第九章 漁夫の利

第九章 漁夫の利



 ― ノルウェー砕氷船「ホルダラン」 ―


 ノルウェー調査隊の救出命令を同国科学省から受けた砕氷船「ホルダラン」は前方に漂う小さな流氷を蹴散らしながら順調に航海を続けていた。


「航海長、今のところ流氷は少ないし、天候も安定しているようだが、我々の行き先の天気予報はどうなっている?」とウルマン船長は尋ねた。


「天候は少し悪化しそうな気配ですね。航路の流氷密度は航行の許容範囲です。また、遭難地点での氷の厚さもこの船で砕氷できる範囲内です」と航海長は答えた。


「よし、現在のコースと速度を維持せよ。ただし、流氷密度に注意を怠るな」と厳しい表情で船長は言った。


「了解。現在のコースと速度を維持。流氷密度の変化を逐次報告します」と航海長は答えた。


 ブリッジ内は、今から多くなることが確実な流氷に備えて、レーダーと目視による監視でピリッとした空気に変わった。遭難したノルウェー調査隊の救出命令を受けた時の「ホルダラン」の位置には流氷は全くなかったが、遭難地点に近づくにつれて流氷密度が高まり、かつ、その大きさも次第に大きくなってきていた。ブリッジではその変化を自分の視覚と計測器のデータで見ることができるので、次第に緊張感が高まってきていた。ブリッジにいるスタッフは何回も砕氷航行したことのある経験者ぞろいであるが、船体強度と氷の厚さの計測値を信じて氷を割っていくことに対しては、常に腹をくくった覚悟で臨んでいた。


 船長は考えていた。遭難したノルウェー調査隊をうまく探し当てたとしても、「ヤマル」の乗組員では十分な救助活動をすることができないことは明白だった。砕氷船であるから、遭難地点までは近づけたとしても、調査隊の六名を救助できるかどうかについては自信がなかった。そうした訓練を受けたことがなかったからだ。そのうえ、本船に遭難者を運び込む装備や医療器具も満足なものは搭載していない。船長の本音では救助活動には消極的であった。


 もし、「ホルダラン」が遭難地点に到着したとして、それから実際に救助することができなかった場合には、自分たちは世間から非難されることは容易に想像できた。「ノルウェーの砕氷船、遭難者の救出に失敗。原因は未熟さと保身か」というニュースのヘッドラインが船長の頭に浮かんできた。


 本来、救助活動というものは、救助活動の訓練を受けているチームが、救助のための装備を持って成し得るものである。それが、単に遭難地点に近い距離にいるという単純な理由で救助活動をせよ、という方が間違っていると船長は考えていた。しかし、逆に考えれば、ノルウェー調査隊は遭難とはいっても、負傷者がいるわけではなく、単に調査地点から移動できなくなっただけなのかもしれない。だからこそ、砕氷船に救助命令が出されたのかもしれない。


 そんな矛盾する疑問がウルマン船長の頭の中を何度も駆け巡った。しかし、科学省の本部から発せられた情報は限定的であるため、いくら推測しても堂々巡りをするだけで、答えに行きつくことはできなかった。


最後に残る疑問は、遭難したのはノルウェーの調査隊だ。本来なら、ノルウェーの新鋭船舶が遭難地点に向かうべきところ。であるのに、なぜ「ホルダラン」のような老朽船が派遣されたのか? 

北極海で航行している船舶の中で遭難現場に最も近い位置にいて、そこに救出隊を派遣できる装備と人員を有している船がたまたま「ホルダラン」だったのか?

砕氷船「ホルダラン」以外の船舶も救出に向かっている船がいるのか?

ウルマン船長は、今回の唐突な命令について、その背景を推測していた。しかし、いくら考えたところで答えが出るわけではないことは自分でもわかっていた。


 しかし、どうにも納得できない科学省からの救難者救助命令には、どうしてもその裏を探ってみたくなる。「本当に本船が遭難地点から最も近い船舶だったのだろうか」という猜疑心が船長の脳裏をかすめたが、命令には従わなければならない。まして、人道的立場に立てば、人命救助は最優先事項である。ここは迷っている場合ではなかった。「ホルダラン」のウルマン船長は、ふと、若い頃の北極探検隊の一員としてのある経験を思い出していた。その経験から「北極には魔物が棲んでいる」というのがウルマン船長の人生訓になっている。それは、ある事件が船長の胸に深く刻まれているからであった。


 それは、今から十五年前に遡る。



 ― 十五年前のノルウェー北極探査隊 ―


ウルマン船長は十五年前に、ノルウェーの北極探検隊の一員として、冬季と夏季に一度ずつ北極に長期滞在した経験がある。その二回の探査では、探査用設備も完備され、比較的快適に過ごすことができた。ただ、天候には勝てなかった。悪天候が続き、調査をできずに、何日もぼんやりと過ごさざるを得なかったこともあった。今にして思えば、よき思思い出だったが、二回目の夏季に派遣された時に忘れもしない、忘れたくても忘れることのできない事件に遭遇することになった。


 その時の北極探査隊のメンバーは、前回の冬季のメンバーと変わらなかった。ただ一人、隊長を除いて。メンバーが変わらなかったのは、探査隊の調査目的が、冬季と夏季の比較に重きを置いていたためであった。そのため、それぞれの分野の専門家に冬季と夏季のデータを分析させることができる。若き日の「ホルダラン」のウルマン船長もその調査員の一人だった。冬季に比べて、夏季は天候が比較的安定しており、白夜による太陽照射時間が長いため、太陽光発電の稼働率が高まり、電子機材が安心して使用できる恩恵があった。また、派遣されたメンバーの感覚としては、一度、冬季の探査経験があるため、夏季は組みやすいという感覚があった。


 しかし、夏季といっても場所は北極である。これまでの北極探査で積み重ねられた経験則に基づいて計画されたものであるから、調査はもちろん、天候などの不確定要素が発生しても壮さんを回避するための考えられる装備と燃料、食糧等は余裕があった。しかし、結果的に悲劇は起こったのであった。


 当時の北極探査隊は夏季にも関わらず、天候不順のため観測基地から外に出られないことが多く、計画された調査のいくつかが未実施のまま残っていた。その日の朝は快晴ではなかったが、それほど風もなく、特段の注意を払うほどの天候ではなかった。当然、調査業務に何の差支えもなく、各隊員はその日に予定されていた調査の準備をしていた。ウルマン調査員もまた、一隊員として気象観測のデータ採取・解析を行っていた。

 気象観測をしているうちに、正午近くになって、観測基地付近の気圧が急激に下がってきたことに気が付いた。それは天候の悪化を意味する。彼はすぐに隊長に報告した。既に他の調査地点に向かって出発した隊員たちを観測基地に呼び戻すべきと考えていた。しかし、その時の隊長の返事はそっけないものだった。


「まだ、正午前だ。今、彼らに引き返せと言えば、彼らの本日の調査ができなくなってしまう。・・そういえば、この間もこんなことがあったな。その時の天候予想では『天候悪化が予想されるため、調査派遣は見送るべきだ』と君は言っていたが、結局、君の予報は当たらなかった。君は気象学者としては優秀だが、心配性が過ぎるところがある。違うかね」


「確かに、あの時は結果的には予想は当たりませんでしたが。・・・」


「では、今回の予想は確実に当たるのかね?」


「・・いえ。しかし、北極探査では安全優先ですから、天候予想が確実かどうかとは違う判断が必要かと」


「その判断は、君たちからの報告を総合的に判断するのが私の仕事だ」


「・・・それはそのとおりですが」


「ともかく、君は観測を続けてくれ。報告、ご苦労」


 隊長の主張に対して、砕氷船『ホルダラン』の若き日のウルマン船長はそれ以上、食い下がることはできなかった。胸につかえるのもがあったが、こうした報告のやり取りは日常的なものであったため、特にその時は気に留めなかったが、自分自身としては「注意して気象の変化を見守る必要がある」という使命感があった。

 

彼は観測基地での気象データの変化と、ロシア環境部から送られてくるデータ、それに加えて国際気象センターからのデータを照合しながら、隊員が派遣された地点での、今後の天候変化を予測していた。それらのデータ変化から判断すると、派遣地点と観測基地での天候悪化は明白だった。冬季における自身の観測経験もその可能性をより自信のあるものにした。


 そこで、隊長に自分の思うところをもう一度報告しようと思ったが、思いとどまった。どうして、その時に思いとどまったのかは今でもわからない。もう少し様子を見ようとする慎重さからか、隊長への遠慮なのか。同じことをまた報告しても、隊長に無視されることが予想できた。皮肉なことに、天候予想より隊長の取る態度の予想の方の確率がかなり高かった。

 若き科学者は、今日の調査業務に戻ることにした。派遣隊には十分な装備があり、タフな連中だから、たとえ天候が急変しても、その対応策は彼ら自身の判断でできるはず。そんな風に別の見方をすると、楽観的な予想が悲観的な予想を押し込めてしまう。少なくともその時は、それでいいと彼は思った。


 昼食を終え、若き科学者はいくつかの気象観測データを確認した。そこから得られた答えは、観測基地の周辺一帯は吹雪になる可能性が高いという結果だった。この観測基地も吹雪を前提として、外に置かれている観測装置の片付けや雪上車の移動などをしておかなければならない。また、遠方へ派遣された調査隊への連絡もしなければならない。若き科学者は今度こそ勇気を持って隊長に進言しなければならないと思い、データを取りまとめ、隊長が調査活動しているところに向かった。


 観測基地の建物の中には鉱物分析室があり、その頃、隊長は他の隊員と共に採集した隕石の成分を計測、記録していた。隕石採集とその分析は、当時から北極観測隊の重要な任務の一つであった。ロシア政府の意向を反映してか、この時の隊長は前回の冬季での探査隊長と同じように、鉱物学者であった。

 若き日のウルマン船長は、意を決して鉱物分析室のドアをノックした。


「入ります」


 鉱物分析室のメンバーは誰も彼に注意を向けなかった。分析業務に集中していたのだろう。


「隊長、お忙しいところ申し訳ありませんが、お話があります。緊急です」


 それを聞いた隊長は、他のメンバーに隕石分析の作業を続けるよう指示して、彼を手招きして、鉱物分析室の中にはドア一枚はさんで、小さな標本収納部屋があり、その中にいっしょに入った。そして、隊長は少し飽きれ顔で振り返って、彼の顔を見た。


「今、忙しいのだが、緊急とは何事かね。午前中も君は天候悪化の話をしていたが、そのことと関係があるのかね」


「そうです。結論から言いますと、間もなくこの観測基地一帯は吹雪になります。確率はかなり高いです。外の器材の収容と派遣隊への連絡が必要と考えます。これを見てください。午前中のデータと比較するとよくわかります」


「吹雪だって? 気象データを見せたまえ」


 隊長はそう言って、彼からモビルPCを受け取り、気象データを見た。


「確かに、天候悪化の予報だのようだな。・・・しかし、実際の外の様子は午前中と変わらないようだが、吹雪というのは本当かね」


「当たるかどうかは問題ではありません。気象学を学んだ者であれば、同じことを言うでしょう。安全優先ですから、派遣隊に調査を止めさせて、基地に戻すべきです」


「しかし、戻すといっても彼らは徒歩で調査地点へ行った。高速道路を使ってすぐに戻れというわけにはいかないのだぞ。それに調査スケジーュルが計画よりかなり遅れている。今、調査を中止したら、ますます遅れてしまう」


「派遣隊はビバークするための十分な装備は持っていないでしょう。隕石採集が目的ですから、最低限の装備のはず。気象だけでなく、装備の面でも彼らの安全を確保しなければなりません」


「その判断は私が下す。君は正確なデータを私に提供してくれればいいのだ」


「ですから、これがそのデータです」と、彼はもう一度モビルPCを隊長に見せた。


「私は気象の専門家ではない。だが、私にも天候悪化の兆候は読み取れる」


 隊長はそう言って、少し考え込んでいた。そして、決心したように彼に向かって言った。


「副隊長にすぐに観測センターに来るようにと伝えてくれ。私もここを切り上げてから、すぐにいくから。それと、君もいっしょに来てくれ。詳細なデータが必要だからな」


「わかりました。すぐに副隊長を探してきます」


「うむ、ご苦労」


彼はその時、自分の意見を隊長が理解してくれたのだと思った。隊長に対しては、前回の冬季探査隊の隊長とは違って、どうもウマが合わないやりにくい人だという思いがあったが、遅れている調査より人命優先を考えてくれているいい人だと思った。彼は小走りで副隊長を探しに鉱物分析室を出ていった。


 後に残った隊長は再び分析室に戻った。


「何かあったのですか、隊長」と、分析チームの一人が尋ねた。


「いや、彼が言うには、天候が悪化してこの辺りは吹雪になるというのだ」


「えっ、吹雪ですか。今の季節ですし、そんな天気になるとは思えませんが」


「そうなのだ。基地の外に出ている機材はすぐに収容可能だが、問題は派遣隊だ。調査は遅れているから、少々の悪天候でも彼らには頑張ってもらいたいところだが、かといって事故にはできない。・・・ともかく、君たちも外の器材を格納庫に収容売る作業を手伝ってくれ。ただし、今の分析作業はきりのよいところまで続けてくれ」


「わかりました。今の分析作業が終わりましたら、すぐに収容作業を手伝います」


「よろしく頼む」


 隊長はそう言うと、鉱物分析室を出て観測センターに足を向けた。その時、もう一度、ガラス窓越しに空を見上げたが、吹雪になるような天気ではなかった。「困ったことを言うやつだ」と思いながら、どう対処すべきかを考えながらゆっくりした歩調で歩いて行った。



   ― 当時(十五年前)のノルウェー観測センター ―


 観測センターの隊長が部屋に入った時には、副隊長と若き日のウルマン調査員がいた。


「副隊長、話は彼から聞いているか?」


「はい、気象データを確認しました。確かにこのデータは、これから天候悪化がうかがえます。器材収容などの対応が必要でしょう。壊れてしまってからでは遅いですから」


「うむ、君の言うとおりだ。すぐに観測班長に観測器材を格納庫に収容すること。手の空いている者は観測班を手伝うこと手配をしてくれ」


「わかりました。すぐにかかります」と、副隊長は答えて、マイクで緊急放送として隊長の指示するところを基地内に放送した。


 それを聞いていた彼は、すっきりしない表情で隊長に向かって言った。


「あのう、派遣隊への連絡は・・・」


 その声に隊長は無視するようにして、外をみていた。副隊長もそんな隊長を見て、新たな指示が出るのか心構えをして、マイクは右手に持ったままだった。


 隊長は迷っていた。派遣隊への連絡を具体的にどうすればいいのかを考えていた。通常ならば、すぐに基地への撤収、または適地でのビバークなどを指示すればよかった。そして、必要ならば基地から必要物資を持たせて、救援隊を組織して派遣隊のいる場所へ向かわせればそれでよかった。


 しかし、計画よりかなり遅れている調査業務のことが隊長の判断を鈍らせた。「ななとか、今の調査地点に留まれないか」と、言い訳のための判断要因を考えた。そして、それまでの緊張した時間の経過を断ち切るかのように振り返って、副隊長に質問した。


「副隊長、派遣隊のことだが、三日間の行程で今日が二日目だな。・・・仮にこれから調査を中止して、すぐにここへ戻るように指示したとして、帰ってくる時間はどれくらいかかるだろうか?」


「単純に考えて、天候がよければ五時間で帰って来ることができるでしょう。しかし、仮に吹雪という条件が加われば、何時間かかることか。というより、吹雪の中を徒歩で移動することは、かえって彼らを危険にさらすことになります。彼の言うように吹雪を前提とすれば、今の場所でビバークするように指示したほうがよろしいかと思います。移動中に吹雪にでも合えば、それをやり過ごすテントを張ることもできなくなるかもしれません」


 副隊長は真顔で隊長に答えた。その答えを聞いて、心の中では「よく言ってくれた。これで派遣隊を今の場所に留めることができる。たとえ吹雪になっても、それが過ぎれば、残った一日分の調査をすぐに再開できる」と考えた。


「よし、安全優先だ。派遣隊長にはビバークする適地を早く見つけて、その座標を報告させてくれ。派遣隊は個別に活動しているから、一ケ所に集まって吹雪をやり過ごすように。それと、基地への定時連絡を怠らないように」


 指示を受けた副隊長はその旨を派遣隊に無線で知らせて、外の器材収納のてつだいをするために観測センターを出ていった。


 副隊長に安全優先と言ったものの、隊長としては早く吹雪が去り、派遣隊が調査を再開できることを期待していた。調査の遅れを吹雪のせいにして、ロシア科学アカデミーに報告しても、先方から見れば「こんな夏季に吹雪?」と、探査隊の怠慢にしか映らないだろうから、何としても課せられた調査項目だけは最低実施しなければならなかった。そうしないと、帰国後は、調査不足を指摘されて左遷させられる可能性が高かった。

隊長は、恨めしそうにウルマン調査員を一瞬見た。そして、窓越しに外に目をやった。それだけを見ているだけでは、これから吹雪になるとは到底考えられなかった。そして、再び彼を見て言った。


「本当にこれから吹雪になるのだな。では、あとどれくらいで吹雪が止んで調査を再開できるのだ」


 彼にとっては、吹雪になることは予想できても、吹雪が止む時刻まではわからなかった。辛い質問だった。


「それは、これからの観測からでしかわかりません」と、彼は正直に答えた。


「話にならんな。吹雪の到来を予想しても、それが去っていくことは予想できないとは。二十世紀でもそれくらいはできたはずだぞ。今では、我が国からの気象データだけでなく、国際気象センターからのデータもあるだろう。・・・ともかく、変化が生じたら知らせてくれ。私としては早く調査を再開したいのだ。格納庫に入れた観測材をまた、設置し直さなければならない。失われた時間は戻らないのだぞ」


 隊長の表情からは明らかに焦りがにじみ出ていた。それを見て取ったウルマン調査員は不快になり、ひとこと言ってやろうと思った。


「隊長、そうおっしゃいますが、ここは北極です。いつ、天候がどのように変化するかは、内地の天気予報をするようなわけにはいかないのです。それに、派遣隊にもしものことが起これば、それこそ調査のための貴重な時間が永久に失われてしまします」


 隊長はぶ然とした表情で、観測センターから出ていった。その後ろ姿を見ながら、ウルマン調査員は、「言い過ぎたかな」と少し後悔した。しかし、科学者としての正しい主張はしたつもりだった。彼の主張を聞いた人物が隊長のような人でなかったら、彼の進言はそのまま受け入れられ、天候悪化の情報は関係先に連絡されたはずだ。

また、彼もプレッシャーを感じることなく過ぎていったはずだが、今回は相手が悪かった。隊長は隊員の安全よりも科学アカデミーからの指示の方を優先する人物だ。いや、隊長という職位に着けば、表向きは安全優先をことあるごとに言っていても、内心はモスクワを向いているのは仕方のないことだともわかっていた。

「次の北極探査のメンバーから外されるかもしれないな」と彼は覚悟し、気象データの解析に戻った。


 それから一時間も過ぎないうちに天候は急変し、雪が猛烈に降ってきた。それから風も強まり視界がまるで見えなくなった。ウルマン調査員の天候予測が当たってしまったのだ。派遣隊は観測センターからの指示通りにビバークの準備をしていたので、吹雪になっても慌てることはなく、吹雪が止むのを待つしかないという気持ちでいた。「この季節ならば、そんなに長くは吹雪かないだろう」という楽観的だった。


 しかし、夏季にも関わらず、吹雪は止む気配がなかった。気象データからもその裏付けができるくらいだった。吹雪になってから当初の行程である三日間が経ち、四日目になっていた。


派遣隊のメンバーは非常用の食糧、水、燃料を携帯しているが、その量は一日分しかなかった。調査用機材を優先して電気スノーモービルに搭載しているため、それ以外の物は極力減らしていたのだ。しかも、今回の調査派遣期間は二泊三日の行程で、ビバークしたのが二日目だったため、非常用の食糧等も含めて節約していたが、残りわずかになっていた。また、節約の反動としてメンバーの体力の消耗は激しく、体温低下に陥っていた。彼らは移動することもできず、ただ吹雪が止むのを待つしかなかった。


一方、観測センターにおいても当然、調査活動はできず、この季節外れの吹雪の気象データを採取することしか仕事はなかった。派遣隊の救出のための救援隊を編成したが、吹雪による視界不良のため、観測センターにくぎ付け状態だった。そのうえ、磁気の乱れにより派遣隊との無線が通じなかった。せめて派遣隊の安全確認をしようと努めるが、派遣隊から発しているはずのビーコンによる位置確認もできなかった。

こうなれば、根気よく待つしかなかった。


やがて、吹雪の勢いも弱まってくるはず。そうすれば、派遣隊とも交信が回復する。観測センターの誰もがそう願った。しかし、隊長は最悪の場合を考えていた。それは、吹雪が続くことによって、調査がさらに遅れること。それと、派遣隊のメンバーに負傷者が出ることだった。どちらも最終的な責任は隊長に帰着するので、どうしても最悪のケースと自分のキャリアへの心配が頭から離れなかった。その結果、いつになったら吹雪が止むのかを聞き出そうと、ウルマン調査員に気象予測を何度も尋ねていた。


「どうなっているのだ。いつになったらこの吹雪が止むのかね」


「わかりません。先ほども申し上げたように、まだ、我々の上に勢力のある低気圧が停滞していて、変化がありません。この季節には珍しい現象です。変化が現れればご報告します」


「うむ、少しでも天候が回復するような気配があれば、救援隊を出す準備はできている。何かあったら、すぐに私に知らせてくれ。それにしても、この季節にもう六日間もこれほどの吹雪が続くとは予想もしなかった。やはり、これも異常気象かね」


「そうですね。やはり異常としか言いようがありません。これまでのこの季節での観測記録を国際気象センターのデータベースを利用して調べてみましたが、こんな例はありませんでした」


「うむ、そうか。・・・明日で四日目だな。当初計画の三日を過ぎて、彼らも厳しい状態だろうな」


 隊長はそう言って、恨めしそうに窓の外を眺めて観測室から出ていった。ウルマン調査員もいくら外を眺めても、いくら計器のデータを見ても、一向に天候は回復しなかった。


 五日目、さらに六日目の朝になった。ようやく吹雪がおさまり視界が開けてきた。


「隊長、天候が安定してきました。視界も今は良好とは言えませんが、次第に回復に向かうと思われます」とウルマン調査員は隊長室の部屋をノックしながら、ドア越しに大きな声で話しかけた。


「何、それは本当か」と隊長は飛び起きて言った。そして、すぐに防寒服を羽織ってドアを開けた。


「隊長、観測室のデータと外の様子を見てください。救援隊をようやく出せると思います」


「よし、わかった。観測室へ行こう。ようやく巡って来たチャンスだ。調査隊も救出を待っていることだろう」


 二人は観測室に入り、既に明るくなった外の風景を見た。


「うむ。これなら救援隊を出せる。この天候が再び悪化することはないか」と隊長はウルマン調査員に尋ねた。


「今の観測データからすると一日ぐらいは十分に安定していると予測されます」


「よし、すぐに救援隊を出そう」と隊長は観測室を出て、まだ寝ている隊員たちの部屋に走って向かった。


 こうして救援隊が出発し、その日の昼過ぎには遭難者のビバーク地点に到着した。そこで救援隊が見た光景は調査隊全員が死亡していたものであった。死因は全員凍死であった。皮肉にも節約した食糧はわずかではあるが残っていたが、暖を取るための灯油は完全になくなっていた。


 救援隊からの報告を通信で初めて聞いたのは、基地内ではウルマン調査員だった。彼はすぐに隣に座っていた隊長に報告した。その時の隊長の絶望的な表情は十五年たった今でも忘れることはできない。また、凍死した隊員の葬儀で、その家族たちの落胆ぶりも同じように忘れることができない。おそらく生涯ずっとウルマン船長の脳裏に残るであろう。


 こうした過去の救援経験から、救援活動に対する一種のトラウマがウルマン船長の人格形成の一部をなしている。今回の救援指令を受け取った時も、全員凍死という不吉な予想が頭の中をよぎった。同時に、「今回はそんなことにはならない」という楽観論が頭の中に生まれ、両者の葛藤状態で今回の救出活動の指揮に当たっていたのだった。もちろん、十五年前の悲しい出来事を誰にも話さずにいた。過去を振り返っても、凍死した調査隊員が生き返ることは絶対にないということを自分に言い聞かせていたからだ。



  ― 吹雪から八日目の現在のノルウェー調査隊 ―


 依然として吹雪は止まなかった。調査隊の本拠地にある観測センターの中にいる隊員たちは外界から隔離された穏やかな環境の中では生命途絶の心配はなかったが、遭難した派遣班の置かれている状況からすると、六名の班員たちの中では時間が過ぎていくのが普段よりも長く感じられた。


 派遣班は吹雪になった日から、緊急用テントを設置して吹雪が止むのをひたすら待ちわびていた。観測センターにいる隊員たちと決定的に違ったのが生命途絶の不安がゆったりと流れる時間の中でそれに相似形的に高まってきていることだった。派遣班の隊員は誰一人としてそれを口にする者はいなかったが、皆は最悪の事態に陥る蓋然性があることを認識していた。派遣班が吹雪によってビバークしてから、はや八日目になっていた。


 ノルウェー調査隊のメンバーは科学省に所属している国家公務員であるが、北極探査隊に加わるほどの屈強な体力を持ち、極寒地での過酷な環境にも順応できる術を持っていた。しかし、夏季でのこれほど長く続く吹雪は初めての経験だった。彼らの脳裏には、「観測センターから救援隊が来てくれる」とか、「吹雪が間もなく止む」という二つの願望のみが青から赤へ、赤から青へ変わる信号機のように点滅を繰り返していた。そこには、「救援隊は来てくれない」とか、「吹雪は止まない」という悲観的な思いを押し殺すだけの訓練がなされていた成果であった。


 ノルウェー科学省の砕氷船「ホルダラン」のウルマン船長は、今も気象データの分析を続けていた。さすがに観測室にあるソファで仮眠を取りながらの分析作業であった。観測センターには、気象データを正確に分析できる隊員は他にいなかったのだ。そのせいで、彼自身、日ごとに疲労感がたまり、頭がフラフラするようになったが、送られてきたデータの中にあった調査隊のメンバーの顔を思い起こして自分を奮い立たせるのであった。


 この日の気象データには、これまでにない変化がみられた。天候が回復する前兆だった。それも短時間のうちに変化してきた。今までの硬直した気圧配置が変わり始め、上空の寒気の温度も上昇してきた。いったい何が起こったのだろう。神の悪戯かと彼は我が目を疑った。観測室の窓越しに見る外の風景に変化は見て取れなかったが、気象データでは、天候回復が明らかに思えた。


 そこで、ウルマン船長は自問自答した。「外の吹雪は昨日と変わらないのに気象データの予測だけで救援隊を派遣する根拠となりうるか?」


 彼はすぐにでも隊長に気象データの分析結果を伝達し、これからの天気予想を説明したかったが、一方では科学者として「果たして隊長はこのデータを見て、理解してくれるだろうか? もう少し観測を続けた結果、気圧配置が再び元に戻らない確証はあるだろうか?」


 ウルマン船長は迷った。彼が普通の状態であれば、その決断は瞬時にできたかもしれないが、その時の彼は、七日間ずっと各所からの気象データを分析し続けていたので、疲労による精神力、体力のダメージは相当なものであった。そのため、彼の判断力は鈍っていた。彼は逡巡した。隊長に報告すべきかどうか。あるいは、どれだけのデータを集めたら納得してもらえるだろうか。そうした迷いが彼の頭の中をグルグル回っていた。


 そんな気象変化の報告を受けていない隊長は通信室で、副隊長と派遣隊の救出について打ち合わせをしていた。本国のノルウェー科学省からは、状況報告と今後の見通しについて、矢のような催促が隊長のもとに届いていた。外の様子は相変わらず吹雪である。隊長はノルウェー科学省に対して、“吹雪のため救援隊の派遣は不能”という電文を繰り返すだけだった。

 隊長は救援隊を早く派遣して、ノルウェー科学省に事態の好転につながるきっかけを発信したかったのだが、吹雪のため動きが取れないため、膠着した状況を何とか早く打開したかった。一日の時間がとてつもなく長く感じられた。


 いてもたってもいられなくなった隊長は通信室を出て、砕氷船「ホルダラン」のウルマン船長のいる観測室へ向かった。半ば開いているドアを軽くノックして、観測室に入るなり言った。


「天気はどうです? 救援隊はいつでも出発できるように待機しています。出発の糸口はまだつかめないのですか?」


 隊長はすぐにでも救援隊を出発させたい一心でウルマン船長に詰め寄った。その気迫に圧倒されたかのよう自信のなさそうな声でウルマン船長は答えた。


「実は今しがた、天候が回復しつつあるのではないかというデータが出た」


 それを聞いた隊長はすぐさま彼に大声で言った。


「えっ、天候は回復傾向にあるのですね。救援隊を出してもいいのですね」


「正確に言うと、今は回復に向かっているが、これから数時間後にどうなるかはわからない。何しろ、頻繁に変わる・・」と言っている途中で隊長は無理やり口をはさんだ。


「船長の言いたいことはわかった。天候は回復傾向にあるが、今から先の天候はわからない。とうことだろう。そんなことは神のみぞ知ることだ。誰もこの北極での天候予想を自信持って言える者はいない。それより、派遣隊の安否が心配だ。天候が回復する兆候があるのなら、すぐにでも救援隊を出発させる。あなたのように慎重すぎてはタイミングを失ってしまう。すぐに天候回復を示すデータを出してください。それと、当たり前だが、今後の気象データの変化を見極めるように要望する」


「隊長、了解した。・・・それで、救援隊をすぐに出発させるのか?」


「まだ何を言っているのです。さっきも言ったとおり、タイミングが大事です。ここでは吹雪だが、派遣隊がビバークしている場所に救援隊が到着する頃には吹雪が止んでいることだってあるだろう。・・・彼らの救出が最優先だと私は考えている。そのためには、観測センターにいる我々も危険に立ち向かわなければならない。・・そうでしょう」


「わかりました。私は気象データを整理します。現時点とその前後のデータを。もちろん、今後のデータには不確定要素が入りますので、確証はできませんが」とウルマン船長は答えた・


「構いません。データはある意味で重要だが、ここは北極だ。何が起こるかわからない。最終的な判断は隊長である私が下します。・・救援隊のメンバーもこの天候の中を出発することのリスクを承知している。我々は仲間だ。君一人に責任を負わせるなど考えていない。君のような慎重さは大切だ。だが、時にはリスクを背負い込む勇断が必要だ。観測センターの隊員の中には、一歩踏み出せない私を優柔不断とみなしている者も多いことだろう。・・ともかく、救援隊のメンバーはリスク覚悟で派遣隊のビバーク地点まで行かなければならない。ただ、そこまでたどり着くことができれば救助を待っている派遣隊に対して、医療活動をすることができる。たとえ再び吹雪になっても、救援隊が持っていく物資によって、さらに数日間はビバークできるはずです。・・わかっていただけたでしょうか、船長。・・・それでは、船長はデータを整理して、後で私に連絡して下さい。私は救援隊の出発を指示する」


 隊長はそう言って、観測室を出ていった。そこに一人残った砕氷船「ホルダラン」のウルマン船長は、正直なところ、もう少し天候の変化を確認してから救援隊の出発を決断してもらいたかったが、そのように進言することをためらってしまった。隊長の“勇断”の言葉が彼の進言を阻んだのだった。言いそびれてしまった。今となっては、救援隊が無事に派遣隊のビバーク地点に到着することを願うしかなかった。



   ― ノルウェー調査隊の発見 ―


 救援隊の隊長は通信室に戻るとすぐに救援隊の出発の意思を副隊長に伝え、彼に救援隊のメンバーを全員通信室前に集めるよう指示した。集合の指示を受けた救援隊のメンバーは通信室の前に集合した。


「みんな、よく聞いてくれ。派遣班がここを出発してから今日が八日目だ。外は相変わらず吹雪いているが、天候が回復する予測データが出た。しかし、君たちがここを出発してからしばらくは吹雪に悩まされるだろうが、しばらくすれば天候は回復する。派遣隊がビバークしている場所の座標はわかっている。よって、君たちの任務は衰弱している派遣隊のメンバーを速やかに救出することである。くれぐれも気を付けて行動してくれ。以上だ」


「了解しました」


 救援隊のメンバーは全員口をそろえたかのように、隊長からの激励に答えた。

 こうして、吹雪の中、救援隊を乗せた二台の雪上車が出発していった。雪上車の窓に容赦なく雪がたたきつけた。視界は悪く、いつ吹雪が止むのだろうか、という悲観的な思いや、逆に、これだけ吹雪が続いたのだから間もなく止むだろう、という楽観的な思いが雪上車の中の隊員たちの頭の中に交錯した。


 八日前にノルウェー調査隊の観測センターを出発した派遣隊が、逐次、観測センターに送ってきた氷原の地形データから、比較的平坦なコース取りを既に救援隊は作成し、雪上車の自動運行システムに入力してあった。これにより、雪上車の運転手は自動運行システムが指示したコースに沿って運転すればよかったので、視界が悪い場合での運行に役立った。ただし、このシステムも万能であるわけではなく、昨日の氷原の地形ですら吹雪などの気象変化によって変わってしまうことがあり、データ自体はそれを採取した時は正確でも、今も正しいという保証はなかった。そのため、雪上車では運転手だけでなく、窓のそばに着座している隊員も目視でクレバスなどの危険がないか、神経をとがらせていた。こうして、二台の雪上車はそのスピードは控えめだが、確実に派遣隊のビバーク地点に近づいて行った。


 派遣隊が観測センターを出発してから六時間が経った。雪上車の中の隊員たちはずっと無言だった。ただ、計器のセンサーの音だけが規則正しく車内に広がっていた。出発してからしばらくの間は、雪上車のディーゼル機関の発する音は吹雪の音でかき消されていたが、少し前からその音がよく聞けるようになった。それと歩調を合わせるように、雪上車の窓から見える範囲は次第に遠くまで広がっていった。視界が広がれば、雪上車の速度も上がり、隊員たちは自分たちの目的である派遣隊の救出が電実的なものになってきたと感じていた。息で曇った雪上車の窓ガラスをふいたり、デジタルバイノグラスで何か見つけようとしたり、隊員たちの動きが活発になって、それまでの重苦しい雰囲気は、氷が解けるように次第に緩んでいった。


 ビバークしている派遣班から発信され続けているビーコン信号は途切れることなく、雪上車の通信機で受信でき、そのパルスも明瞭になり、間違いなく派遣隊に近づいていることが計器で確認できた。


 やがて吹雪は風だけになり、太陽の光によって地平線の氷原まで見渡せるくらいまで天候は回復した。この知らせを乾燥センターで受信した隊長と副隊長は、救助の実現性を確信した。

 そのうち、風も止んでしまい、ここまで救助目的で来たのか、観光目的で来たのかわからなくなるくらい、夏季の北極が稀に見せる穏やかで静寂な風景が二台の雪上車を包み込んでいた。その中で、派遣隊から発せられるビーコンの音の間隔が短くなり、間もなくビバークしている派遣隊を見つけ出せると、雪上車の中の隊員たちは手ごたえを感じていた。


 そんな時であった。先頭の雪上車の隊員の一人が叫んだ。


「派遣班のテントと思われるものを発見。方位十時方向」


 その声に他の隊員たちも十時方向にデジタルバイノグラスを向けた。


「あれだ。資料にあった派遣班のテントの写真と同じ色だ」と別の隊員も叫んだ。


 隊長もそれを確認し、十時方向に進路変えを運転手に指示した。


 雪上車は派遣班のテントらしき物との距離を縮め、肉眼でもはっきりとテントであることが見えるまでになった。隊長は、雪上車がテントのすぐそばまで接近した時、マイクを手に取って隊員たちに指示した。


「車両停止。速やかに派遣班のテントに入り、中にいる隊員の健康状態を確認せよ。医療班は適宜彼らを雪上車に収容し、必要な処理を施せ」


 また、すぐに派遣班のテント発見の朗報を、砕氷船「ホルダラン」のウルマン船長に報告した。その報告は、すぐにウルマン船長から観測センターに知らせた。観測センターの通信室で待ちわびていた隊員たちが一斉に歓喜の声を上げた。そして、間もなくもたらされるであろう派遣班のメンバーの安否に関する報告を待った。


 二台の雪上車が停止した瞬間に救援隊員が雪上車のドアを開け、着地地点を確認しながら飛び降り、滑らないように焦る気持ちを抑えて、テントに向かって一直線に小走りで駆け寄った。一番早くテントに着いた隊員は、ほぼ凍結したテントの出入り口のジッパーの先についている大きなリングに指を入れて、ゆっくりと引き下ろした。

 うす暗いテントの中で救援隊の隊員が見たものは、派遣班六名名のメンバー全員が防寒具を着たまま横たわっていて、テントを開けたにもかかわらず、誰一人として身動きしない光景であった。


「手順通りに、六名の生命反応を確認しろ」


 救援隊の隊長はすぐに医療チームの隊員に指示した。その指示に従って、医療チームの隊員がすぐさま前に進み出て、派遣班六名の生命反応を調べるため計器を各人に装着した。


「生きています」


「こちらも生きています。両手に凍傷を負っていますが、命に別状ありません」


「こちらも大丈夫ですが、衰弱が激しいので、点滴投与の必要性が認められます」


 次々に六名の初診断の報告がなされた。その結果、六名全員の生存が確認された。救援隊の隊長は再び観測センターに報告し、そこから砕氷船「ホルダラン」のウルマン船長にその旨が報告された。これらの情報は砕氷船「ホルダラン」から、本国の科学省にもたらされた。

 科学省においても、救援隊からの朗報を待ち望んでいた人々が一斉に沸き立った。


 遭難したノルウェー調査隊の派遣班の六名には応急処置がその場で施され、一人ずつ救援隊の雪上車に運び込まれた。


先ほどまで吹雪だった天候がウソのように回復し、雲の合間から日差しが差し込む光景は、さしずめ神の祝福が六名の派遣班にもたらされたようにも見えた。

派遣班の資器材もすべて雪上車に運び込まれた。その作業は、先に収容された六名より丁寧に実施されたようにも見えた。


こうして、ノルウェー科学省から送り出された救援隊は、見事にその任務の重要な部分を成功させた。救援隊の雪上車は、人員の救出および資器材の搬入を終えると、安定した天候が再び吹雪になる前に、自分たちの母船である砕氷船「ホルダラン」に帰艦するためか、かなりのスピードで引き返して行った。彼らも「ホルダラン」のウルマン船長も、今回の救出活動に関連して、母国海軍が潜水艦を派遣したことやその潜水艦とUFF(国際連邦艦隊)の潜水艦が北極海において、激しい牽制・回避運動がなされたことなど知る由もなかった。この両者が対峙したため、遭難地点へ向かうことが遅れ、結果的にノルウェー科学省の砕氷船「ホルダラン」が先に、遭難地点に到着することができた。砕氷船「ホルダラン」は、まさに漁夫の利を得たわけである。


しかし、ノルウェー海軍の潜水艦「フレイヤ」およびUFFの潜水艦「ポセイドン」の乗員もまた、救出すべき調査隊の派遣班六名が既に救出されたことなど要る由もなかった。それぞれが自分の任務を全うしようと必死になっていた。



   ― 「ポセイドン」から救出に向かった救援隊 ―


「おっ、やっと吹雪が止んできたな。このまま天候が回復すれば、視界が確保あれ、クレバスが見えるようになるかもしれないな」


 雪上車の曇った窓を左手で拭きながら、カスター少佐はつぶやいた。


「そうですね。送られてきた気象データからも、天候回復の兆しが見て取れます。そうすれば、これまでの遅れを取り戻せることができます」


 雪上車を運転しているキース軍曹は、視線を計器にやりながらカスター少佐に冷静な表情で答えた。計器が示す前から、キース軍曹は天候回復の予感がしていたが、それを口にすることはなかった。あくまで客観的な事象に基づいたことしか口には出さなかった。

また、一号車に後続している二号車からも、前方の一号車をはっきりと見ることができるようになった。二号車に乗っているグスタフ少佐も車内のクルーと天候回復によるスピードアップの期待が高まったことを話していた。


 それからは、二台の雪上車はこれまでの走行支障がウソのように、順調に遭難地点に近づいていった。途中では、雲の間から日差しが差し込んでくるようになった。


「キース軍曹、どうだ。あとどれくらいで遭難地点に到着する?」


「・・この調子でいけば、あと一時間余りで到着します。全員無事でいてくれるといいのですが。先ほどの吹雪は遭難者にも吹いているでしょうから心配です」


「そうだな。凍傷にかかっていなければいいのだが」


「少佐、そんな場合でも応急処置ができるように、ちゃんと、このように雪上車の座席を二段ベッドにカスタマイズしましたから大丈夫ですわ」


 グスタフ少佐の部下である厚生部のセラピ少尉が、後部座席の方を少し自慢げに振り返って言った。


「うむ、ここだけ見ているとまるで救急車だな」


「はい、ノルウェー調査隊の救援が決まった時に、雪上車も医療資機材の一つとして『ポセイドン』に運び込まれてから厚生部で独自に設計し、移動中にカスタマイズいたのです。急ごしらえですけど、予想される医療行為をサポートできる機能が雪上車に備わりました。でも、これを作動する必要が無いことに、こしたことはないのですが」


 長い銀髪を後ろで束ねているセラピ少尉は真面目な表情でつぶやいた。


「ああ、その通りだな。到着するまでは彼らの無事を祈るしかない。・・それにしてもうまくカスタマイズしたものだ。厚生部の医療チームでは、こんなこともできるのか」


「いえ、少佐。実はベッドや点滴用の支柱の製作には、保安部員の力も借りました」


「保安部だって? 保安部にそんな器用な腕前を持った部下がいたかな」


「パイロットのニミッツ中尉です」


「えっ、ニミッツ中尉だって。あのシンデンのパイロットの彼か」


「そうです。中尉はパイロットですが、整備士の資格も持っていて、なんでも自分で作っちゃうんです。みんなも驚きました。中尉によると、趣味が機械いじりや部品の成型加工とかで、自宅で使うようなちょっとした家具も作るそうです」


「そうなのか。人間って、見かけだけではわからないものだなあ」


「ええ、中尉はどこかで、私たちが雪上車のカスタマイズに手を焼いているのをどこからか聞いて、自分から手伝うことを申し出てくれたんです。ほんとに助かりました。中尉のおかげで設計したどおりの物が短時間で完成しました」


「それはよかった。今回の任務では雪上車が必須だが、普通の座席では遭難者を横に寝かせることはできない。しかし、こうすることによって、君やグスタフ少佐も治療の腕前を十分発揮することができるわけだ」


 カスター少佐は笑顔でセラピ少尉にそう言うと、再び前方の進行方向と計器を交互に見て、真剣な表情に変わった。


 天候が回復してからは、遭難地点へと二台の雪上車は順調に近づいていった。カスター少佐は、先ほどから遭難地点に到着していることを示している計器を何度も見ながら、まだノルウェー調査隊を肉眼で発見できないことに焦りを感じていた。デジタウバイノグラフを覗いて、周囲にそれらしい人工物がないか懸命に探したが、まだにつからない。雪上車の窓からでは思うように焦点が合わないことにもいら立ちを禁じえなった。


「キース軍曹、計器では既に到着していることになっているが発見できない。もう少し正確な場所を特定できないのか?」


「少佐、これが計器で特定できる限度です。なにしろ、遭難信号の発信場所を解析して得たデータを使っていますので、どうしても誤差が生じます」


「うーむ、こうなったら眼だけが頼りだな。・・責任重大だ」


 カスター少佐はそう言うと、これまで以上に真剣になってデジタルバイノグラスに見入った。


「少佐、何か発見したら方向を指示して誘導してください」


「わかった。・・もう少し待ってくれ」


 その様子を見ていたセラピ少尉は、車内のグローブボックスを開けてデジタルバイノグラスをそこから取り出し、カスター少佐とは反対方向を向いて、ノルウェー調査隊のテントなどが発見できないか探し出した。しかし、レンズの視界に入ってくるのは白い世界だけで、人工物らしきものは何もなかった。雪上車の車内には、キャタピラーの音と振動が次第に重々しく伝わってくるように、三人には感じられた。そんな時だった。


「キース軍曹、止めてくれ」


カスター少佐が車内に入ってくるキャタピラーの音に負けまいと、叫ぶように言った。


「中佐、何か見つかりましたか?」


キース軍曹は雪上車を停止させ、カスター少佐が見ている方向に目をやった。しかし、何も見つけることはできなかった。この一号車に後続していたグスタフ少佐の乗った二号車も停止した。


「一号車が停止したわ。何か見つけたのかしら。・・・うーん、氷の他は何にも見えないわ」


 グスタフ少佐は探すのをすぐに止めて、無線機を手に取り、一号車のカスター少佐に連絡した。


「カスター少佐、何か見つけたの? 私の二号車からは何にも見えないけれど。・・応答願います。カスター少佐。・・応答願います」


やや間をおいてカスター少佐から返事がスピーカーを通して帰って来た。


「グスタフ少佐、ちょっと待ってくれ。これから雪上車の外に出て確認したいことがある。そこで待っていてくれないか」


「了解。でも、何があるの? 教えて・・」


 そう言っている途中に、カスター少佐が雪上車の右のドアを開けて、外に出たのがグスタフ少佐の二号車から見えた。カスター少佐はそのまま数メートル走って立ち止まり、氷原の上に膝をついてしゃがみこんだ。そして、両手で氷の塊をなぜ回しているように見えた。


「あそこに何があるっていうのよ。何にも見えないわ」


 グスタフ少佐がつぶやくように言った時に、カスター少佐は一号車に向かって、こっちに来るように腕を大きく振って合図を送っているようだった。クレバスなど危険な場所ではないことを確信してから、グスタフ少佐は二号車の右側ドアを開け、転ばないように落ち着いて、カスター少佐がしゃがみこんでいる場所を目指して歩き出した。彼女が数歩歩いているうちに、二号車からキース軍曹が出てきて、早足でカスター少佐のそばに寄り添った。その二人が何かしゃべっているようだったが、グスタフ少佐にはよく聞き取れなかった。二人は「信じられない」というような表情で、互いの目を見つめていた。近くまで来てから、グスタフ少佐は二人に向かって声をかけた。


「ねえ、どうしたの? ここに何があるっていうの?」


 カスター少佐は、グスタフ少佐の声に反応してゆっくりと彼女の顔を見上げた。


「ねえ、どうしたのよ? 少佐、軍曹」


「ドクター。・・これを見てください」


 カスター少佐は自分の右手を上げ、ある所を指さした。それでも何のことを言っているのかわからないグスタフ少佐はいぶかしそうに、カスター少佐が指す場所にゆっくりと近づき、片膝を氷原につけて両手で氷の塊をなぜ回し、それをひっくり返してみた。


「こ、これって、何?」


 驚きの声を発したドクターのグスタフ少佐は、辺りの氷塊を手あたり次第にひっくり返した。その様子をカスター少佐とキース軍曹は黙って見ていた。この二人は、グスタフ少佐の質問に対する共通の答えを既に持っているのだ。グスタフ少佐の手が止まった。そして、彼女はそばに立っている二人を呆然と見ながらつぶやいた。


「私たち、遭難現場にさっきから着いていたのね」


「ああ、・・そのようだ」


 カスター少佐も小さな声で彼女に答えた。彼らが氷原の上に見つけたものは、複数の見たことのないキャタピラーの跡だった。そして、その跡を目で追っていくと、自然の氷原ではなく、人工的な加工を施された氷塊が残されていた。三人は何かに引きつけられるように、キャタピラーの跡が終わっている場所へ歩いていった。“怖いもの見たさ“のような気持ちでそこに近づき、三人は確信を得たような表情に変わった。


「やはり、ここに間違いないな。ここが遭難現場だ」


 カスター少佐は無表情で言った。その時、キース軍曹が少し離れた場所から、カスター少佐とグスタフ少佐に声をかけた。


「少佐、ドクター、これを見てください」


声をかけられた二人は小走りでキース軍曹の所に行った。キース軍曹は氷塊をひっくり返していた。


「これは、構造物を支えていた支柱を氷原に打ち込んだ跡のようだな。きれいな円形で氷が削り取られている。自然現象でできたものとは考えられない」


「ねえ、これも見て」


 グスタフ少佐が新たな発見をして、二人を呼び寄せた。


「これは、携行食のパック袋じゃないか。このパックに書いてある文字はノルウェー語だな。見事なくらいに中身をすべて食べたようだな。空っぽだ。・・間違いない。この場所で遭難したノルウェー調査隊はビバークしていたんだ」


 カスター少佐は、グスタフ少佐から受け取ったパック袋をまじまじと見ながら、安堵感と失望感の入り混じった気持ちを表に出さないようにして言った。


「少佐、我々の他に救援隊が派遣されていたようですね。・・その救援隊の方が我々より早くノルウェー調査隊を発見して、救出に成功したわけですね」


 キース軍曹も複雑な気持ちを押し殺して、カスター少佐に向かって言った。三人とも口には出さなかったが、誰かが救出してくれた安堵感と共に、聞かされていなかった別の救援隊の存在に対する懐疑的な気分が沸き上がってきた。


「カスター少佐、我々とは別の救援隊が派遣されたことは聞いておられますか?」


「いや、そんなことは何も聞いていない。艦長もそんなことは聞いていないはずだ。これまでの救出行程の中では何度も危険な場面があったが、その度に艦長はやや強引とも思える策を選択してきた。それは六名の命がポセイドンの救出活動にかかっていると信じていたからだ。クルーの命と艦の安全を最優先に考えている艦長がそんなことでもない限り、無理なことはしないはずだ。二重遭難になりかねない」


 カスター少佐は、確信を持った強い口調でキース軍曹に答えた。


「そうですね。ブリッジ内の決断のことについては私にはわかりませんが、我々で救出しなければ誰がするのかという気概を持って、他のクルーも任務を果たそうと懸命だったことは確かです。・・すると、ノルウェー政府が自ら救援隊を派遣していながら、救援を申し入れたUFF(国際連邦艦隊)にはそうした情報を伝達しなかったのでしょうか」とキース軍曹は言った。


「いや、救出に当たったのはノルウェーとは限らない」


「では、いったいどこが?」


「見当もつかない。・・今は、この事実を艦長に伝えることが最優先だ。加えて、ノルウェー調査隊が救出されたとの情報はないか。また、救出に当たったのは、どこの国かについて情報がないか調べてもらおう。ともかく、推測で口にするのはやめよう」


「はい、わかりました」


 グスタフ少佐もカスター少佐の意見に賛成したかのようにコクリとうなずいた。そして、カスター少佐は急いで雪上車に戻っていった。その場に残った二人は、その近くに残留品が他にないか探し出した。キース軍曹は言った。


「ドクター、遭難したノルウェー調査隊が無事だといいのですが。ただ、・・・」


「ただ、・・何?」


「いえ、なんだか妙な気持ちです。せっかく我々が危険を冒して救出に来たのに。なんだかとても残念です。利用されただけだったような・・・」


「軍曹、私の中にもあなたと同じような気持ちはあるわ。でも、救出したのはなにもノルウェーとは限らないわ。例えば、・・どこかの国の北極海探査隊が偶然、ノルウェー調査隊を発見して救出したのかもしれないわ」


「この広い北極海で、そんな偶然があり得るでしょうか?」


「まあ、・・そうね。・・でも、カスター少佐の言うとおり、そんな推測をするのはやめましょう。私はノルウェー調査隊が全員無事でいてくれることを願うだけだわ」


 グスタフ少佐はそう言うと、会話を中断するかのように再び残留物探しを始めた。それを見たキース軍曹も気を紛らわすかのように、少佐と同様に残留物を探し出した。



   ― ポセイドンのブリッジ ―


「話はわかった。ご苦労だった、カスター少佐。では、気を付けて帰艦してくれ」


カスター少佐からの報告を無線で受けたティエール艦長は、うかない表情で何か考え事をしているようだった。


「何かトラブルでも発生しましたか?」


 ビスマルク副長は冷静な口調で艦長に尋ねた。


「副長、ノルウェー調査隊は救出されたそうだ」


「“そうだ”とは、どういう意味ですか?」


「遭難地点で、ノルウェー調査隊がビバークしたと思われる跡をカスター少佐らが発見したそうだ。UFF本部やノルウェー政府から、遭難した調査隊が救出されたという情報は入っていないな、副長」


「はい、何も情報は入っておりません」


 ビスマルク副長ばかりか、ブリッジ内で二人の会話を聞いていたクルーは、全員が艦長の顔を見た。


「すぐにUFF(国際連邦艦隊)本部に打電。“遭難地点にてノルウェー調査隊のものと思われるビバーク跡を発見。ノルウェー調査隊救出の速やかなる事実確認を要請する” 以上だ」


「了解しました」と通信担当のヒックス少尉が言った。


「どういうことでしょうか、艦長。救出したとの情報を本部が得ていれば、我々に連絡が入るはずです。逆に考えれば、正規の救援隊が救出したのではなく、偶然にどこかの観測隊が救出したため、ノルウェー政府にその連絡がまだ入っていないのではないでしょうか」


 ビスマルク副長は相変わらず冷静な口調で言った。


「うむ、そうかもしれんな。まあ、もう少し時間が経てばその辺の事情が明らかになるだろう。・・それと、保安部と厚生部に救援隊六名の収容準備にかかるように手配してくれ」


「わかりました」


 ビスマルク副長はそう言うと、保安部と厚生部に対し、具体的な指示を出した。


艦長はいつ入ってくるかわからない本部からの連絡を待たなくてはならなった。また、二台の雪上車が戻ってくるまで、このまま待機しなければならない。この時間の経過が内心、歯がゆくて仕方なかった。



   ― ノルウェー調査隊のビバーク跡地 ―


 ノルウェー調査隊の派遣班の残留物を探し出したカスター少佐、グスタフ少佐、キース軍曹の三人の様子を見ていたセラピ少尉ら雪上車にいた残りの三人も、残留物探しを手伝いに来た。


「どうだ、新たな残留物は見つかったか?」


 カスター少佐はツルハシで氷を砕く作業の手を止めて、作業の様子をうかがった。


「いえ。さきほど、ペンを見つけてからは何もありません」


 キース軍曹も作業の手を止めて答えた。


「よし、これくらいにしておこう。わずかだが、残留物があればノルウェー調査隊のものかどうか特定できるだろう。残留物はすべて一号車に運んでくれ」


 そう言うカスター少佐に、グスタフ少佐はスコップを片手に歩み寄って言った。


「ポセイドンからは、まだ何も連絡は入っていないの?」


 その問いかけに対し、カスター少佐は無言で首を横に振るだけだった。


「そう。・・変ねえ。六名を救出したのだから、たとえそれがどこかの観測隊が偶然発見したとしても、ノルウェー政府からプレス発表するはずなんだけど」


「本当に救出されたのかな?」


「それじゃ、発見された時は全員死亡していたって言うの?」


 グスタフ少佐はそう言ってから、口にすべきことではないことを言ってしまったことにハッとして、右手で自分の口を押さえた。


「いや、そんなことは言っていない。ただ、ドクターと同じように何か変だとは思っている」


 重苦しい雰囲気の氷原の上に、二人は無言で立っていた。他のクルーは雪上車に残留物とツルハシ等の道具を積み込んでいた。


「少佐、ドクター。荷物はすべて雪上車に載せました。出発しましょう」


 一号車に乗っているキース軍曹から、二人に雪上車へ戻るよう催促した。


「さあ、行きましょう。・・これでポセイドンへ帰れるわ」


 グスタフ少佐の声に促されるように、カスター少佐は無言で雪上車の方に足を進めた。その後ろ姿には、任務達成の充実感とは程遠い疲労感が感じ取れた。そして、来た時と同じように、カスター少佐は一号車に、グスタフ少佐は二号車に分かれて乗り込んだ。乗り込んできたカスター少佐に対し、キース軍曹とセラピ少尉は声をかけた。


「ご苦労さまでした。少佐。現在の天候は来た時とは正反対で、安定しています。ポセイドンまでの帰路のルート設定は完了しました。二号車も出発準備完了。・・帰りましょう。ポセイドンへ」


「ああ、そうだな。もう帰ろう、ポセイドンへ」


 二台の雪上車はエンジン音を立てながら進行方向を変え、ここへ来たルートを戻るように進んでいった。その様子はまるで自信たっぷりに、何の迷いもなく走行しているように見えた。キャタピラーの後方から舞い上がった雪煙が空中に拡散していったが、雪上車のスピードが早く、雪煙の中に遠ざかる雪上車の姿が吸い込まれるように消えていった。その跡には、新たなキャタピラーの跡がくっきりと氷原に刻み込まれた。その輪郭は次の吹雪が来るまで消えないくらいだろうと思えるくらいに鮮明なものであった。



   ― UFF(国際連邦艦隊)本部 ―


「『ポセイドン』からの報告によると、遭難地点へ向かう途中のロマノフ海嶺で、潜水艦からの攻撃を受けたようです。その潜水艦は『ポセイドン』からの呼びかけを無視して、なんと魚雷攻撃をしかけてきました。信管を抜いてあったせいか爆発はしませんでしたが、その際、艦の外殻に損傷を受けたようです。なお、その潜水艦はスクリュー音、エンジン音、三次元ソナーを解析したところ、ノルウェー海軍の潜水艦だということがわかりました」


「なにッ、それは本当か」


「はい、我々の方でもデータ解析の結果、同じ結論に至りました」


「なぜ、ノルウェー海軍が我々を攻撃する? だいたい、先に救出を依頼してきたのは他ならぬノルウェー政府だぞ。そのノルウェーがなぜ我々を攻撃する。考えられん。何かの間違いではないのか?」


「いえ、間違いありません。最初、『ポセイドン』から報告を受けた時は同じように思いました。そこで、我々の情報部にデータを送り、解析したところ、間違いなくノルウェー海軍の建造されたばかりの潜水艦と判明しました」


「なぜだ。まさか『ポセイドン』が先にノルウェー潜水艦に対し、威嚇行動を負ったわけでもあるまい。それに攻撃を受けたのはロマノフ海嶺だったな。あそこはノルウェーの排他的制限海域ではないから、攻撃をしかけられる筋合いはない」


「その辺りもティエール艦長に確認しましたが、絶対に先に仕掛けていないとのこと。正式には、内蔵してあるオペレーションレコーダーを確認してからでないと早急に決めつけることはできません」


「確かにそうだが、情報部とあのティエールがそう言っているのならば、ノルウェー潜水艦による攻撃に間違いなさそうだな」


「・・・。いったいどういうことでしょう。向こうにもこちらがUFF(国際連邦艦隊)の潜水艦だということはわかっていたはず。にもかかわらず、わざわざ信管を抜いた魚雷で攻撃してくるとは」


「うむ、謎だらけだな。こういう時は勝手な想像で発言をしてはいけない。君の言うとおり『ポセイドン』を調査してからでないと何も手をつけることができない。・・待つしかないな」


「そうですね。ノルウェー政府に問い合わせするにしても、物証がないと我々としては動けません。やはり、ノルウェーは“自国よる救出”にこだわったのでしょうか」


「君ッ、勝手な想像は頭の中にしまっておきたまえ。口はつぐんでおけ」


「はっ、申し訳ありません」


「ウーム、・・・。だが、君の言うとおりかも。しかし、くどいようだが口はつぐんでおけ。何せ、事件が起こったのは北極海だ。沿岸諸国ばかりでなく、北極海の開発プロジェクトに関係している企業、国家が多いデリケートな場所だ。わかるな」


「はい。・・それでは、『ポセイドン』の寄港地であるノルウェーのナルヴィク港にUFFの専門チームを派遣する準備に取り掛かります。失礼します」



   ― ポセイドンからの救援隊 ―


「ポセイドン」から派遣された救出隊のカスター少佐とグスタフ少佐の心情は、「先を越された」といった無念さや失望感は全くなく、むしろ、安堵感に浸っていた。それは、キース軍曹を含めた救援隊全員の共通した気持だった。皆、一様に「よかった。たぶん彼らは救われたのだろう。これでポセイドンに帰れる」と雪上車の中はリラックスした気持ちになった。


「よし、みんなご苦労だった。さあ、ポセイドンへ帰ろう。キース軍曹、進路反転。ポセイドンへの安全なルート選択して、コースをセット。また、吹雪に襲われるかもしれないから、慎重な運転を頼んだぞ」


「了解。進路反転、進行コース選択。・・セット完了。ポセイドンに帰ります」


 キース軍曹は笑顔でカスター少佐に振り向いて言った。二台の雪上車は帰還を喜ぶように進路変更し、縦列になって来たルートを力強く戻っていった。後には二台の雪上車のキャタピラーの跡が重なるように残っていた。



   ― ノルウェー海軍潜水艦「フレイヤ」からの救援隊 ―


 その頃、新鋭潜水艦「フレイヤ」から派遣された救援隊は、海軍本部からの「科学省の砕氷船『ホルダラン』が遭難者全員を収容。生命に別条なし」との連絡を「フレイヤ」を介して受け取っていた。救援隊全員が下を向いて、くたびれもうけしたような脱力感に襲われていた。


「くそ、科学省のオンボロ砕氷船に先を越されてしまったか。UFF(国際連邦艦隊)の潜水艦への牽制行動がなければ、もっと早く救援隊を送れたはずだ。そうすれば、我々海軍の手で遭難者を救出できたかもしれないのに」とある痰飲が言った。


「そんな言い訳では、本部は通らないだろう。成果ありきだからな。今回の救出活動は失敗だ。しかし、問題は海軍本部だけに止まらないぞ。何といっても国際連邦の潜水艦を信管抜きとはいえ、攻撃したのだからな。潜水艦は国際連邦艦隊本部に報告していることに間違いはないだろう。攻撃してきた潜水艦の特定作業に国際連邦艦隊本部が取り掛かれば、ノルウェーの潜水艦であることが判明するのは時間の問題だ。そこを突かれた時、上層部はどんな言い訳をするつもりなのか」と隣の隊員は言った。


「そんなことは、上層部が考えることだ。攻撃命令を出したのは、他ならぬ海軍本部なのだからな。俺たちはその命令に従っただけだ。命令違反は軍法会議だからな。責任を取るのは海軍本部さ」


「でも、その実行犯として、本部は『フレイヤ』に責任転嫁してくるかもしれない」と隣の隊員は言った。


「もう、そんな話はよせ。いくら考えても俺たちには何にもできない。なうようにしかならないのさ」


「あーあ、もう半年で兵役終了なのに、軍法会議にかけられたら、兵役年金がもらえなくなる」と隣の隊員が言った。


「お前、そんなこと心配しているのか」


「そういうお前は、心配じゃないのか?」と隣の隊員が言った。


「だから、言っているだろう。俺たちにはどうにもならないことだって」


「でも、・・」


「ほら、隊長からの指示だ。一刻も早く『ホルダラン』に帰艦しろとよ。せっかく吹雪の中をこんな所までやって来たのに、何の収穫もなしか。・・おい、ボッとしてないで、すぐに計器のチェックだ。それから帰路のコースを探すぞ」


「わかったよ。・・・」と隣の隊員はそっけなく返事した。



   ― ポセイドンのブリッジ ―


 ポセイドンに到着した二台の雪上車から降りてきたカスター少佐とグスタフ少佐は、片付け作業をしているキース軍曹とセラピ少尉を残して、今回の救出活動の報告のために足早にブリッジへと向かった。

 ブリッジでは、出発した時と同じように、ティエール艦長らが二人を迎えてくれた。二人は艦長の前に笑顔で進み出た。

 

「艦長、救援隊四名は無事に帰りました。凍傷等の負傷者はいません」とカスター少佐は言った。


「うむ、みんなご苦労だった。途中から大変な吹雪になったようだな」と艦長は言った。


「はい。調査隊の位置は把握できても、そこにたどり着くルートは自分たちでクレバスなどの危険を回避しながら探さなくてはなりません。海中での『ポセイドン』のように自由に移動できません。そんな風に接近ルートを探している途中で“調査隊救出”の通信連絡を受けました」


「たぶん、調査隊は救出されたことだろうし、結果よしとしなければならない。それにしても、雪上車の車外での修理作業もあったようだが、救援隊のクルーに負傷者が出なくてよかった」と艦長は救援に向かった四名の労をねぎらうように言った。


「はい。普段は強引なカスター少佐も、今回は私の言うことを聞いてくれて、無為な移動には慎重でした」と厚生部長であるグスタフ少佐は、少し意地悪そうな笑みをたたえてカスター少佐を横目で見た。これに対して、カスター少佐はすぐに言い返した。


「グスタフ少佐、私は普段から強引ではありませんよ」と苦笑いしながらカスター少佐は言った。


「あら、そうかしら」とグスタフ少佐は同じように微笑んでカスター少佐を横目で見た。


「まあまあ、二人ともそれくらいにして。ともかくご苦労だった。では、損傷した外殻を修理するため、『ポセイドン』はこれからノルウェーのナルヴィク港に向かう。損傷を受けた外殻を修理しなければならない。さっそくだが、二人とも持ち場に戻ってくれるか」と艦長は言った。


「了解」


 二人とも口をそろえるように答えた。艦長に言われたとおり、カスター少佐はブリッジに残り、グスタフ少佐は医療室に戻っていった。


「よし、ではドレイク少佐。ナルヴィクに向けてコースセット。ただちに潜航。ただし、速力二分の一だ」


「了解。到着地点をナルヴィクにセット。・・潜航準備。水密ハッチすべて遮蔽完了。潜航ッ」


 ドレイク少佐の操作により、ポセイドンは周りの氷に触れないような慎重さで静かに垂直に沈んでいった。潜望鏡も海中に姿を消した後は波も静まり、真っ白な氷原に人工的な楕円形の穴がポッカリと開いていた。そこには砕けた小さな氷塊がいくつも浮かんでいた。


 やがてこの穴もいずれ周りから氷が張り出してきて、何事もなかったように塞がれてしまうのが普通であるが、地球温暖化の影響により、ポセイドンが開けた穴が周りの氷より早く溶け、再び楕円形の穴が現れるかもしれない。


そうなったら、将来、その穴を発見した人間は、なぜこんな場所に、しかもこんな人工的な形をした穴がどのような事象によってできたかについて、どんな推測を立てるのであろうか。大氷原の下の海中で繰り広げられた人間模様、組織間の軋轢など記録に残らない事象をひも解くには、想像力に頼るしかないが、今回の救出活動劇を推測する者がいるだろうか。真実は誰にも語られることなく、北極海の氷の中に取り込まれたように封印されたままでいることだろう。

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