第24話 【確かめたい気持ち】


 ―――十月。


 海鳴は亜結樹と会話するのをためらうようになっていた。それは陵が亜結樹の体の秘密をばらしたせいであった。薄々感じ取っていた感情が、他人にばらされるのは気持ちが痛む。海鳴は亜結樹といるときに、話す言葉に気をつけるようになっていた。


「海鳴……おはよう」

「お、おはよう」


 亜結樹は允桧の墓参りへ海鳴が付いてきたとき、そこで海鳴が話してくれたことに動揺した。海鳴は海で話したかったことが、言うまでもなく亜結樹に透き通った硝子のように伝わっていたと、気持ちの整理がついていなかった。亜結樹も向かい合わせになって海鳴の気持ちを汲み取ろうとしているが、まだ海鳴の本心を受け取れていない気がした。


「あのさ、あたしの体のこと……他の人に言わないなら平気……だから」

「本当に?」

「八束さんには……話しちゃったの?」

「なんでそこでアイツの名前が出てくんだよ……。俺、嫌われたの?」

「え?」


 海鳴が思い悩んでいるのは亜結樹のことだけではなく自分自身だった。


「だーかーらー、俺は亜結樹の恋人にはなれないんだって、言っただろ? 墓参りの時に」

「……そっか」


 ――じゃあ……もしかしたら八束さんにはあたしのこと話すかもしれないな。

 ――八束さんにばれたとしても、俺にはミネがいてくれるから大丈夫だ、きっと。


「なにその顔? なんか寂しげだな」


 海鳴はふてくされて顎に手をつきながら、亜結樹の表情を観察している。亜結樹の表情は自信に満ち溢れているようで、どこか何かに怯えている様な瞳をしていた。


「寂しげ? そ……、そうかな」

「ああ、俺もそういう眼……するからな」


 見透かされているのはこっちだ。彼は亜結樹の何を知りたがるのだろうか。イフであることをばれたのに、どうしてこうも引き付き合うのだろうか。

 授業が終わり、休み時間になり、相変わらずの素振りで二人は一緒になる。


「結局、お前と屋上に来てるんだよな……」

「だって、あたしと一緒にいたいんじゃないの? 結局は」

「んー……。結局は……だな」


 海鳴は水を飲みながら、金網に寄りかかる。テトラパックのジュースを片手にしている亜結樹の口元を見ながら――胸元からだんだんと、下へと目を遣り――


「ゴホッ」


 ペットボトルの飲み口から水が溢れ出してしまった。口が欠けた。


「だ、大丈夫? 海鳴!」


 亜結樹は慌ててタオルハンカチを取り出して海鳴の体を拭こうとしたが――


「ばっか、いいっての! 優しくされんの苦手なんだってば!」


 腕を振り払われてしまった。


「優しくしてるつもりは……」


 そう言って亜結樹は海鳴の濡れた胸元を見た。そしてまた彼の顔を見ると――


「お前と食事するのも、なんか……は、恥ずかしくなってきたな……やっぱ」

「恥ずかしい……って――」


 彼の目線は腰あたりだった。亜結樹は少し顔を赤くした。


 ――あ……絶対今、体のこと考えてた。そうなんだ。

 ――もしかして海鳴は男の方が……好きなのかな。


「あ、休み時間終わっちゃうな、俺先に行ってよ」

「あ、待ってよ!」


 海鳴の歩くスピードに合わせて、亜結樹は引き付くように彼の後を追う。

 恋人同士だと繕っていたのは海鳴の方だったのに、あっけなくその関係が崩れ落ちそうでがっかりだ。海鳴は、亜結樹の手を握るのをやめ、亜結樹と距離を置こうとする。だが、反対に亜結樹はそういう海鳴の態度に歯向かうように手を繋ぎたがっていた。


「な、なんだよ」

「だってもっと海鳴のこと知りたいよ。手、ほら出してよ」


 そう言われた海鳴はむくれながらも細長い手を、亜結樹に差し向けた。


「一学期の調子はやっぱり友美香がいたからなの?あたし海鳴のことわかんないよ」

「別に、知らなくていーよ。同じ施設で育ったってことは聞いたけど、それ以外に何の価値もない平凡なクローンだよ、俺は」

「平凡なの? あたしのせいで思い悩んでんじゃないの?」

「……確かに、悩みは尽きないよ。お前の言う通り……」


 二人は教室に辿り着いて席に座って話し込んでいた。

 ほかに話したい事柄といえば、互いのパートナーが過去に知り合っていたことが気掛かりだ。


「ミネは八束さんと何かあったのかなぁ……」

「お前は八束とかかわらない方がいいっての……ミネさんもそう思ってるよ多分」

「そっか……」

「でも俺、お前のこと八束に話す。海で花火した時とかの雰囲気でさ、水着にならなかった理由を話さないと俺の気分が優れないっていうか――……」


 海鳴は椅子から立ち上がり鞄を肩に掛けながら――、


「今の八束だったら、亜結樹のこと知っても、俺が傍にいるから安心だと思う」


 亜結樹の目を見て、自信満々げに話した。

 海鳴と視線が合った亜結樹は、胸に手を当てながら――、


「あたし、怖くないから。いいよ八束さんに話しても……大丈夫」


 海鳴の目を見て返事をした。


 ――八束さんには海鳴がいてくれるんだから。大丈夫なはず。


 二人はそれぞれのパートナーの家に着く。お互いに恋から愛へと変わる瞬間へと歩んでいた。二人の交差する気持ちに氷峰と八束が与えていた恋心を知れば、二人はそれぞれのパートナーに愛を返せるのかもしれないと考えた。



 ―――夜・柊八束宅。


「ただいまー」

「おう、お帰りー」


 ソファで寝転んでいた八束はむくりと起き上がり、海鳴を見るなり近寄ってきて――

「ちょ、もうわかったってば――」


 抱擁して頭を撫でながらキスをして欲しいとせがむ。彼は海鳴を抱きしめると鞄を落とした海鳴の顔を両手でそっと上に向かす。すると海鳴は高鳴る胸を感じながら、そっと八束の首に手を回して頬を八束の頬に触れさせる。そのまま目を合わすと、互いに目を瞑って口づけを交わした。


 その後、二人はソファに座り直して、少しの間会話をした。


「相変わらずあの子と一緒にいんのか? 学校では」

「うん。あの子っていう言い方もなんだし、亜結樹って呼び方でいいよ」

「亜結樹ちゃんは、その……、うまくいってんのかなミネと……」


 八束はそう言って、後頭部を掻く。彼のこの行動は、もし自分の感情が氷峰へ向くことはあるにしても、今の氷峰が女とうまくいくのかどうかという疑念を抱いているだけだった。


「本当にうまくいってるのか心配してんの? 単にミネさんの事が気になってるだけなんじゃないの? それ」

「っ……」


 図星だった。海鳴には言いたいことや気になることが先読みされてしまった。


「確かに、俺はミネのことが好きだったんだよ。この前昔の話、したばっかだろが」


「でも、もうミネとは付き合えないからね。それより――」


 海鳴は台所に向かい、水をコップに一杯注ぐ。そして飲んだ。そして――


「俺も大事な話したいんだ。今。亜結樹のことで……」


 八束の目を捉えて離さなかった。


「亜結樹ちゃんのこと……?」


 海鳴は亜結樹が畏怖クローンであることを話した。


「……イフだって? あの子が……」


 八束は顔がこわばり始めた。イフという言葉を聞いただけで、何を感じたのか昔の自分を思い返したくなかった。それなのに彼の頭にはイフという言葉を聞いただけで、思い起こす人物がいた。


 ――ミネが、またイフと一緒に過ごしてんの…?

 ――允桧と同じ……イフ……だって?


「それでさ、俺……どこか避けてる自分が居たんだ。傷つけたくないから避けてるけど、それもなんか違うような気がして――」


 海鳴は話の途中で、八束の様子がおかしい事に気づく。八束は目の奥が熱くなるような眼差しで海鳴のその先を見ながらこう話した。


「俺は差別してたわけじゃねェ……けど、何でミネがまたイフと一緒に……」

「え……また? 何言ってんの八束?」

「蔀に言われて、一緒にいんだよアイツ……」


 下を向き、震える声でそう話す八束を見て、海鳴は彼の顔を覗き込むように――


「もしかして……允桧……って人の事?」


 コップの水を片手にリビングへ引き返して、八束の座るソファに腰掛ける。


「あぁ……お前には関係ねェ人だよ……」

「そっか……」


 八束の物悲しげな一言を聞いた海鳴は、それ以上は允桧については追及しなかった。


「てか、その……大事な話って亜結樹ちゃんがそういう身体だって話か……」

「うん……それでさ、俺どうしようもなく、心がうずうずして――」


 ――亜結樹を男として好きにはなれないのかな? どういう気持ちになる?


 海鳴は目の奥がだんだん熱くなって、テーブルにコップを置き――


「絶対、俺……あいつを傷つけたくなかったのに酷いこと言っちゃったんだ……」


 隣に座る彼に抱きついた。抱きつきながらそのまま静かに泣いてしまった。


 滴り落ちた一粒の涙の意味を、八束は知り得ていない。いなかったが、允桧のことを知っていた八束はすぐ海鳴の涙を受け入れることができた。


「海鳴……インターセックスは付き合い方を自分で選んでんだよ。あの子は自由になれるっての、多分」


 ――だから気になんだよ。どうしてミネと一緒に居んだってんだ。

 ――兄貴の所に行かなきゃ……――。


「兄貴の所へ行かなきゃよ……――!」


 八束が立ち上がろうとしたときに、彼の服の裾は反対方向へ引っ張られた。

 振り向くと海鳴が顔を赤くしてまだ泣いていた。


「待って! 貴志さんとのライブ行ってからでいいよ。俺、まだ気持ちの整理がついてないから」

「整理がついてないって……お前、やっぱ亜結樹ちゃんのこと……」


 八束は海鳴の両肩をがっしり掴んだ。

 辛そうな顔をした海鳴は、八束に殴られたときのことを思い出す。


 ――やっぱり恋してたんじゃねぇかよ……。


「お願い……俺のこと優しく抱きしめて。俺、あんたに愛されたいんだと思う……。だからその――」


 八束は、海鳴の言葉を塞ぐように黙り込んで強く彼を抱擁する。


「こうしたら、お前は……お前の心は俺の傍を離れないって言いてぇのか?」

「わからない……でも八束といる方が安心するんだ。俺は狡くて……――」


 ――俺の頭の中は亜結樹のことでいっぱいなんだ。でも――……。

 ――でも、八束のことを愛さなくちゃって思えるようになったんだ。


「お前のこと、どっか遠くへ行ってしまわないようにって。俺の我儘わがままだってわかってるよ」


 八束はそう言って、海鳴の頭をそっと撫でた。


 海鳴は焦っていた心を八束に抱きしめられたことで落ち着かせながら――


「今、八束が蔀さんの所へ行ってもすぐには解決できない問題だと思うんだ。だから――」


 八束の片手を強く握りしめてなにかをもう一言伝えようとしたそのとき――


「貴志のことは悪かった。許してやっから……」


 再び八束は、海鳴の顔を包み込むように抱きしめた。


 海鳴は八束の抱擁がいつもより優しかったと感じた。

 二人は亜結樹の亜結樹の体の秘密を知り、一瞬戸惑いつつも冷静になれた。

 そのわけは、八束が過去に允桧という人物と関わっていたことで繋がる話でもあったからだ。八束は確かめたいことがあった。亜結樹という存在が氷峰の所へ渡ったのは、兄である蔀のせいであると気づいてしまった自分に嫌気がさしていた。

 その気持ちを海鳴になだめられたのだと思うと、亜結樹という存在にもやがかかってしまう様だ。


「俺は、それでもお前のことを好きでいられんのかな……」

「え? それでも……って……――」


 ――もしかして……亜結樹のこと気になってんのかな。どうしよう……。

 海鳴は八束の不意に出た言葉に疑念を抱いてしまった。


「いや、今は気にしてもしょうがねぇんだよ。ったく俺って奴は……」

「八束も独り言言うんだな……」

「そーだな。そんな時もあんだよ。お前みてェに頭でぐるぐる考えてんのとは違ぇんだよ」

「はいはい。俺はそんな俺自身を可愛がってやりたいんです」


 二人はベッドに寝転びながら、会話を交わしていた。



 ―――同時刻・氷峰宅。


 部屋の一室で、ペンを走らせる音がする。

 亜結樹は氷峰が何か大事な書類を書いているのだと、遠目に見て気づく。


「……」

「……」


 ――この質問……亜結樹のことを聞いてるんだよな…。


 その項目に書かれていた内容は――――、


『共生していく上で、周囲に父性・或は母性感情を抱き始めているか』


「俺に聞くより、直接本人に聞いた方が早ぇんじゃないのか、これ」


 ――というか、俺にも答える権利はあるかもしれねぇな……。


 氷峰はレポートを書き終えると、書類の束を大事に鞄にしまった。

 ドア付近に立ち止まっている亜結樹に視線を向けると、亜結樹は驚いて――


「み、見えてないから。見てないよ」


 と両手を左右に振りながら、咄嗟に口を開いた。


「あぁ、わかってるっての」

「あ……今日ね、海鳴と一緒にお昼ご飯食べたんだ。それで――」

「お前、あまり深く関わろうとすんなよ……特に海鳴って奴には」


 一瞬にして先程の返事の言葉の温度が冷めた。


「え……。改めて言わなくても……。ミネが海鳴の事避けてるのは薄々感じてるよ」


 お互いの表情はだんだん曇り始めていた。亜結樹はどことなく氷峰の正直さが胸にスッと入り込んでは、掴んだ言葉を離そうとしても離れないでいる。


「感じてんなら、尚更――」


 氷峰は椅子から立ち上がると、亜結樹の肩に手をそっと置いて――


「俺がお前をどうしたいかじゃねぇんだ。ただ、お前が俺とどうなりたいかだと思うんだ……」


 彼女の横顔に重きのある言葉を伝えた。亜結樹は氷峰の顔を見上げる事なくその場に立ち尽くす。


「……そんな事言われなくても……。わかってるよ」


 部屋を出て行った氷峰の足音が遠ざかっていく。彼が遠ざかっていくのを見計らって聞こえないように、呟いた。


 ――海鳴に近づこうとするのをはばんでいるんでしょ。見え見えだよ。



 

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