蘇る本能 #2

「本当に、すみませんでした!」

『叶探偵事務所』の中、表通りに面した壁にめ込まれた『探偵』と大書された窓を背にした黒い革張りのソファに膝を揃えて座ったまま、女子高校生が深々と頭を下げた。

 その対面に、ガラス製のテーブルを挟んで敵意き出しの顔の桃子が座っている。その揃えた両腿の上に、叶の頭が左を下にして乗っていて、右頬に氷を詰め込んだビニール袋が桃子の手で当てがわれている。叶はソファに横臥おうがしたまま、微笑混じりに応えた。

「いや、オレの方こそ驚かしちゃってゴメンね」

「何て乱暴な子なの? ともちんが死んじゃったらどうするつもりだったの!?」

 桃子が強い口調で問うと、女子高校生は肩をすくめて答えた。

「その、痴漢かと思って」

「まぁ! 痴漢ですって!? こんなカッコイイ痴漢が居る訳無いでしょ!」

「まぁまぁ落ち着いてママ、じゃなくて桃ちゃん。あ、そうだ、コーヒー淹れて来てくれないかな? ふたつ」

 激昂げっこうする桃子をなだめつつ叶が促すと、桃子は口を尖らせて叶を見下ろし、

「仕方無いわね、ちょっと待ってて」

 と告げて叶の顔から袋を外した。叶が身体を起こした直後に立ち上がり、女子高校生を一瞥いちべつして「フン」と鼻を鳴らしてから玄関へ向かった。玄関の対面に『給湯室』と『御手洗』の二枚のプラスティック製のプレートが貼られた扉があるが、桃子はそちらではなく玄関から外へ出て、袋をくるくる回しながら下りて行った。

 桃子を見送ってから叶は立ち上がってソファの後ろに鎮座ちんざするデスクに取りつき、天板の右側を占拠するファックス付き電話機の傍らに置かれた名刺ケースから名刺を一枚取り出した。

 デスクの後ろには大きめのパーテーションが二枚立ち、事務所の三分の一ほどを区切っている。その裏側は叶の居住スペースである。

 ソファに戻った叶が、名刺をテーブルの上に置いて自己紹介した。

「改めて、オレは叶友也。ここで探偵やってる」

「あ、わたしは――」

 言いかけて、女子高校生はブレザーのポケットから学生証を取り出して示した。

坂巻史穂さかまきしほと言います。高三です」

 その学生証は、この事務所からも近い坂下高校さかしたこうこうの物だった。叶が視線を上げて窓の上に掛けた時計を見ると、午前八時五分を差していた。

「君、これから学校でしょ? どうしてここに?」

 叶が尋ねると、史穂は困った様な表情で答えた。

「実は、兄を探してもらいたくて」

 史穂は脇に置いた通学鞄を開けて、中からスマートフォンを取り出して操作し、一枚の写真を表示して叶に見せた。写っているのは、筋骨隆々とした上半身に大量の汗を光らせながら笑顔で右手親指を立てる、三十歳前後と思しき男だった。写真を目にした途端、叶は驚いて声を上げた。

「え? 君のお兄さんって、坂巻功太郎さかまきこうたろうなの!?」

「あ、はい」

 史穂がうなずいたと同時に玄関の扉が開き、二客のコーヒーカップを乗せたトレーを持った桃子が入って来て、

「誰それぇ?」

 と訊いた。叶は振り向いて桃子を見ると、

「知らないの? 元柔道日本代表で、オリンピックで三回戦負けして帰国した直後に総合格闘技に転向して、柔道関係者やマスコミから『裏切り者』呼ばわりされた――」

 とまくし立てて急に言葉を切り、史穂に向き直って「あ、ゴメン」と頭を下げた。

「いえ、いいんです」と言ってかぶりを振る史穂に対して、かける言葉を失った叶の前に、桃子がそっとコーヒーを置いた。次に史穂の前に置く時はわざと大きな音を立てる。

「はいどうぞ~。ともちんの好みでミルクもお砂糖もありませんからね~」

 とげのある口調で告げると、満面の笑みを浮かべて叶に手を振って出て行った。


《続く》

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