蘇る本能 #3

 叶はコーヒーをひと口啜って咳払いを入れてから、史穂に問いかけた。

「それで、お兄さんはいつ頃から?」

「ーヶ月くらい前からです。『急な仕事が入った』って言って出かけたっきり、家にも帰って来ないし、ジムにも顔を出さなくなって」

 柔道から総合格闘技に転向した坂巻は、現在は現役を引退して、選手時代に設立した格闘技ジム『DOUBLEダブル-CROSSクロス』の経営と後進の指導に専念していた。責任者の坂巻がひと月近くもジムに姿を現さないのは確かに異常だ。

「そう。それで、今まで何の連絡も無いの?」

 叶が訊くと、史穂は困り顔でスマートフォンを操作しながら答えた。

「メールは二回来たんですけど、何か変なんです、そのメール」

「変って?」

「書き方が違うんです。これが去年、兄がアメリカに行ってた時にくれたメールです」

 史穂が見せたメールの本文は、坂巻の一人称が全て『兄ちゃん』で統一されていて、文章全体から妺への気遣いや思いやりが滲み出ていた。

「で、これが二週間くらい前に来たメールなんですけど」

 次のメールは、一人称が『俺』になっていて、文章も事務的で無味乾燥むみかんそうな印象を受けた。

「確かに、同じ人が書いたとは思いにくいね」

「ええ、それに、こっちからメールしても全然反応無いし、電話してもすぐ留守録になっちゃうんです」

 史穂の言集を聞いて、叶は少し逡巡してから返した。

「こう言っちゃ何だけど、警察に行った方がいいんじゃないかな?」

 すると史穂が「行ったんです、昨日」と即答した。虚を突かれた叶が、

「え、そうなの? それで?」と訊き返す。

「行ったんですけど、さっきのメールの事を言ったら、じゃあ無事なんでしょ、って言われて、取り合ってもらえなかったんです」

 悲しみと憤りの入り混じった表情で答える史穂に、叶は溜息混じりに言った。

「そうか……警察ってのは、何かあってからじゃないと動かないからね、あんまり頼りにならないんだよ」

 しばし、二人の間に重い沈黙が訪れた。それを破ったのは、史穂だった。

「それで、実はタベ、兄から電話があったみたいなんです。バッテリ一切れちゃってたから留守録なんですけど。でも何か、様子がおかしいんです」

 言い終えると、史穂はスマートフォンを操作して叶に差し出した。

「様子がおかしい?」

 オウム返しに言ってからスマートフォンを受け取ると、叶は眉間に皺を寄せつつスビーカーを耳に当てた。すると、荒い息遣いと共に男の声が聞こえた。

『史穂、すまん……兄ちゃん、取り返しのつかない事をしてしまった……もう、兄ちゃんは、あっ』

 メッセージの終わり方が、明らかに不自然だった。第三者に通話を切られてしまった様に聞こえる。

「これ、発信元は? お兄さんの携帯?」

「いえ、公衆電話でした」

 叶の問いに、史穂がうつむいて答える。公衆電話なら、他の人間が電話を切る事は容易だ。これで、坂巻が何らかのトラブルに巻き込まれたらしい事が叶にも判った。

 史穂にスマートフォンを返してコーヒーをひと口飲んだ時、叶の頭にひとつの疑問が浮かんだ。

「でも、その音声があればさすがに警察も動くんじゃないかな? それを、どうしてここに?」

 質問された史穂は、何故か目を泳がせながら答え始めた。

「それは,その、昨日の警察の人があんまりにも冷たい態度だったから、行きたくなくって、それと……」

 急にロごもる史穂に叶が「それと?」と先を促すと、史穂は急に輝いた目で叶を見返して告げた。


《続く》

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