捨てていたダウンジャケットの中に、携帯電話を入れっぱなしにしていたことを思い出す。気を紛らわそうとダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、それを弄っていた。
すると、八束の携帯電話が鳴った。メールの着信だった。
画面を見ると――
「げっ……何で俺のスマホなんだよ」
蔀からのメールが、何故か八束の携帯電話に入っていた。
件名は――【明日の予定について】だった。
内容は、明日施設に寄って来いとのことだった。一緒に陵に伝えたい一件があるそうだ。
「どした? 八束……ってこれ俺宛のメールじゃん」
海鳴がするりと八束に近寄り、彼の持つ携帯電話を覗き込んで呟いた。
「……誤送すんじゃねェっ!」
「あははっ……昨日の電話してて思ったけど、仲直りできそうじゃん」
「仲良くはねーって言ってんだろが」
突然朗らかに笑った海鳴は、そのまま八束の携帯電話から、『了解』の文字を打って蔀宛に返信する。八束は急な海鳴の笑顔をちらっと見ると、心が落ち着いた。彼が携帯電話をさっと手に取り
蔀に連絡する様は、クローンであるのを自覚している海鳴そのものだった。彼は八束の治療の為に傍に置かれているんだと――笑顔で迎えてくれたあの頃の気持ちを握りしめたまま、八束の携帯電話に触れていたんだろうか。
「……そんじゃ、俺はこれから学校があるので――」
そう言いながら海鳴は軽く身支度をして、八束に何も言わず家を出て行った。
―――七年前。
允桧と出会う前の話。いつの間にか八束は、目つきも容姿も変わっていた。
俺の目の前で、上半身裸で背中を見せている少年はある男とつるんでいたらしい。
俺がその後、その彼と出会うわけだが――。
「お前、学校行ってないの?」
「……るせーな。俺学校より楽しいもん見つけたから」
「そういう問題じゃない。お前自身が将来どうなりたいとか、進路とか、そういうのを考える場所でもあるんだよ学校ってのは……」
――家族と離れてるのに。
「じゃぁさ……訊くけど、ミネは何で大工になってんのに、高校にも通ってんだよ」
「理由か……そりゃ……」
氷峰は唐突な質問に、口籠もってしまう。彼は高校生になったばかりで、八束はまだ中学二年生だ。それでいて、何を今目の前にいるこの少年に伝えられる。
一緒に住まわせることにしたのは、実の父親である氷峰駈瑠と親交のあった
そして二人暮らしになって二年目の日のこと――八束は髪を金髪にして中学校に入学した。
どこでいつ誰と出会ったのか、その時は詮索しなかった。俺の方こそ、その頃は自分のことで一杯一杯だったから……。
「何? 言えねぇじゃんか……。おめェは勉強と仕事どっちが大事なんだよ。ていうかもっと普通の高校行って勉強すりゃ上にいけたかもしんねぇのに……あー上ってのは大学だけじゃねぇよ?」
「お前にしちゃお喋りだな。今日なんかあったのか?」
「いや別に……。俺はアイツについて行く……そう決めたんだ」
「あいつ? ああ、お前の遊び相手になってる人か」
氷峰はため息混じりに相槌を交わし、着替えに行こうとリビングを出て行こうとする。すると八束は「あ」と声を漏らした。
「ん?」
氷峰は足を止めた。八束が急ににやつきながら声を掛けてきた。
「仕事で疲れてんだろ? マッサージしてやるよ」
「は?」
***
意外にも彼の手は大きく感じた。自分よりも年下なのに背も急にぐんと伸びて、年頃の彼になんてことさせているんだろうと思った。だけど今はとても気分が良かった。
スキンシップも大事だよな――なんて思いながら、さっき返事できなかった答えを伝えた。
「何で仕事も勉強もしてるかってのはな……あいつと違って最低限の勉強をすりゃ生きていけるかって思ったし。中学の時も勉強は嫌いじゃなかったし、でも早く社会に出たくて……仕事もしてる」
「あいつって兄貴のこと?」
「……」
彼の背中が「そうだよ」と訴えてきているのがわかった。八束はマッサージする手を止めず、そのまま氷峰の話を大人しく聞くことにした。氷峰は彼のマッサージを受け続けながら続けて――
「俺は多分、最初から答えが見えているもの……数学とかの正解が必ずあるやつが好きでさ……。そこに辿り着くまでのロジスティックス的なものに興味があって――」
「ロジスティックス?」
八束は疑問を持ちながら、右肘で右肩を強く押す。
「あーそこ気持ちいなぁ……。そんで、何となく自分らが住む家建ててる奴らが、ある日すげーかっこよく見えてさぁ」
――単に、逞しくなりてぇだけかもしれないけど。男に好かれたい男になりたいとか思ったのかな。
「ふーん……。あー右肩かってぇっ!」
そう言って力任せに肘をぐりぐりと回し当てていると、氷峰は思わず艶やかしい喘ぎ声を上げてしまった。
「ああっ……。もういい、ストップストップ!」
八束は両手を放す。氷峰のギブアップサインを、面白おかしく笑っていた。
こんなたわいもないやりとりを交わした日もあったのだと。八束が見つけた楽しいもんなんてその時は考えなかった。俺は八束が選んだ道に口出しするほど生易しい人間じゃない。
九年前にこの金髪の男と出会ってから、いつしか俺は男にも惚れるようになっていったのだろう。それだけじゃないけど――。
***
翌日、仕事から帰ると何だか家が騒がしかった。八束が連れてきた友人だろうか。
氷峰はリビングに入る。ソファで寛ぐ男が二人。真ん中に八束は座っていて、彼の両隣にいた。二人は背丈もあり茶色いブレザーを着ており、もう一人は二人とは違う色のブレザーを着ており、ヘアバンドをしていた。三人とも自分より歳上に見える。
八束の友人の一人が、氷峰の気配に気づいて振り返り声を発した。
「あ、お邪魔してまーす。八束さんあの人誰っすか?」
「ん……氷峰。通称ミネって呼んでる。同居人」
「そうなんすか。いいなぁ俺も誰かと自由に暮らしたいなぁー」
「別に自由でも何でもねぇだろ」
ヘアバンドをしていた男が嘆いていると、相槌を打つように青色のショートヘアの男が言う。
「誰かと一緒じゃ『自由』じゃないって言いたいんすか、ゆきいつさんは」
「雪一だ。ゆき”いつ“じゃねーわ」
「相変わらず他人に名前間違われんのな、お前」
二人のやりとりを聞いていた男が苦笑いして呟いた。氷峰は彼を一瞥した途端に、背筋をピンと張り巡らされた感じになる。この男が八束を変えたに違いない。そう確信した。
「うるせーわ。それより華木、わざわざ八束ん家来てしてみたい事って、何?」
「んー……秘密。てかお前らは帰っていいわ。俺ん家狭いからこっち来ちゃっただけだし」
「はぁ? 何だよ勝手すぎるだろ、それ。貴志もそう思うだろ、なぁ」
「まぁまぁ。確かにこの家広いっすもんねぇー。華木さんがそう言うなら俺らは帰りましょうよ、ね」
――ヘアバンドの男は貴志という名なのか。三人の中で、一番温和そうな人間だ。
先程の一声に緊張感を覚えた男が『華木』と呼ばれている。切れ長でつり目でピアスをしている男が『華木』か。
「八束……ちょっと、こいつらどういう知り合いなの?」
氷峰は戸惑いながら、ソファに座っていた八束を手招きし、小声で声を掛ける。
「ネットで知り合った。共通点ありまくりで仲良くなった」
八束はヘラヘラ笑いながら、だらっとした態度で返事をした。
「あまり夜遅くまで家に居させないでくれよ……頼むから」
「わかった、わかったって」
八束はそう言って足早にまたグループの中へ溶け込む。氷峰は仕事の作業着から着替えるため、一度リビングを後にする。
グループの喋る賑やかな声が廊下まで響いて来た。
「でもさーお前の親父の兄貴? 伯父さん? すごいっすよぉー。友達に家あげちゃったんでしょ?」
「単なる金持ち」
「そんな言い方しないでよ、ゆきいつさん! 俺中学生になっても自分の部屋与えられた事なかったんすから」
「関矢の言ってることも正しい。ていうか、それ部屋だろ? 八束は家だぜ? 訳ありだけどな」
「うぅ……次元が違う感じっす……」
氷峰は廊下から漏れ出した声を何気なく聞きながら着替えをすませる。
――そっか……。この人達も八束と同じで居場所がないのか。……ってなに同情してんの俺。
――あいつが可哀想? じゃぁ、俺は? 俺だって……。
――俺なんか、小さい時に両親を亡くして、寂しい思いしたんじゃないの?
――しかも先輩にフラれて……。
「お、何これ? 学生服についてるアレ? 女モンじゃねこれ」
華木がソファ下からはみ出ていた臙脂色のスカーフに気づいて手に取る。氷峰は様子に気づいてそそくさリビングに戻って声を上げた。少し遠い場所から大きく声を張り上げた。
「か、返してください! 触らないでください、それに」
「あー悪ぃ……。なぁこれやっちゃんのじゃなかったかー、残念」
彼は八束のことを「やっちゃん」とあだ名で呼んでいた。薄笑いを浮かべて一瞬、氷峰に視線を送る。そして握っていたスカーフをテーブルの上に置いた。氷峰は三人の座り込むソファテーブルに近づき、スカーフを握りしめながら――
「あの、何時まで俺の家にいるつもりなんですか?」
と、尋ねる。
「あーそれなんだけど、部屋借りてもいいっすか? やっちゃんから聞いたんだけど二部屋あるんでしょ? この家」
「……!?」
何を突然。この華木という男は俺の家に泊まる気なのか。八束も当然一緒なわけだが――。
「……迷惑かけないんで」
彼のその一言が、どうも引っかかってしまった。その一言に反応したのは氷峰だけじゃなかった。
八束自身も不安げに声を漏らした。八束も彼には逆らえないといった感じだった。
「え……」
「……わかりました」
それでも彼がこの家に居座ることを承諾してしまう。氷峰は、八束の味方になる気にはなれなかった。味方というより、これは俺自身の葛藤でもあった。今は『華木』にスカーフを触れさせてしまった自分が辛かった。八束の友人なんか、知ったこっちゃない。
「ミ、ミネ……」
八束は何かに怯えた様子で、リビングから立ち去ろうとする氷峰を引き留めようとする。その理由はスカーフを握り締めていた氷峰の心には届かなかった。
「八束……お前が連れて来た『友達』だろ? あとは自分で考えろよ……」
氷峰はそう言って自分の部屋に籠った。スカーフを部屋のタンスの引き出しにしまうとベッドへそのままダイブする。ベッドの上で横になると掛け布団で顔を押さえ込みながらこう叫んだ。
「あの馬鹿野郎っ! っ最悪だ!!」
速水紫苑という一つ上の先輩にフラれた時に、彼女から渡された物がきっかけで思うことがあった。
自分は男にならモテるんじゃないかって、錯覚していることに。だから八束がこれから『華木』と部屋で二人きりになった時のことなんか、嫌でも想像できてしまう。
華木の友人である二人は家を出て行ったようだ。氷峰は部屋の電気は暗くしたまま、八束と華木のいる部屋から漏れる喘ぎ声に、自然と耳を傾けていた。そしてその声と共に気がつけば、自慰行為をしていた。
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