第6話「プロ作家」
――何かおかしい。
凛音は歩のベッドに座って、部屋の片隅に置かれている消臭剤を見詰めていた。これと同じ物が台所に置かれているのも、確認済みである。
凛音は歩の猫背に目を向けた。歩は椅子に腰掛け、キーボードを叩いている。首を回したり、腕を伸ばしたり、欠伸をしたり……余計な動作が目立つものの、それなりに、執筆を頑張っているようだ。ただ……。
「ずっと座りっぱなしじゃ、腰が痛くなりません?」
「朝、体操したり、散歩したりしてるから」
……はぁ、そうですか。凛音は桃色の飴玉を舐めながら、天井を見上げる。
前回の一件……黒猫事件から、凛音は何か空気が変わったような気がしていた。それは消臭剤の有無という意味ではなくて……まぁ、それもあるだろうけれども。
あれ以来、凛音は歩の作品を読んでいない。歩にしても、他の作品を凛音に薦めるようなことはなかった。……安請け合いは良くなかったと、凛音は思う。あれほど念を押されたのに、読むと言ったのは他ならぬ自分だ。因果応報。自業自得。
おもむろに立ち上がった歩が、部屋を出て行く。トイレだろうか? 浴槽、洗面台、トイレが一緒の三点ユニット。凛音は余程の必要に迫られない限り、ここではトイレを借りるまいと固く心に決めていた。……だって、ウォシュレットもついてなさそうだし、その、色々と、筒抜けなんだもん。
ただ、歩はすぐに引き返してきた。その手にはペットボトルのお茶が二本。それを一本、凛音に向かって差し出す。凛音はお礼を言ってそれを受け取ると、キャップを開けて一口。歩も同様にして水分を補給すると、立ったまま凛音に声をかけた。
「君、友達いないの?」
「い、きなり何を言い出すんですか!」
飴玉を振り回して抗議する凛音。僅かに零れたお茶がベッドに染み込むのを横目に、歩は手にしたペットボトルで肩を叩きつつ、先を続ける。
「前にも言ったけどさ、せっかくの夏休みなんだから――」
「先生がSTWに入ってくれれば、私も夏休みを謳歌できると思いますけど?」
「……悪かったな」
歩はそう言うと、椅子に座った。凛音は飴玉を口に含み、うーっと唸る。
……やっぱり、変だ。前だったら、そんなの関係ないとか、知ったことかとか、言いそうなのに。一体、どんな心境の変化が――。
「夢とか、ないのか?」
……夢? 凛音は飴玉を口から離し、首を傾げた。
「それはまた、突然ですね?」
「悪かったな」
「いや、悪くはないですけど……そうですね、世界を救うことでしょうか?」
「本当か?」
素早く聞き返した歩は、ぐるりと椅子を回した。凛音は歩に肯いて見せる。
「……本当です。それが、私の夢です」
「じゃあ、君にとっての世界とは何だ?」
「え? な、何の話ですか?」
「……ちゃんと答えてくれるなら、STWに入ってもいい」
凛音は目を丸くする。……STWに入る? そう言ったよね、今?
「どういう風の吹き回しですか? 何かの冗談ですか? からかってるんですか?」
「冗談じゃないし、からかってもいない。だから、答えてくれ」
歩の真剣な……いや、必死……とでも言うような眼差しに、凛音はたじろぐ。
「え、えーっとですね、世界とは、それはそれは大切な――」
「それは、一般論だろう?」
「へ?」
「君にとっての世界、それは何だ?」
「私に、とって?」
「君が言う世界の形を答えて欲しいんだ。それを救うのが、君の夢なんだろう?」
「……先生はどうなんです?」
「俺か? 俺の世界はこれだよ」
歩は振り返ると、ノートパソコンを指さした。凛音はぽんと手を叩く。
「ああ! インターネット?」
「……小説だ」
――ぴちゃん。
凛音は首筋に落ちた水滴で、びくりと身を震わせた。……うう、これだけはどうも慣れないんだよなぁ……凛音は湯煙に霞む天井を見上げた。
そのまま首を後ろに捻れば、壁面に描かれた見事な銭湯富士の姿が……ここはSTWにある福利厚生施設の一つ、銭湯であった。二十四時間、自由に利用できるのがありがたい。(しかも、天然温泉だというおまけ付き!)
凛音は広々とした湯船に手足を伸ばし、リラックス。長い髪が湯に浸からないよう、タオルを頭に巻いていた。他に利用者の姿は見えず、貸し切り状態。それもそのはずで、時間は午前二時を回っていた。――戦闘を終えて銭湯へ……くふふ……うん、疲れてるな、私……。
世界とは何だ……凛音が歩の問いに答えられないでいると、警報が鳴った。凛音はその場で戦闘をこなし、シュヴァリエがいなかったので、単身STWへ。その後、断続的に戦闘。一度、シュヴァリエも登場したが、緑色だったこともあり、和馬がランスロットで出撃し、これを撃破。それからはリオン・ハートの調整やら、長期の休学を補う勉強やらを経て、現在に至る。
……そう、何だかんだと言う前に、世界は脅威に曝されている。それなのに、変なところにこだわるのは、作家だからだろうかと、凛音は思う。それに、友達いないのなんて……そのままそっくり、返してやりたい言葉だった。
あんな偏屈者には、どうせ友達なんて……と、凛音は他ならぬ作家であり、友人でもある少女を意識した。……姫子、どうしてるかな。
「あっ! リオンちゃん発見! だーいぶっ!」
へっ? 湯船に浸かる凛音に向かって、褐色の少女が飛びかかった。
猫耳に尻尾、金髪、碧眼……ミコである。ざばーん。そのまま押し倒され、凛音は湯船の底に沈んだ。ぶくぶく……。
「……ここ、だよね?」
凛音は携帯電話に表示されている地図と、見上げるほど巨大な門を何度も見比べた。引っ越したとは聞いており、住所も知っていたが、訪れるのは今日が初めて。
プライバシー保護のためか、表札は出ていなかった。しかし、高い塀で囲まれているというだけで、そこに特別な人が住んでいることは明白であり、凛音は上空から、その目で豪邸の存在も確認していた。
……先に電話をしておくべきだったかな。友達と会うのにアポイントメントもないだろうと思っていた凛音だが、固く閉ざされた門を前にして、気後れする。
また、呼び鈴の近くにカメラを見つけてからは……服装も気になった。セーラー服の上に漆黒のコートを羽織り、大きなショルダーバッグを肩に提げ、手には箒……通報されないかなと、不安が募る。
……ええい、考えていても仕方がないと、凛音は呼び鈴を鳴らし、カメラに向かって精一杯微笑んだ……が、反応なし。凛音は携帯電話で時間を確認する。
もう一度鳴らしてから、五分ぐらいは待ってみようかな……そう思ったところで、モーター音を響かせながら、門が開いていった。その先で待っていたのは……牡丹柄の着物を着た少女。凛音の瞳が大きく見開かれた。
「凛音、久しいな」
「姫子! ……凄い、よく似合ってる!」
凛音はまじまじと姫子を見詰める。初めて見る友人の着物姿は、それが当たり前のように自然で……おかっぱ頭もあいまって、日本人形のように美しかった。
「ありがとう。君は……随分と賑やかだな。それが、世界を救う者の装束かい?」
「ん、まぁ、そんなとこ! でも、驚いた、黒姫先生自らお出迎えとはね!」
「友が訪ねて来たんだ、出迎えるのは当然だろう?」
友か……凛音は何だかじんとしてしまう。そんな凛音を見て、姫子は笑った。
「来て早々、泣く奴があるか。立ち話も何だ、中でとくと語り合おうじゃないか」
凛音は指先で涙を拭うと、笑顔で肯いた。
――黒姫。本名、黒川姫子。十七歳。中学三年生でプロデビュー。デビュー作「才果て」で芥川賞を史上最年少受賞。「才果て」はトリプルミリオンのベストセラー。翻訳され、海外でも大ヒットとなり、一躍世界的な作家となった。
だが、個人情報は顔写真と本名、年齢の他は非公開で……年齢詐称、ゴーストライター、果てはロボットなど、様々な疑惑が取り沙汰されることもあったが、その人気は留まることを知らず、発表した作品は常にミリオンヒットとなっている。
出版業界の救世主とも言われており、早くも日本人女性初となるノーベル文学賞の受賞が期待されているものの……凛音にとっては有名な作家である前に、気の置けない友人であり、良き理解者であった。
姫子の書斎に案内された凛音は、立ち並んだ本棚に唖然とした。……図書館?
「すご……」
「電子書籍にすればいいのだろうが、紙の本じゃないと落ち着かなくてな」
「これ、全部読んだの?」
「ああ。ほとんどは流し読みだがね」
さらっと言ってのける姫子。凛音と出会った中学一年生の時点で、姫子は中学校の図書室だけでなく、近所の図書館の蔵書を全て読破していたという。それを初めて聞いた時は、何かの冗談だろうと思っていた凛音だが……交友を深めていく中で、どうもそれが冗談ではなさそうだと思うようになった。姫子なら……と、凛音に思わせる何かを、彼女は持っていたのである。
書斎の離れには囲炉裏。火にかけられた鉄瓶が、白い湯気を出している。
い草香る畳の上には座布団。姫子は草履、凛音は運動靴を脱いで畳に上がると、囲炉裏を挟んで向き合い、座布団の上に正座した。
姫子は慣れた様子で湯飲みにお茶を注ぐ。お茶請けは
「……それで、今日は何の相談だ?」
姫子にそう切り出され、凛音は思わず舌を出した。
「あちゃ、お見通しか」
「当然だ。音沙汰がないまま、かれこれもう二年も経つんだぞ?」
「……ごめん」
「謝ることはない。あの時はお互い……な。転機であった」
凛音は肯いた。……そう、全ては二年前だった。始まりも、終わりも。
「それに関わることか?」
「そう、なるかな? だから、話すと長くなっちゃうけど……」
「構わんさ。あの頃は毎日のように、語り合っていたではないか?」
「……うん、そうだったね」
凛音は微笑むと、湯飲みを傾けた。そして、語り始める。二年前のあの日から、現在に至るまでの全てを。その多くはSTWに関わることで、部外者に話して良い内容ではなかったが、凛音は全て、包み隠すことなく、正直に語った。姫子への信頼……それ以上に、凛音はただ、語りたかったのである。空白の二年間を。
姫子は一瞬たりとも姿勢を崩すこと無く、凛音の話に耳を傾けていた。時折笑ったり、驚いたり、眉根を寄せたり……相づちを打ちながら。そして……。
「……なるほど。世界の形、か」
姫子の頷きに、凛音も頷きで応じた。湯飲みを手の中で回しながら。
「私も色々考えみたんだけど……よく分からなくなっちゃって」
「だろうな。だから、彼もそう言ったんだ」
「……どういうこと?」
「君が答えられないことを承知の上で、ということだ」
「……じゃあ、STWに入る気なんて、そもそもなかってってこと? もうっ!」
凛音は最中に手を伸ばし、もぐもぐと頬張った。
「ただ、本音は違うだろうな」
「ほふね?」
頬を膨らませたままの凛音に、姫子は肯いた。
「君にそれを思い出して欲しいのだろう」
凛音はごくりと最中を飲み下す。
「……思い出すって? 私が忘れてるってこと?」
「そう、考えている。少なくとも、彼にはそう見えたということだ」
「姫子も、そう見える?」
そう聞かれた姫子は、すっと目を細めた。ぴんと背筋を伸ばす凛音。
「……私には、進むべき道を見失っているように見えるな」
「何よ、道って?」
「そう問い返すこと自体、見失っている何よりの証拠ではないか?」
「むー……」
凛音は唇を尖らせた。……何か、先生の肩を持っているような気がするなぁ。
「それは、小説家の視点ってやつ?」
「かもしれん。作家というものは、普段は当たり前だと見過ごされている言葉に、新たな角度から光を当て、その意味を照らし出すことを生業としているからな」
「見過ごされている言葉?」
「言葉とは元来、曖昧な情報しか持ち得ない、不完全な圧縮技術の産物なのだよ」
「……えーっと、もっとわかりやすく!」
「そうだな……」
姫子は最中を手に取り、凛音に向かって差し出した。
「最中という言葉は、この手の中にある存在そのものではないということだよ」
「分かるような、分からないような……」
「私と君の間で最中という言葉が通じるのは、それがこの私の手の中にある存在を示しているという、暗黙の了解があるからだ。だが、最中という言葉だけでは、それがどんな最中であるかまでは伝わらないだろう?」
「……確かに、どんな味とか、手触りとか、重さとか、そこまでは伝わらないね」
「そう。それを伝えるためには、さらなる言葉が必要だ。甘い、辛い。固い、柔らかい。軽い、重い……だが、普段は最中の一言で足りる。それは、世界も同じだ」
「最中と世界が同じ?」
「ある意味では、な。世界という言葉の意味が一つで、普遍的ならばそれでいい。世界を救う……大いに結構。だが、そうではないだろう?」
「……最中の種類が色々あるように、世界も一つじゃないってことね」
凛音は姫子の手から最中を受け取ると、それをじっと眺めた。
「人の数ほどにな。だからこそ、君にとっての世界、という言葉が意味を成す」
「先生は、小説だって言ってた。姫子もそうなの?」
「広い意味では、な」
「……じゃあ、私も小説だって言えば良かったのかなぁ?」
凛音はそう言うと、最中を口に頬張った。そんな凛音を見て、姫子は一言。
「……当たらずも遠からず、だな」
「ん?」
姫子が黙ったままなので、凛音はせっせと最中を咀嚼し、飲み込んだ。
「……今の、どういうこと?」
「凛音」
「何?」
「彼が君に求めている答えを、私が君に教えることはできる」
「ほ、本当! 教えて!」
「ただ」
「うん?」
「それではやはり、違うのだよ」
「何が?」
「それどころか、君を答えから遠ざけてしまうことになる」
「……どういうこと?」
「つまりだな」
「うん」
「答えは、君自身で見つけなければならない」
がっくりと
「……なんなのよ、それ! ねぇ、ヒントは?」
「君が今も続けていること。……いや、続けていて欲しいと私が思うことだ」
腕を組み、考え込む凛音。その姿を、姫子はじっと見守っていた。
……凛音は姫子のヒントこそ、答えだと感じていた。だが、それは凛音にとっては答えに成り得るものではない。もし、それが答えだとしたら……首を振る凛音。
「姫子」
「なんだ?」
「……前にさ、姫子に作品を見て貰ったじゃない?」
「ああ」
「……私、姫子から色々言われたよね? デビューできないとか」
「そうだな」
「あの時、私が何て言ったか覚えてる?」
姫子は目を見開いた。胸元に手を当て、大きく息を吐く。
「……忘れたのか?」
肯く凛音。姫子はじっと凛音の瞳を見詰めた。
「ありがとう」
――姫子が口にしたのは、あの時の歩と同じ言葉だった。
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