雪の朝、君が眠りにつく前に

馳月基矢

雪の朝、君が眠りにつく前に

 あさの病室は、病室らしくない。


 白い壁を嫌って、ロックバンドのポスターを貼ってる。水色のカーテンも、モノトーンのブロックチェック柄に取り替えた。花より音楽がいいって、花瓶の代わりに旧式のコンポを持ち込んでる。布団カバーも替えたがったけど、洗濯の都合で、さすがにこれは無理。


 寝たきりになった今も、朝綺は服に妥協しない。朝、目が覚めたら、必ずパジャマから着替える。ロックTシャツにジーンズ。2つ穴のベルトと、クロスのネックレス。


 出会ったころは、電動車いすだった。自由に動ける朝綺の姿を、あたしは知らない。なのに、変ね。寝たきりで動けない姿を、らしくないと思ってしまう。


「おはよ、朝綺」


 あたしの挨拶に応える声はない。朝綺の喉は呼吸をするのが精いっぱいで、声を発する機能は、もう失われてしまったから。


 姿勢の安定性の高い車いすの上で、朝綺が、ゆっくりと、まばたきした。


 肘置きに固定された朝綺の右手の、指先が動く。微細な動きで操作できるタッチパネルが、朝綺の声だ。モニタに、朝綺の言葉が表示される。


〈おはよ

 また徹夜?

 目元がひどいことになってる〉


「うるさいわね。今月中にどうにか結果を出したい実験があるのよ」


〈お疲れ〉


 朝綺が入院してるのは大学附属病院で、あたしはその大学の医学部で研究をしてる。だから、毎日会える。それだけがあたしの希望。あたしが頑張れる理由。


「今日、すごく寒いの。雪が降るんじゃないかって予報よ。屋内にいたら、わからないわね」

〈ホワイトクリスマスってわけか〉


 朝綺の視線が病室の隅へと動いた。そこに小さなクリスマスツリーがある。例によって、朝綺がわがままを言って取り寄せた。飾り付けをしたのはあたしだったけど、朝綺はいろいろ口うるさかった。星が歪んでるとか、ジンジャークッキーは本物がいいとか。


〈ケーキ、おれも食いたい〉

「無茶言わないで」

うららがおれのぶんまでうまそうに食ってみせて〉

「うまそうにって……無茶、言わないで」


 あたしがいつも仏頂面なの、わかってるくせに。


 朝綺は、指先の言葉で軽口を吐き出す。あたしをからかって、まなざしだけで笑う。視線ひとつきりなのに、誰よりも表情豊かなんだ。


 最初に頬の表情筋が動かなくなった。次に唇が持ち上がらなくなった。舌は唇よりも後だったから、話したがる朝綺はもどかしそうだった。流動食すらダメになったのは、舌の自由が利かなくなったころ。


 朝綺の病気は進行性だ。全身の筋肉が次第に動かなくなっていく、という不治の病。


 まぶたを持ち上げる筋肉は、まだ健在。眼筋も動くおかげで、まなざしだけは、感情を鮮やかに映し出す。少し色素の薄いその目は、頬がこけたせいで、ますます大きく見える。


 モニタに一文字、そっけないブロック体が現れる。


〈麗〉


 朝綺の声が、あたしの頭にリフレインする。繊細で爽やかな声だと、初めて聞いたときに感じた。朝綺の声がささやけば、あたしの名前は、世界一甘く響いた。


「何?」

〈カーテン開けて〉


「え……あ、そういえば。珍しいわね。おにいちゃんがカーテン開けるのを忘れるなんて。今朝も着替えの介助に来たんでしょ?」


 あたしはモノトーンのブロックチェック柄に手を触れた。サッと音をたててカーテンを開ける。ちょっとした出窓の向こうは、グレーホワイトの空。ガラスにまとわり付いていた冷気が、鼻先を撫でた。


「あ、雪……」


 高層階の病室から、空を仰いでみる。一面のグレーの雲を背景に、無数の小さな白がちらちらしている。中庭を見下ろした。ガラスドームの内側で、小児病棟の子どもたちが両手を空に向けて喜んでいる。


 そして、気付いた。出窓に置かれたプレゼントに。


 ピンクゴールドの、手のひらサイズの箱。オーロラカラーのリボンが掛かってる。タグにはMerry Christmasと印字されている。


 あたしは朝綺を振り返った。モニタに、たった今見たのと同じ言葉が表示されていた。


〈Merry Christmas〉

「これ、あたしに……?」

〈ほかに誰がいるんだよ、お姫さま〉

「……ありがと」


 朝綺と向き合えるように、ベッドに腰掛ける。ラッピングを解く手が震えてしまった。朝綺はあたしの手元を見つめながら、そっと笑っているらしい。


〈ありがたいご時世だよ

 指先ひとつで買い物できるんだ

 おかげでおれでもプレゼントを用意できる〉


 いたずらっ子みたいに、朝綺は頭が働く。まさかサプライズがあるなんて、あたしは思ってなくて。


 銀の鎖に、ローズピンクの石が付いたネックレス。


 驚かされたから、ささやかなプレゼントひとつで、涙が出そうになってる。


「ありがと……」


 悲しいわけじゃなくて。でも、嬉しいとも言い切れなくて。泣きたい。


〈付けてみて〉


 あたしはうなずいて、ネックレスの留め金を外す。鎖骨に触れる石の、ひんやりした、かすかな重み。首の後ろに手を回して、留め金を掛ける。髪を払うと、真新しい鎖の感触が少しくすぐったい。


〈麗、後ろ向いて

 髪を持ち上げてみせて〉


「こう?」


 うなずくような空気があって、首筋が、朝綺の視線のせいで熱せられる気がして。


「もういい?」


 振り返ったら、モニタに文字が表示された。


〈色っぽい〉

「バカ」

〈せっかくだからヌードにそのネックレスだけ〉

「お、怒るわよっ」


〈麗に怒られるの好きだ

 筋肉おとろえても妄想はおとろえないの

 おれ男だし

 たまるもんはたまる〉


「ほんと、バカ」


 初めてキスをした日、朝綺は言った。


 ――今回だけ、1回だけ、謝っとく。ごめんな。おれの体じゃ、何もできない。自分からキスすることも、手をつなぐことも、触れることも、抱きしめることも。


 キスしてくれ、って朝綺はあたしに告げた。体を寄せて手で触れれば、応えてくれる体温があった。朝綺が生きて、ここに存在する。あたしは、それだけでいいと思った。


 ――不甲斐ない。男として、ほんと不甲斐ないから、ごめんな。でも、恋したことを謝罪したり後悔したりはしない。麗への気持ちに嘘はねぇんだ。そのぶん不甲斐ないけど、後悔のごめんは絶対言わねえ。


 あたしもそう。朝綺を好きになったこと、絶対に後悔しない。


〈麗、〉


 モニタの文字が続きそうな気配がある。あたしは朝綺の右手を、両手で包んだ。長い指、関節の目立つ形、つやを失った爪。


「記録、残っちゃうから、ダメ」


 あたしたちだけの時間は、誰にも触れさせたくない。2人きりのものにしていたい。


 朝綺の右の手のひらに、あたしの左の手のひらを添わせる。乾いた感触。指を絡ませてみる。静脈の浮いた手の甲に頬ずりをする。


 見つめ合えば、朝綺の声が心に流れ込んでくる。


 ――キスしたい。


 そっと唇を重ねる。朝綺の静かな呼吸を感じる。薄目を開けると、朝綺の長いまつげが見えた。キスのとき、朝綺は必ず目を閉じる。


 好き。


 あたしは朝綺に出会うために生まれてきた。


 唇を離す。


 朝綺の頬に触れて、髪に触れて、肩に手を載せて、体を寄せて、額にキスして、頬をくっつけ合って、すがり付いて甘える。ネコみたいだと、朝綺に言われたことがある。


 だって、あたしはうまく言葉にできないから。それに、朝綺がここにいることを、触れて確かめたいから。


 不条理だ。悲しみより怒りより、悔しさが圧倒的に強い。あたしには、どうして、今すぐ朝綺を救う力がないんだろう?


 ――麗。


 呼ばれた気がして、朝綺の目を見つめた。微笑みが、そこにある。透き通りそうなくらい純粋な熱が、瞳に宿ってる。


 ――好きだ。


 吐息のような声が消える最後まで、ささやいてくれた。あの響きが、あたしを動かし続けている。


 来年のクリスマスのころ、朝綺はきっとこの病室にいない。あたしは孤独に耐えられるだろうか。


 耐えなきゃいけない。選んだんだ。あたしは、朝綺に恋して生きることを選んだんだ。


「あたしも、プレゼント用意してきたの。朝綺が好きなバンドの、限定版のデビューアルバムよ。あれだけは持ってないって言ってたでしょ?」


 朝綺が、うなずく代わりのまばたきをして、そのまなざしに、まぶしげな笑みが浮かぶ。


 生きていて。生き続けていて。そう願うのに、時間は流れる。タイムリミットが、鼓動ひとつ呼吸ひとつ、そのたびに近付いてくる。


 ――ねえ、お姫さま。


 朝綺のまなざしの中に、声が聞こえた。何、と首をかしげる。


 ――笑って。



***



 冬が過ぎて春が来るころ、朝綺は、氷の中で眠りに就いた。モニタに、ひとつ、言葉を残して。


〈麗、愛してる〉


 そのただ一言に、あたしは生かされている。


 歩みを止めないと誓った。朝綺のためにもう一度笑える日を夢に見ながら。



【了】



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