第12話 【動き出す歯車 -1-】


 ―――六月下旬。


 立花が学校を休み始めてから一ヶ月が経とうとしていた。


 曇天が続いていた。今日は晴れ間がのぞいていたが、厚い雲が風に流されるとすぐ陰が現れる。雨は止んでいた。今日も亜結樹は普段通りに登校する。もう彼女がいじめられることは無くなった。立花の友人である小北エミは亜結樹に挨拶をすると、今までの出来事を何事も無かったかのように、友人達と会話を楽しんでいた。一限目の授業が終わると、亜結樹は立花が今日も学校に来なかったと海鳴に嘆いた。


「友美香今日も休みだね……」

「だから何? 何で俺に立花のこと話すの?」

「それは……席近いし、友達だから」


 亜結樹は立花が海鳴のことを殴った日の事を想像していた。もう一ヶ月も前の事だ。その日、立花が教室を出ていくところを見ただけだった。

 向かいにいた海鳴の片方の頬が赤くなってるのを見ただけだ。


 亜結樹は海鳴と立花がどんな会話をしていたのかとても気になっていた――その二人の答えを知らない。立花が海鳴に傷つけられた言葉さえ知らない。

 亜結樹は海鳴が『他人をおとしめたい感情に駆られる人間』だとは――ある出来事が起こるまでは気がつかないでいた。


「そうかよ……俺は別に立花のこと友達とは思ってねーけどな」

「!」

 亜結樹は海鳴を睨んだ。

「何だよ……」

 同じ様に海鳴も亜結樹を睨む。

「そんな言い方しなくても……」

「お前心配してんだ……あいつのこと」

「うん」

「あいつ、今学校に来たら自分が苛められると思ってんじゃねーかな……」

「だとしても……あたし悲しいよ……」

「……悲しい?」

 ――あーむかつく。お前が、立花と友達面してられるかっての……。

 その「悲しい」の一言に海鳴は益々不機嫌になる。彼は亜結樹を上目遣いでにらむ。彼女の言動が自ら相手を蔑む感情を呼び起こしていた。

「友美香……休み始めてから一ヶ月経つし……。そもそもいじめの原因て、あたしが告白断ったのが始まりだからさ……」

 ――友美香ともう一度ちゃんと向き合いたい。

 ――身体の事――イフである事をちゃんと話しておきたい。

「は? 悲劇のヒロインぶるなよ。お前何様?」

 海鳴は内心、自分のせいで立花が休み始めたと思っている。だから亜結樹のこの言い方に無性に腹が立った。

「何様って……そんなつもりじゃ……」

 亜結樹は海鳴の態度にいつもと違う違和感を感じた。いつもより殊更ことさら不機嫌に見えた。そして――。

 ――海鳴、あたしの事……ただ腹立たしい人間だと思ってない。そんな気がする。

 亜結樹は気づいた。海鳴の感情を、この瞬間悟った。

「じゃあ今すぐ死ねよ。あたしのせいで立花が休みました、ごめんなさいって皆に謝って死んだらいい」

「死ぬって……何言ってんだよ!そう簡単に死ねるわけないだろ!!何でそんな酷いこと言えるの――……!?」

 亜結樹が大きな声で言い返した直後――

「――簡単だよ……――ッ!!」


 海鳴は静かな声でそう言って、席から立ち上がり亜結樹の首もとを掴むと、彼女の顏を窓ガラスに勢いよく当てた。その衝撃でガラスは割れ、音に気づいた周囲の生徒達は悲鳴を上げた。亜結樹は上半身が窓の外に投げ出され、一瞬で恐怖を植え付けられた。辛うじて枠にしがみついていた腕のお陰で、落下にまでは至らなかった。

 直ぐ様、割れたガラス戸から体を引っ込めた。


 腰が抜けてしまった。海鳴の手から解放された亜結樹はその場に尻餅をついた。瞼の縁を切ってしまった。海鳴は亜結樹を窓から突き落とそうとした。

 亜結樹の事を好きでいる故に、亜結樹の態度に自分の本性が露になった。


 ――あ……何してんだ俺。亜結樹の事――見下した……。手ぇ出しちまった。

 海鳴は、その場に呆然と立ち尽くす。すると――

「――柊何してんだよ!」

「氷峰さん!? 大丈夫?」

 海鳴は男子生徒に取り押さえられ、亜結樹は駆け寄って来た小北らに介抱されていた。

「……」

 亜結樹は瞼から血を滴していた。手で目を覆い隠していた。一瞬何をされたのかまだよく解っていない様子であった。


 ――海鳴? 今、あたし……窓にぶつけられて――!


 亜結樹は片目を抑えながら、俯く海鳴の顔を覗き込む様に上を見上げる。


「海鳴……?」

「氷峰さん! 目動かしたらしみるよ?」

 小北エミが海鳴の方を向いた亜結樹の肩に手を添える。

「……――」

 下を向いていた海鳴は、亜結樹と目が合う。すると、彼女を嘲笑うかのような眼差しを向けた。


 ――あー清々する。何だろう……亜結樹の事考えるだけで心がこんなに昂るなんて。


 海鳴は取り押えられている間、亜結樹のことばかり考えていた。内心、高揚感で溢れていた。

 亜結樹は海鳴の表情を片方の目でしっかりと見た。彼の姿を見上げながら、彼女は確信した。


 確かに海鳴が自分を見下していることに――。


「……小北さん、ハンカチありがとう……もう大丈夫」

「ほんと? まだ軽く手で押さえてた方がいいんじゃない?」

「何今の音。隣の教室?」

「――先生! 柊がガラス割った! 早く!」

 廊下から慌ただしい声がした。

「何だ何だ……――! こら、割れたガラス危ないから近寄るな」

 担任が教室に入ると、ざわついた空気が静まり返る。海鳴は男子生徒に羽交い締めにされたまま、抵抗することなくその場で俯いていた。


「……」

「先生! 私見ました。柊が氷峰さんを突き落とそうとしたんです!」

 生徒の一人が声を上げる。それに反応し――

「詳しい話は本人から聞くから、えーと、とりあえずほうき塵取ちりとり用意して。はぁ……」

 担任の先生は軽いため息をつく。

「氷峰さん、立てる?」

「……うん」

 亜結樹は小北に支えられながらゆっくり立ち上がる。足をがくがくさせていた。

 亜結樹は小北と共に保健室へと向かった。

「柊……ほんっと最低」

 小北は教室を出ていく際、遠目に海鳴を睨んだ。

 先生は、取り押さえられている海鳴の顏を窺おうとした。

「柊……今日ちょっと残れ。氷峰と一緒にな」

 先生がそう言うや否や、海鳴は顏を上げ――

「――ッ離せよ!」

 と言って、生徒の腕を振り払い、教室を飛び出していった。

 出ていく所を先生は、戸から顏を出し――

「放課後戻って来いよー!」

 と告げた。



 ―――放課後・氷峰宅。


 放課後、海鳴と亜結樹の担任の先生は、亜結樹の『保護者』として同居人である氷峰を、電話で学校に呼び出した。何でわざわざ学校まで足を運ばなければならないのかと思ったのだが、担任のある言葉を聞いた時、すぐに駆けつけなければと思った。


 ――男子生徒が氷峰さんを窓から突き落とそうとしました。

 電話越しに、その言葉を聞いた氷峰は目を丸くした。 暫く無言が続いた。


「……(――誰だよ……。ていうか何で加害者の名前を出さねぇんだよ)」

 ――もしもし?氷峰さん?

「その男子生徒の名前は?教えてください」

 ――そう言われましても……。

「いいから教えろってんだよ……!」

 俺は担任を、軽く脅してしまった。つい口調を崩してしまった。

 ――あ、はい……えー……柊――。

 ――『柊海鳴』君です。

「……――!」

 氷峰はカイメイと言った 担任の言葉に息を呑んだ。亜結樹の一番近くに居た友人であるカイメイという男が、亜結樹を窓から突き落とそうとした――その事実を信じられずにいた。そしてもう一つ疑問に感じた事がある――。

「わかりました。今すぐ学校に伺います。教室の場所は……はい、わかりました。失礼致します」


 担任からの電話を切った。そしてしばらくその場に佇んでいた。


 ――柊……。

 カイメイの苗字が、心当たりのある苗字であった事だ。

 だが、蔀がカイメイと共に過ごしているという話は聞いた事がない。

 だとしたら――。


 ――まさかな……気のせいだよな……。

 俺は八束が“カイメイ”と一緒に暮らしているのではないかという予感がした。



 ―――放課後。


 電話で聞いた話だ。亜結樹が学校で問題を起こした。

 詳しく言うと、カイメイが亜結樹に何か言ってそれに亜結樹が猛反発したらしく、カイメイは衝動的に亜結樹を窓から突き落とそうとしたらしい。亜結樹がカイメイに強く言い返した態度が気に入らないからって、普通窓から突き落とそうとするか?

 彼女が問題を起こしたというより、どう考えてみてもカイメイに非がある。

 それより――……。


「柊……。まさかなー……」

 学校の廊下で思わず呟いた。


 俺は、亜結樹の保護者として学校へ行くことになった。正式にはクローンに対して保護者は存在しないのだが――。

 教室に入ると、亜結樹が座っていた。机の横に担任が立っており、現れた氷峰に気づいたようだ。

「氷峰さん、彼女の隣へどうぞ」

 机は真ん中に五つあり、四つ向かい合わせにくっつけてあった。

 亜結樹の向かいには例の生徒が座っていた。頬杖をつき、反省の態度はみられない。

「あんたが『保護者』かよ。若すぎね?」

 海鳴は俺の顏を睨み付けてきた。

「まぁな。同居人だからな」

 そう言い亜結樹の隣に座る。

「そっか……お前、俺と同じクローンだもんな……」

 海鳴は亜結樹の顏を見て、若干苛々した態度で呟いた。

「……」

 亜結樹は下を向いたままじっとしている。

 俺は、亜結樹の横顔を見た。近くで見て、彼女が眼帯をしていることに気づいた。

「おい、大丈夫か?」

「平気……あたしも悪いから……」

「先生、俺の『保護者』来ねぇよ多分」

 頬杖を突いたまま話す。

「でも連絡したら、ちゃんと返事してたから、待ってみようよ……な?」

 担任が優しく海鳴に話しかける。

「……はぁ」

 ――そういうことか……面倒くせぇ。

 氷峰は深い溜め息をつきながら腕を組み、目を閉じた。

 担任はこのトラブルを『保護者』同士で和解させ、学校には責任がないと言いたいのかもしれない。

 ――俺は小学校に入る頃には、既に実の親の世話になったことがねぇから、こういうのはどう対応していいか全くわからない。

 ――カイメイの相手がどんな人なのか。彼もクローンということだから仮に里親という形なわけだが……形だけであって、俺と同じで単なる同居人でしかねぇな。

 ――どんな奴か……――やっぱり……アイツなのか……。


「すいませんー……遅れましたァ!」

 だらしない 若い男性の声がした。したと同時に、戸の開く音がした。

 氷峰は目を開ける。

「柊さん! 海鳴の隣へどうぞどうぞ」

 担任は明るい声で言った。

 俺は、柊さんと呼ばれたその男の姿に胸がざわついた。

「ッ――! あ……!」

 彼もまた氷峰の姿を見て驚愕した。思わず声が小さく漏れる。

 亜結樹と海鳴は、氷峰と遅れてやってきたその彼の様子が変だと思った。

「ミネ?」

 亜結樹が怪訝そうな顏をして固まった氷峰に声をかける。

「……」


 ――やっぱり八束が海鳴の同居人なのか……。

 ――ていうか八束が……クローンと同居? 何でだ?

 ――確かこいつ、まだ働いてねぇだろ……。

 氷峰は目を丸くしたまま、八束を見つめていた。

「どしたの……八束……」

 海鳴も亜結樹と同様パートナーに声をかける。

「ん……あ、ああ……何でもねぇよ」

 ――あれ……人違いか? ……にしちゃ似てるし。てかミネに間違いねぇ……。


 八束と呼ばれたその男は、氷峰から目を離さずに海鳴に返事をし、そのまま海鳴の隣の席に座る。思わぬ形で二人は再会してしまった。

「ではまず……」

 担任が経緯を話そうとした時、八束が突然海鳴に――

「おい謝れ」

 と言った。

「は?」

「だから女に怪我させといてごめんの一言も言えねぇのかっての」

「そ、そういうわけじゃ……」

 海鳴は亜結樹の顏をちらちらと見るなり八束の一言に動揺したが、なかなか謝ろうとしない。すると、八束は立ち上がって海鳴より先に頭を下げた。


「すみませんでした!」


 その姿は五年前、高三だった頃の氷峰に謝っているようだった。


「!? ……ひ……柊さん? 顏上げてください――!」

 担任は突然、大声で謝った八束に慌てていた。

「八束……お前……」

 氷峰は伏し目になり、小声で呟いた。

「ほらお前も頭下げろ」

 と言って、椅子に綽然と座る海鳴の頭をぎりぎり机につくぐらい、強制的に下げた。

「わ! ちょ――ぶつかるっ!」

「……」

 亜結樹は相手の状況に戸惑い、何も言えなかった。ただ黙っていることしかできなかった。

「亜結樹……気は済んだか?」

 氷峰は突然謝りだした二人の姿を見て、亜結樹の肩に手を添え話しかける。

「え……え、と……別にあたし怒ってないから……」

 氷峰の一言に八束は耳を疑った。

 ――アユキ……?

「……じゃああんたが……」

 八束は顏を上げ、目を点にして呟いた。

 彼は、電話で担任から女子生徒としか聞いていなかったようだ。

 

 ――ボーイッシュだなぁ……ミネと一緒に暮らしてんのか……この子。

「八束……詳しい事は帰り道で話すから。……じゃ先生、もういいですか?」

「あ……はい……あとは皆さんに任せます……」

 担任は苦笑いしながら教室を逃げるように去っていった。


 

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