第32話 【あの頃と同じ様な気持ちで -3-】
八束は下着だけ
亜結樹は彼の後を追うことはできず、リビングのソファで
――蔀さんが言ったのかな……ミネとのこと。
――この気持ちは、嫉妬なのかな?
「…………」
別室で二人のやりとりを待っている間の気持ちはどこに置いておけばいいのだろうか。
――事が済んだら、そのまま帰っちゃうのかな? 八束さん。
何事もなかったかのような、振る舞いはして欲しくない。この先も、ずっと。海鳴がいるのに、彼は氷峰の側まで過去の男として飛んできたのだ。今の彼の気持ちを抑える者は誰ひとりいない。初めて学校で海鳴を謝らせに来た時に見た姿を、亜結樹は鮮明に覚えている。
「ここでじっとしてたって……」
ソファの上で体育座りのような体勢で、真っ暗な画面のままのテレビを眺める。
足音が止んだ。玄関先の左側奥の部屋のドアの閉まる音がした。
亜結樹は閉ざされたドアのその先を覗くことさえできなかった。
***
氷峰は目線を高くする。無言であぐらをかいたまま、八束を見上げる。
彼は上半身裸のまま、氷峰を見下ろす。風呂上がりだからかさっぱりした顔をしている。
そして正面に「よいしょ」と軽く声を上げながら座った。丁度、氷峰と目線が同じくらいになる。
「……お前とは、久々だからなぁ……」
「耳赤いぞ」
「それはお前もだろがっ……」
先ほどのキスで正気を取り戻した氷峰は、気持ちの整理がついてない様子だった。
同じく八束も、半分は勢いまかせだった。電話越しに蔀に言われたことを今でも思い出すと、少し反吐が出るくらいだった。部屋の鍵は閉めた。亜結樹がここへ来ることはまずない。
「あの時は、その……悪かった」
「なに今更謝って――っておい……!」
氷峰は、急に謝り出しながら近づいてくる八束に押し倒される形になる。
「あの頃の気持ちをさァ……整理できたらどれだけ楽になれるだろうかって?」
八束はそう言いながら、氷峰の服を脱がしていく。
その様子に彼は心臓を高鳴らせていることに気づく。
下腹部に滑らせるように手を伸ばした。
自分の下着も脱ぎ捨てた。己のものを晒して、器用に手を動す。
氷峰は腕で目元を隠しながら、八束にされるがままだった。
この空間はお互いの高揚感がただただ漂っていた。
「八束……もう、我慢できない」
「ああ……」
八束が氷峰の昂りから口を放すと、少し申し訳なさそうな顔をする氷峰に、彼はにやけていた。
「……何がおかしい……。笑うな……っ」
「お前のそういう顔、嫌いじゃねぇからさ、ハハっ」
そう言いながら彼は次の段階へと進める。氷峰の片足を持ち上げると、自身の昂りを宛てがう。濡らしてあった秘部は、八束を滞ることなく受け入れた。
そのまま彼はゆっくりと腰を動かし、氷峰の首元に腕を回す。
「あ……待っ……」
「はっ……ん……」
二人の息遣いは徐々に荒々しくなり、喘ぎ声も早まっていく。
「ハァ……ハァ……っ」
八束は萎えた自身を氷峰から引き抜くと、直ぐ様それをズボンに収める。
その場から立ち上がり、息を上げている氷峰の前で、着替えを済ませる。
脱ぎ捨てられた氷峰の下着を、彼に渡そうと彼の腹あたりの真上から落とす。
氷峰は自分の下着にも関わらず、彼のふざけた渡し方が気に食わず受け取らなかった。
「ハァ……濡れたまま着ろってか。ふざけんな……」
息を上げながら彼は文句を言った。その言葉は八束の耳には届いておらず、彼は氷峰の顔色を窺いながらにやける。お互いスッキリした顔してんじゃんと言わんばかりに、無言で鍵を開けて部屋を出て行った。
「……!?」
ドアを開けた途端、八束は少し驚いた表情をした。部屋のドアの目の前には亜結樹が立っていた。
「ま、待って! あと、何をすればいい……?」
「用は済んだ。帰る」
「どうして終わった後、何も言わないの?」
「あとは……――」
八束は靴を履きながら、
「お前がいんだろ……」
そう背を向けて亜結樹に言い放った。
亜結樹はそう彼に言われて、胸がきゅっと締まる思いだった。今の氷峰にどう接していいかわからなかったのもあるが、彼に言われたのが想像以上に苦しかった。
「とりあえずシャワー連れてって……あとは自分で考えろ」
「…………」
亜結樹は八束の言葉に返事が出来なかった。黙ったまま、彼を見送ることになった。
***
亜結樹は氷峰のいる部屋へ、一歩足を恐る恐る踏み入れた。
彼は裸のまま仰向けに横たわって清々しい表情を浮かべていた。
亜結樹でもその表情は汲み取ることができた。その彼の姿は悦んでいるのだと。
氷峰は亜結樹が部屋に入ってきたことに気づくと、慌てて露わになっていた下半身を近くに置いてあったタオルで隠した。亜結樹はなかなか起き上がろうとしない氷峰に近寄り、一声かけた。
「ミネ……大丈夫?」
「はは……『大丈夫?』って……くく」
彼は亜結樹にそう言われて、何故か小さい声で笑い出した。
――あ、笑った。笑ってくれた。
亜結樹は心の中でそう思って、顔が綻んだ。
「そ、そうだ! 風呂場行かなきゃ……っ――!?」
彼女がそう言っている最中、氷峰は上体を起こすと、突如亜結樹に抱きついた。そして今度は泣き出してしまった。
氷峰は蹲りながら、亜結樹の服を引っ張って、抱き寄せ、ずっと亜結樹を抱き締めていた。
何の涙なのか、今どういう気持ちで亜結樹のことを抱きしめているのか、理解しようと必死でいた。
「ごめん……心配かけて、ごめん……な」
彼は全裸のまま、急に止まらなくなった涙を堪える様な声でそう言った。
「ミネ……」
氷峰の力強い抱擁に応える様に、亜結樹は彼の背中に手を添えた。
彼は静かに一滴の涙を流した。亜結樹には彼が涙を流している表情は見えなかった。だが、微かに彼の背中が震えていて、泣いている様な気がして、背中に添える手を離さなかった。
***
氷峰はシャワーを浴びた後、タオルで髪を乾かしてから下着を穿いた。彼は上半身裸のままリビングに向かった。リビングでは亜結樹がソファーに座っていた。その後ろ姿を遠目に見て、母親の姿を重ねていた。亜結樹の隣に彼は座った。そしてもう一度、抱こうと手が動き出す。だが、抱こうとはせずに亜結樹の肩に顔を埋めた。
「ミネ……どうしたの?」
「胸……借りてもいい?」
氷峰は何だかふわふわした気持ちで一言呟いた。
「……うん。いいよ」
彼の期待に答えるかの如く、亜結樹は返事する。
氷峰は亜結樹のその返事を聞くと、上体を低くし、亜結樹の胸に顔を当てた。
彼は暫く黙ったまま彼女の胸を借りていた。彼女の鼓動が聞こえる。
亜結樹はそのまま氷峰の頭を包み込む様に受け入れた。自分の胸に子供の様にうずくまる彼が、よく理解できずにいた。だが今は大人しく受け止めてあげることにした。そのままの体勢で彼女はこう言った。
「あたしは……自分のこと、まだわからないけど……それでいいと思うんだ」
「ああ……知らない方がいいことだって、あるさ……」
氷峰は囁く様に言葉を漏らした。
亜結樹の身体は、母さんに似ているんじゃなくて、母さんそのものだ。俺は今、母親の胸の中で鼓動を感じている。俺は改めて考えた。上半身が俺の母親、下半身は允桧と同じ――俺の実の父親の姿をしている。だけど今は全然、怖くとも不気味とも思わなかった。抱きしめて思ったのは、当たり前にある愛情がクローンにだってあるということだ。
何故だろう。俺は、母親の温もりに包まれた気分になっていた。この亜結樹の肉体から離れられずにいた。俺は、陵のしたことを赦せなかった。それなのに赦せずにいる自分が――死のうとした自分が情けなく思った。それはもし、親が蘇ったとしても、自分の息子の記憶まで戻らないとしたら――それは俺にとっては幻だ。陵の言った『生きた亡霊』の言葉の意味がわかる気がした。そして、亜結樹の存在は――俺の両親の死後の世界を体現している。陵莞爾はそうだと言いたいんだろう……。だけどそれはまだ、俺の中では認められずにいる。
「なぁ……亜結樹が言ったんだろ?」
「何……を?」
「俺が部屋に閉じ籠ったこと、蔀に言ったの」
「うん、そうだけど……そしたら八束さん呼ぶって言い出して……それで……こうなった」
亜結樹は氷峰にゆっくり言葉を紡ぐ様に答えた。氷峰は顔を上げ――
「……そういうわけだな」
そう言って微笑んだ。そして亜結樹の唇を軽く塞いだ。
唇が離れると、わびしさに亜結樹は氷峰を数秒間見つめる。
「ミネ……」
彼女は次に来る言葉を期待してしまった。だが彼の返事は――、
「……寝る」
であった。
「え?」
「あ、お前今、期待したよな?」
氷峰はソファから立ち上がっては、振り返りざまにそう言った。そして擦り寄り、彼女の手を握って顔色を窺った。亜結樹は急に顔を赤らめながら――
「や……そ、そんなこと、な、ないよ!」
慌てて否定した。だが、顔は嘘をつけなかった。氷峰と『性交渉がしたい』とはっきり顔に書いてあった。
「ふ……ははっ……。俺はお前のこと、『女として抱くべき』なのかな? 何だか恥ずかしくなってきたな……」
「ミネは、八束さんとした時、どっち側だったの?!」
亜結樹は両手で顔を隠しながら恥ずかしそうに、気になっていたことを言い切った。
「あ……え、そ、それは……俺は他の男にしたことは一度も無くて――」
「じゃ、じゃあ、あたしが――俺が八束側なわけ!? それじゃ女としての快感があるわけ――」
「お、落ち着け、亜結樹!」
亜結樹の言葉の人称が『俺』にになった途端に、氷峰は彼女の両肩を掴んで言い寄った。
彼も両耳を赤くしながら冷静になりつつこう返事を交わす。
「お前なぁ……女としてって言ったのは『心は女でいる』っていう意味で言ったんだよ」
彼は亜結樹の肩を掴んだまま、唖然とした態度で下を向いた。
「む……ミネに、そんなこと言われたって……」
亜結樹は氷峰の肩を払いのけて返事をした。
「だから今日は、ごめんな……」
氷峰は顔を上げ、亜結樹の肩をそっと撫で下ろして離すと自分の部屋へと行ってしまった。
あたしは――俺は未だにこういう話をされると複雑な気持ちになる。
それは畏怖クローンだから。それだけじゃない。あたし自身――俺は、女性としては生きる道は無いと思っていたから、ミネが女としてあたしを見るのは変だとおもって違和感を感じることもある。初めてミネと出会ったとき、私をちゃん付けで呼ぼうとしたのを『俺』は否定した。可愛いと呼ばれるのも学校では苦手だった。ドライブの時はまだあたしを『男として』見守ってくれたりした。
ミネが変な態度をとるようになったのは、彼が海鳴に会ってからだ。海鳴の前ではあたしのことを『彼女』と呼ぶようになり、俺は違和感を感じた。性に戸惑うあたしに――俺に答えを求めるようになってきたんだ。彼はそう思い始めたんだ。ミネが八束とセックスしたことに俺は嫉妬した。
そして、ミネの清々しい顔を見て――涙を流して抱きしめられて、あたしは『男から見ても』『女から見ても』ミネのことが大好きなんだと心に誓った。
あたしは――俺は未だに自分の意思ではっきりとミネに性の答えを出せずにいる。
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