第5話「無名作家」

 ――ミーン、ミンミンミン。ジージージー。ジャワジャワジャワ。

 お盆が過ぎても衰え知らず……そんな蝉の声を聞きながら、歩はノートパソコンのキーボードを叩いていた。コンテストの締め切りは九月末日。つい先日までは、余裕を持って新作を書き上げられる算段だったのだが……歩は背後を振り返る。

 ベッドの上で、凛音が体育座りをしていた。黒い飴玉を舐めながら、きょろきょろと部屋を見回している。歩の視線に気付くと、飴玉をびしっと突き出した。

「お構いなく!」

 ……なぜ家に上げてしまったのだろうかと、今更ながら歩は自問する。そして、凛音が家に来た理由が「遊びに来た」からだと気づき、歩は正面に向き直った。溜息をつき、がっくりと項垂うなだれる。……やれやれ、だ。

 凛音はそんな歩の背中を見て、ほくそ笑む。――作戦通り。

 目的が「STWの勧誘」では拒絶されても、「遊びに来た」という名目なら家に入れてくれるだろうというのが、凛音の作戦だった。さらに「絶対に執筆の邪魔はしません!」とまで言えば、完璧である。いくら拒絶されようと、家に入るだけならカベヌケールを使えばいいのだが……あくまで「自発的」でなければ意味がないと、凛音は思っていた。……無理強いは良くないもんね、うんうん。

 もちろん、本当に遊ぼうと思って来た訳ではない。そもそも、この家に遊べるようなものがないことも、凛音は今回初めて知った。……そう、凛音は「調査」をするためにやって来たのである。歩のことを、もっと知るために。

 今後の戦いにおいて、歩の力が必要なことは間違いないと凛音は思う。それは軍師のタレント云々以前の問題で、誰の目にも明らかだった。何としても歩をSTWに……そう考えた凛音は、何がそれを妨げているのかを調べることにした。歩の言葉を借りれば、夢なのだろうが……何かそこに「特別な理由」があるのではないかと、凛音は考える。何せ、世界よりも大切だというのだから。

 ……その一方で、STWは「亀山歩」という人物を、徹底的に調べ尽くしているだろうなとも思う。そこから答えに迫ることもできるだろうけど……凛音はそれを良しとしなかった。その理由は……凛音自身、よく分からない。ただ、何となくフェアじゃない……ずるいと感じただけで、それでも、その感覚は大事にしたいと思ったからこそ、凛音は今、歩の部屋にいるのだった。

 ――それにしても、簡素な家だと凛音は思う。そもそもワンルームという間取りが初めてなのだが、玄関の右手には台所とユニットバスがあり、正面の扉を開ければ歩の部屋、その奥にはベランダ……と、それだけ。機能的と言えば機能的だが、物を置くスペースが圧倒的に足りないなぁと、凛音は感じた。台所の周りに冷蔵庫と電子レンジ、洗濯機が置いてあるぐらい。後はコンビニの袋に包まれたゴミの山……一応、分別はされているみたいだけれど。

 そして、この部屋である。ベッド、机、椅子、ノートパソコン。テレビは置かれていない。歪んだカーテンレールには、数着の上着がハンガーでぶら下がっている。凛音の胸の高さほどのタンスの上に、家族の写真が置かれているのを見て、凛音は意外に思った。部屋の中で一番目立つのは、天井の高さまである本棚。

 凛音はベッドから下り、本棚の前に移動した。

 流石は小説家志望……と言いたいところだったが、それは凛音の部屋にある本棚よりも小さく、蔵書も少なかった。もっとも、凛音の本棚には漫画しか並んでいないのだが……一方、歩の本棚に漫画は一冊もなく、小説がずらっと並んでいた。文庫本が中心で、新書とハードカバーがちらほら……といったラインナップ。

 知らない作品ばかりだけど……と、凛音は一冊の本に目を留めた。背表紙に書かれたタイトルは「才果て」。作者は「黒姫」。……やっぱり、これはあるんだ。

「何やってる?」

「ひゃっ! ……お、驚かさないでくださいよ!」

 凛音が横を向くと、歩が立っていた。猫背気味だが、それでも背は歩の方が高いので、真横に立たれると威圧感……というより、圧迫感がある。

 ……今更ながら、男女が密室で二人っきりというのは、道徳上よろしくないのではないか……そう思った凛音は、さりげなく体を引いて、歩を睨んだ。緊張感のない顔が凛音を見返す。凛音は首を振って、溜息をついた。

「な、なんだよ?」

「……何でも。いや、どんな本があるのかなって。姫子の本もあるんですね」

「姫子……ああ、黒姫のことか。本名を知ってるなんて、ファンなのか?」

「ま、まぁ、そんなとこです! 亀山さんも?」

「芥川賞最年少受賞者にして、ノーベル文学賞最有力候補……小説家を目指す以上、避けられない作家だからな。まぁ、そんな凄い作品だとは思えなかったけど」

 凛音はむっとしたが、平静を装いつつ、歩に尋ねる。

「じゃあ、亀山さんはどんな作品が好きなんですか?」

「SFとか、ファンタジーとか……ミステリーも興味はあるけど、読めてないな」

「じゃあ、書く方もそういう感じで?」

 何気ない質問。だが、歩の反応は凄かった。口を大きく開き、鼻を膨らませ、何か信じられないものを見るような目つきで、凛音をまじまじと見詰める。

「俺が書いてる作品に、興味があるのか?」

 ……そんなこと言ったっけ? そう思いながらも、凛音は肯いておく。

「そうか……」

 歩も頷きながら、机に向かう。立ったままノートパソコンに向かい、何やらマウスで操作をすると、凛音を振り返った。「こほん」と咳払いを一つ。

「……るか?」

「はい?」

 凛音に聞き返され、歩は深呼吸を一つ。凛音に向かって口を開いた。

「良かったら……その、見てみるか? 俺の作品? どんなのがあるのか……」

 凛音は目をぱちくりする。何を言うのかと思ったら、そんなことか。別に、全く興味がないわけでもないし……と、凛音は肯いた。

「そ、そうか! じゃあ、こっちに来て、座ってくれ!」

 凛音は言われるまま机に向かい、勧められるまま椅子に腰掛ける。

 ……あれ? この椅子、背中を支えてくれるんだ! それにお尻も……変な形をしていると思ったら、そんな機能が――。

「ど、どうだ?」

「え? まだ見てないですけど?」

「あ……ご、ごめん!」

 ……ごめん、か。何だか、初めて聞いた気がするなぁ……凛音は飴玉を一舐めすると、眼鏡の縁に手をやり、ノートパソコンの画面を覗き込んだ。えーっと、なになに……「鉄の翼」、「アヴァロンの謎」、「世界征服大冒険」……へぇ。

「凄い、たくさんあるじゃないですか?」

「ま、まぁ、数だけはな。これでも、執筆歴は十年以上だから……」

 十年って……私が小学一年生の頃から書いてるってことよね。

「それでも、プロデビューできないんですもんね」

 ……と、口に出そうになるのを堪える凛音。危ない危ない、これを言ったらアウトだもんね。…・…もっと酷いことを、前に言っちゃった気もするけど。

 ざっと見た限りでも、作品数は十以上。一年に一作以上のペース……これが多いのか少ないのか、凛音には分からなかったが、その努力は感じられ、凛音は何だか嬉しかった。思わず、笑みがこぼれる。

「……どれか、読んでみるか?」

「へ?」

 凛音の反応を見て、歩はすぐに首を振った。

「あ、い、いいんだ! その、ちょっと言ってみただけだから……」

 歩は慌ててマウスを操作し、ブラウザを最小化する。

「……才能のない奴が書いた作品なんて、誰も読みたくないよな」

 歩がぼそっと口にした言葉に、凛音は首を傾げる。

「これ、読まれてないんですか?」

「……小説投稿サイトには、無数の作品が公開されているからな。そして、人気作家が書いた作品や、面白いと評判の作品が優先的に読まれていく……そりゃ、当たり前だよな。無名作家の作品なんて、誰も読んでくれやしないさ」

 深々と溜息をつく歩。……頑張って書いた作品が、誰にも読まれないなんて悲しいよね……そう思った途端、凛音の口は自然に動いていた。

「読みますよ」

「え?」

 歩は凛音に顔を向ける。

「今、何て――」

「だから、読みますよ、私。さっきのページ、もう一度見せてください」

 凛音がそう言っても、歩の手は止まったままだった。

「そんな、別に無理しなくても――」

 凛音は黙って歩の手からマウスを奪い取り、ブラウザを拡大する。

「……これ、あらすじとかって、見られないんですか?」

「それなら、作品名をクリックして……」

「あ、出た出た。この『亀吉』って……もしかして、ペンネームですか?」

「そ、そうだけど?」

「じゃあ、亀吉先生のお勧めはどれですか?」

「せ、先生って……お勧めか。うーん……考えたこともなかったな」

「先生からすれば、どれもお勧めですもんね。……あ、これ面白そうじゃないですか! 『黒猫物語』。私、猫好きですよ? 猫が出てくるんですよね、これ?」

「まぁ、出てくるけど……」

「よし、じゃあ、これにします! これって、携帯電話でも読めますよね?」

「そりゃ、読めるけど……」

 落ち着かない様子の歩を見て、凛音は首を傾げる。

「どうしたんですか? あ、これってもしかして、エッチなお話とか――」

「そ、そんなことないって!」

「じゃあ、問題ないですよね?」

「……だけど、そんな、本当にいいのか?」

 凛音は肯いたものの……そこまで念を押されては、不安にもなる。

 ……何がそんなに心配なのだろうか? ただ、小説を読むだけだというのに……自信がないとか? ……うん、それはあるかもしれない。でも、プロを目指す以上、そんな弱気でどうするのかと、凛音は思う。だって、プロになったら大勢の人が読むことになるんだから、恥ずかしがっている場合じゃ――。

「お礼は、何がいい?」

 ……お礼ときましたか。凛音は「じゃあ、それなら……」と口を開いた。

「STWに入ってくれます?」

 歩が険しい表情になったのを見て、凛音は手と首を激しく振った。

「い、今のはなしで! えっと、その――」

「一回ならいいぞ」

 へっ? 凛音はぴたりと動きを止め、歩の顔をまじまじと見詰める。

「……それ、リッターに乗ってくれるってことですか?」

「ああ、それでいいか?」

 いいも何も……と、凛音は考えを巡らせる。

 ……ということは、仮に一つ作品を読むごとに一回とすれば、少なくとも十回はリッターに乗ってくれるはず……凛音はにやりと笑った。

「もちろんです! 今の、約束ですからね? 忘れないでくださいよ!」

 凛音が歩の鼻先に飴玉を突きつけると、歩は真顔で肯いた。凛音は続いて、携帯電話で作品を読む方法を歩から教わる。……よしよし、時間がある時に、サクッと読んじゃおうっと! サクッとね!

 ――だが、これが大変だった。


 異星人との戦闘が終わり、がらんと人気のなくなったSTWの司令室で一人、凛音は椅子に座って携帯電話を睨んでいた。ぷしゅっと扉が開いても、無反応。

「あら、まだここにいたの?」

 舞は凛音に歩み寄り、その顔を覗き込んだ途端、眉をひそめた。

「……具合が悪いの? 死んだ魚のような目をしちゃって。戦闘、きつかった?」

 凛音は生気のない顔を舞に向けると、じわっと涙を浮かべ、舞に抱きついた。

「司令ぇ……」

「よしよし……どうしたの? お姉さんに話してみなさい? ね?」

 舞は凛音の頭を優しく撫でる。凛音はすすり上げながら、携帯電話を舞に差し出した。舞はそれを受け取ると、画面を親指でスクロールする。

「……黒猫物語? 亀吉って……もしかしてこれ、亀山君の小説?」

 眼鏡を外し、目元を手の甲で拭いながら、凛音は肯いた。

「これは……何というか、黒いわね」

 舞は漢字だらけの画面を見て、目を細める。……漢文、じゃないわよね?

「読むって、約束しちゃったんです」

「……えーっと、何文字あるの、これ?」

「百万文字です」

 舞はすーっと意識が遠のき、倒れそうになる直前で踏み止まる。

「そ、それだけ書くのは凄いと思うわ。でも、読むのは……ちょっと、ねぇ?」

「……でも、読んだら一度、リッターに乗ってくれるって」

「んー一度かぁ……正直、割に合わ……いや、世界を救うためなら……あー……困ったわね、えーっと……あらすじは……あるみたいだし、その、何て言うか……流し読みで、いいんじゃないかしら? 別に、ちゃんと読んだかっていう、テストがあるわけじゃないのよね?」 

「でも、それは亀山さんに悪い気がして……」

「ああ、凛音……私は好きよ? 凛音のそんな優しいところが、本当に大好き!」

 舞は凛音を抱き寄せ、うんうんと肯く。

「……でもね、お姉さんは心配だったの。そんな凛音の優しさが、いつか凛音自身を苦しめてしまうんじゃないかって……そして、その時が来てしまった」

「司令……」

「今の私が、君に言えることは一つしかない」

 舞は手にした携帯電話を、凛音の手の中にそっと戻した。そして、一言。

「……がんばってね!」

「そんなぁ!」

「でも、小説を読むのは手伝えないし、約束したのは君でしょ?」

「……うわ~ん! 司令のバカ~!!」

 凛音の悲痛な声が、STWの司令室に響き渡った。


 ――数日後。

 凛音の姿は歩の部屋にあった。歩は椅子に座って縮こまり、ベッドの上で仁王立ちしている凛音を見上げていた。飴玉を口に咥えているのはいつも通りだが、くりくりとよく動く大きな瞳は半分以上閉ざされ……その下には、くまができている。

 凛音は口から飴玉を取り出し、手にした携帯電話を歩に向かって突きだした。

「読みました」

「……本当か?」

「私が冗談を言うためだけに、わざわざここに来たと思いますか?」

「……えっと、それで、どうだった?」

「どう、だった?」

 鼻で笑う凛音を見て、歩も引きつった笑みを浮かべた。

「どうもこうもありませんよっ! 何なんですか、これはっ!」

 凛音はベッドから飛び降り、歩の鼻先に飴玉を突きつけた。青い飴玉。

「まず、ちゃんと改行を入れてください! あと、漢字を使い過ぎです! 貴方、いつの時代の人なんですか? そして、話の筋がめちゃくちゃ! というか、何も事件らしい事件が起きないじゃないですか? 主人公の黒猫が、延々と語り続けるだけ……それが、終盤までって、物語じゃなくて、ただの語りですよ? それなのに、終盤だけ戦闘描写があったり、唐突に恋愛要素が登場したり、どんな読者を想定してるんですか? そしてっ! 何よりもっ! 何なんですかあのオチは! 銀河を救った英雄猫が、伝説の三味線の材料になるって、バッドエンドもいいところじゃないですか! あれなら、まだ夢オチの方が良かったですよっ!」

 まったくもう……凛音はそこまで言うと、飴玉を舐めて気分を落ち着かせる。そして、落ち着いてから自分の発言を思い返し、さっと血の気が引いた。

 ……やってしまった。凛音はがりがりと飴玉を噛み砕き、そそくさと棒をゴミ箱に投げ捨て……たが、大きく外れ、フローリングの上に転がる。

「え、えーっと、正直に言っちゃいましたけど、その、ほら、良いところも……どこって聞かれたら、その、お時間を……ね、猫はいいですよね! 猫は――」

「ありがとう」

 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる歩。それを見て、きょとんとする凛音。

 メールだよん! メールだよん! 手にした携帯電話が鳴り始める。メールってことは……凛音が文面を確認すると、案の定、シュヴァリエという文字があった。

「よし、行こうか」

「へ?」 

 凛音は耳を疑った。携帯電話を下ろし、歩に顔を向ける。

「シュヴァリエとかいうのが来るんだろ?」

「は、はい! でも、いいんですか?」 

「約束しただろう?」

「そうですけど、私、その、酷いこと言っちゃって……」

「何を言われたっていいさ。読んで貰えないと、感想も何もないんだからさ」

 凛音はまじまじと歩を見詰める。落ち込んでる? ……ようには見えないし、やけになっている? ……わけでもなさそうだ。平然と……いや、むしろこれは……。

「行こう。世界を救わないと、だろ?」

「……はい!」

 凛音はベランダの戸締まりをしながら、首を傾げる。うう、何か、調子狂うなぁ。もしかして、ののしられるのが好きなのかしらん? もし、私だったら……。

 ――画力以前の問題だ。これでプロデビューできると思っているのか?

 はっとして、凛音は本棚に目を向けた。あの時、私は姫子に……。

「水無月さん?」

 ……あ、私か! 凛音は玄関にいる歩に顔を向けた。

「凛音でいいですよ! ……亀吉先生!」

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