第七章 ロモノソフ海嶺の戦い

第七章  ロモノソフ海嶺の戦い



   ― ロモノソフ海嶺を航行中の「ポセイドン」 ―


 遭難したノルウェー調査隊を救出するために派遣された、UFF(国際連邦艦隊)「ポセイドン」とノルウェー海軍の新鋭潜水艦「フレイヤ」は、ロモノソフ海嶺の海中を進んでいた。両艦とも強い海流を後方から受けてかなりのスピードが出ていた。

「ポセイドン」は強い潮流に乗り、主機だけの通常運転に切り替わっていた。また、

両艦とも目標地点に向かってほぼ同じコースをたどっており、早いうちに接近・遭遇することが予想された。両者の違いは、前者は後者の存在を知らないが、逆に後者は具体的な場所までわからないが、前者が北極海に出動していることを知っていたことだった。


「艦長、ただいま、潜水艦を補足しました。十時の方向です」と「ポセイドン」のソナー担当のヒックス少尉が小声で艦長に報告した。そして、航海長のドレイク少佐もそれをモニター画面で確認した。


「こちらでも確認。・・ただし、どこの国の潜水艦かわかりません。データにはないスクリュー音です」とドレイク少佐も小声で報告した。大きな音をたてると相手に気付かれてしまう恐れがあるからだ


「なんだって、『ポセイドン』のデータベースに登録されていない潜水艦がこんなところで何をしているのだ」と艦長もいぶかしく思った。


「艦長、その潜水艦とポセイドンの進行方向はほぼ同じです。いえ、少しずつですが近づいています。その潜水艦の探索能力にもよりますが、いずれ当艦の存在も先方に捕捉されると予想されます」とヒックス少尉が言った。


「艦長、コースを変更しますか?」とドレイク少佐は尋ねた。


「いや、このまま進め。いずれ、先方もこちらに気付き、何らかのアクションを起こすかもしれない。何も起こらなくても我々は任務を遂行しなければならない。もし、急に進路を変えて当艦に近づいてきたら、すぐに面舵を切って接近回避しろ」


「了解しました」と心の動揺を隠すようにドレイク少佐は答えた。


「艦長、先方はノルウェー潜水艦です」と副長は珍しく驚いたような表情で艦長に報告した。


「なんだと、さっきは国際連邦艦隊のデータベースに登録されていない、と言ったではないか」と艦長は強い口調ながら小さな声で副長のビスマルク中佐に言った。


「すいません。先ほどは現在航行中の潜水艦に絞って検索した結果を申し上げましたが、検索範囲を広げてすべての潜水艦を検索しました。これを見てください。現在、試運転中のノルウェー潜水艦です。艦名は『フレイヤ』です」


「何、試運転中の潜水艦だって?・・偶然の遭遇か。ともかく、気にせずに進もう」と艦長は不安な予感を覆い隠すように言った。



   ― ノルウェー新鋭潜水艦「フレイヤ」の司令塔 ―


「艦長、先ほどから計器が妙な音を拾っています。スクリュー音とも違いますし、これだけ長い時間続いていますから自然現象とも違います」と「フレイヤ」のソナー担当がエリクソン艦長に報告した。エリクソン艦長と副長はソナー担当のそばに来た。


「何? 計器の不具合か故障ではないのか」


「・・いえ、そうではないと思います。計器は正常に作動しています」


「では、どこかの潜水艦なのか?」


「わかりません。こんな音を出す潜水艦を私は知りません」


「では、方向と距離は計測できるか?」


「やってみます。・・・おおよそですが、本艦から二時の方向で、速力はほぼ同じです」


「・・・・・」


 エリクソン艦長はこう考えていた。「潜水艦に違いないが、どこの国のものだろう。この時期に、この海域にいるとは。ひょっとしてロシアの秘密潜水艦かもしれんな。目的は資源調査かな」


「艦長、本艦は試運転中で、しかも調査隊の救援という任務もあります。あまり、接近することは避けるべきでは」と副長は謎の潜水艦を他国のものと仮定して、関わり合いを持つべきでないと判断し、艦長に意見具申した。


「向こうは我々に気付いているかな?」


「たとえ今は気付いていなくても、進行コースを変えなければ、いずれ発見されます」


「そうだな。しかし、我々には任務がある。コースはこのまま維持する。相手が潜水艦だとしたら、先方は“訳あり“の潜水艦だろう。先方から回避行動に出るだろう」


「そう願いたいものです」


 こうして両者にとっては、相手の見えないにらみ合いのような、長く感じられる時が流れた。



   ― ポセイドンの司令塔 ―


「まだ、先方の潜水艦『フレイヤ』はコースを変えないのか?」と艦長はドレイク少佐に尋ねた。


「はい、同じコース、速度を保ったままです」


「先方との距離は?」


「約千百五十mです」


「警戒警報ッ。距離が五百mまで現在の航行を続ける。それ以上近づいたら、徐々に減速せよ」


 ティエール艦長は先方の潜水艦との接触はできれば避けたかったが、ポセイドンの存在も既に探知されている可能性が高いので、ここは我慢比べだと判断した。


「距離千百mになりました」とドレイク少佐は報告した。


「魚雷戦の準備に入りますか?」と副長は艦長に尋ねた。


「そうだな、距離が千mより近づいた時にはそうしてくれ。ただし、音をたてないように注意せよ」


「了解しました」と副長はいつもより緊張気味に答えた。


 艦長は不要な音を出して、謎の潜水艦が警戒態勢に入ることを恐れた。ノルウェー調査隊の救出のために、ここで時間を浪費することは避けたかった。できることなら、謎の潜水艦が自らコース、あるいは速度を変えてもらいたいと、心の中で思っていたが、口には出さなかった。


「距離千mになりました」


 それを聞いた副長は艦長の顔を見た。艦長と目が合い、艦長はコクリとうなずいた。


「保安部長、魚雷戦の準備態勢を取れ。ただし、音を出すな」と副長はドレイク少佐を見て、小声で言った、


「了解しました」とドレイク少佐も小声で答え、魚雷室にこれを伝えた。


これを受けた魚雷室では、ゆっくりとした、しかも慣れた動作で六門の魚雷発射管に魚雷を装填する作業に取り掛かった。魚雷室にいたクルーは、救援に向かっているのに、なぜ魚雷の準備をするのか、何か予定外の出来事が起こったと感じた。しかし、それを言い出す者は一人もいなかった。皆、黙々と各自の役割を忠実に実行していた。



   ― ノルウェー潜水艦「フレイヤ」の司令塔 ―


「まだ、謎の潜水艦の動きに変化はないか?」とエリクソン艦長は航海長に尋ねた。


「変化ありません。・・距離千百mまで近づきました」


「衝突警報ッ」と艦長は小さな声で鋭く言った。


「魚雷装填ッ」と艦長は続けて言った。


 司令塔の中に緊張が走った。副長は艦長の指示に従って、魚雷室に訓練通りに行うこと、一号魚雷には信管を抜いた魚雷を装填するようにとの指示を伝えた。魚雷室では試運転からいきなり実戦に変わり、乗組員は多少慌てたが、落ち着いて副長の指示通りに動いた。


 それまでの様子を見ながら、それまでは黙っていた副長がこう言った。


「艦長、試運転期間中の魚雷装填は艦隊規定により禁止されています。どうか、今の命令を取り下げてください」


 通常、艦長命令に対して、副長がこうした異議申し立てや忠告することはありえないが、今回の接近は緊急事態と判断したのか、あるいは、本来の職務を一時的に忘れてしまったのかはわからないが、副長はあえて、艦長に意見具申したのだった。

その瞬間、艦長と副長の目と目が合い、互いに気まずいような表情を浮かべたが、次の瞬間には艦長は気を取り直したかのように航海長に質問をした。


「謎の潜水艦との距離は?」


「九百mです」


「五百mにまで接近したら、逆進をかけて接近を回避する。ただし、コースは今のままだ」


「了解しました。距離が五十m縮まるごとに報告します」


 それを聞いた艦長は、すぐさま魚雷装填の作業が終了したかどうかを確認した。


「距離、八百五十m・・」


「・・距離、八百m・・」


「フレイヤ」の司令塔内は言葉を発する者はいなかったが、短時間のうちに緊張状態になった。



   ― 「ポセイドン」の司令塔 ―


「距離七百mになりました。なおも接近中。先方はコース、速度を維持したままです」とドレイク少佐は艦長に伝えた。


「・・距離、六百m・・」


「よし、五百mになったら、逆進をかけて面舵いっぱいだ。逃げるふりをするぞ」


「了解しました。・・距離、五百五十m・・」


「・・距離五百m。逆進、面舵いっぱいッ」とドレイク少佐は、声に出しながら、逆進と面舵いっぱいの操舵をした。


 「ポセイドン」は主機に内部磁場式超伝導電磁推進システムを装備し、スクリューには直結していないため、通常運転の途中に逆進をかけても、トランスミッション等の動力伝達部に物理的な抵抗力は発生しない仕組みになっている。よって、一般の潜水艦より思い切った逆進をかけることができるのが特徴の一つである。逆進と面舵をきった「ポセイドン」は、急激に速度を落としながら、右方向に進路を変えた。



   ― 「フレイヤ」の司令塔 ―


「艦長、謎の潜水艦は急激に速度を落とし、面舵を切りました。・・距離、五百五十m」と航海長は艦長に大きな声で報告した。


「なに、どうしてそんなことができるのだ。艦が壊れないのか」と艦長は揺れに備えて潜望鏡にしがみつくような態勢をとった。また、スクリューに逆進をかけて減速させたかったが、「フレイヤ」が試運転中のため、艦の性能を艦長は把握しきれていなかった。思い切った艦に負荷をかけることは避けたかった。


急激に左方向の力が「フレイヤ」に働き、乗組員は一様に倒れそうになった。そして、速度をあまり減ずることなく、「ポセイドン」より大きな弧を描くように「ポセイドン」から離れていった。一方、逆進をかけた「ポセイドン」は、小さな弧を描くようにして急激に速度を落としていった。


「よし、謎の潜水艦は面舵をきった。艦首の向きを奴のケツにつけろ」


 エリクソン艦長は、両艦の相対的な位置関係からとっさの判断で、「ポセイドン」の後方に「フレイヤ」の艦首を向けることに成功した。非常に近距離での操舵だったため、あやうく衝突寸前まで接近し過ぎた。衝突を回避できた「フレイヤ」の航海長は、思わず「フーッ」と安堵のため息をついた。しかし、それもつかの間、ポセイドン」の艦体後部に「フレイヤ」の艦首が徐々に接近していった。

これは「ポセイドン」が急激な逆進をかけて減速したことと、「フレイヤ」が取舵をきったものの、ポセイドンほど減速しなかったことが原因だった。


「逆進、衝突警報ッ」とエリクソン艦長は叫んだ。


 「フレイヤ」の航海長は逆進する操舵をしたが、スクリューはいったん停止し、逆回転するにはしばらくのタイムラグがあった。そのため、「ポセイドン」と「フレイヤ」の距離はなかなか縮まらなかった。それどころか、「ポセイドン」は逆進をかけたままだったため、その距離は「フレイヤ」の逆進にもかかわらず、接近していった。艦長の目は「ポセイドン」との距離を示す計器盤に釘付けになった。また、試運転中のため、艦の強度に関する感覚的な理解は進んでいなかった。そのため、本来ならば、取舵の指示を出すべきだったが、艦長は艦の動静の急激な変化を嫌った。「フレイヤ」には逆進をかけることが艦長にとって精いっぱいの指示だった。



   ― 「ポセイドン」の司令塔 ―


「いかん、先方は速度を弱める気はないようだ。フルパワーで逃げるぞ。面舵はそのままだ」とティエール艦長は航海長のドレイク少佐に伝えた。


「了解。全速ッ」


「ポセイドン」には、今度は逆進とは正反対方向の推進力が加わり、艦は大きく揺れた。衝突警報が鳴りっぱなしの艦内にいるクルーの中には、将棋倒しになる者もいた。


「距離、三百m、なおも接近中」


「・・距離、二百m、なおも接近中・・」


「・・距離、百五十mになりました。なおも接近中・・」


「くそ、先方は何をしているんだ。衝突させる気か」と保安部長のカスター少佐は語気を強めて言った。


「先方は我々の左後方につけています。コースを変える気はないようです」とドレイク少佐は言った。


「・・距離、二百mに戻りました。大丈夫です。衝突は回避されました」



   ― 「フレイヤ」の司令塔 ―


「距離、百五十m。我々は謎の潜水艦の左後方につけました。絶好のポジションです」


「よし、ニアミス状態だがよくやった。このまま距離を開けながら、ヤツのケツから離れるな。ゆっくり減速しろ。航海長、ヤツを逃がすなよ。ぴったり、ヤツの後を追尾しろ」


「艦長、遭難したノルウェー調査隊への救出が遅れるのでは?」と副長が艦長に対し、珍しく異議を唱えた。


「それは後でいい。謎の潜水艦を追尾することは『フレイヤ』の性能を知るのに格好の機会だ」と艦長は言った。


「しかし、・・」とまで副長は言ったが、その先は口をつぐんだ。


「なに、しばらくヤツと遊んでやるだけだ。外交問題になるようなことはする気はない」と艦長は言った。


 これを聞いた副長は口を閉ざさざるを得なかった。


「謎の潜水艦は相当な速度で進行中。距離、二百五十m・・」と航海長が言った。


「距離、三百mに広がりました、我々の正面にいます。なおも、遠ざかります。・・距離四百m、・・」と航海長は続けて言った。


「よし、距離千mを保て。振り切られるな」と艦長は航海長に指示した。



   ― 「ポセイドン」の司令塔 ―


「航海長、現状報告せよ」と副長はドレイク少佐に尋ねた。


「先方との距離は千m。離れずに追尾してきます」


「どういうつもりだ。こちらがUFF(国際連邦艦隊)の潜水艦だとわからないのか。いや、そんなはずはないはずだ。とすると、考えられるのはこちらに対する嫌がらせのつもりなのか」と副長は自分なりに現状を分析した。


「嫌がらせか。『ポセイドン』を追尾してくるとは、ノルウェーも高性能な潜水艦を持つようになったのだな。しかし、我々にはノルウェー調査隊の救出という任務がある。先方と遊んでいる暇はない」と艦長は言った。


「コースを元に戻すぞ、航海長。そして、全速力だ」


「了解しました」



   ― 「フレイヤ」の司令塔 ―


「あっ、謎の潜水艦が転進しました」


「追うんだ。逃げられるなよ。距離千mを保て」と艦長は念を押すように言った。


「それにしても早い潜水艦です。依然として通常のスクリュー音は聞こえてきません。どんな構造の船だろう。やはり、ロシアの秘密兵器でしょうか?」と航海長は考えあぐねていた。


「スクリュー音のしない潜水艦か。・・まてよ、ひょっとしてUFF(国司連邦艦隊)の潜水艦かもしれんぞ。たしか以前に、聞いたことがある。スクリューなしで推進する潜水艦が実用化されたと聞いたことがある。それはUFFの技術によるものであると。うむ、であれば、UFFが我々と同じノルウェー調査隊の救援目的で、北極海のこの海域にいる理屈も成り立つ」


「UFFですって? それならば、こうして追尾することはまずいのではないでしょうか?」と副長は艦長に問いかけた。


「なあに、何かあれば、こちらは試運転中の潜水艦だ。コンピューターにUFFのデータを取り込んでいないと言えばいい。実際にそのとおりだしな。ヤツがこの後、どう出てくるか見ものだ。しばらく追尾を継続せよ。これは試運転として実戦並みの航行能力をためす絶好のチャンスだ」と艦長は言った。


「謎の潜水艦が速度を上げました。・・大丈夫です。追尾できます。それにしてもこの『フレイヤ』は速いですね。こんなに速力が出る潜水艦に乗るのは初めてです」と航海長は独り言のように言った。



  ― 「ポセイドン」の司令塔 ―


「先方も速度を上げてきました。どこの潜水艦でしょうか? かなり高性能です」と副長が漏らした。


「追尾中の潜水艦に、警告のための音波信号を発信せよ。ただし、一発だけだ」と艦長がドレイク少佐に命じた。


 ドレイク少佐は慎重に音波信号を一発だけ発信した。


「先方は依然として、追尾してきます」とドレイク少佐は計器盤を見ながら報告した。


「もう一度、一発だけ発信せよ」


「了解しました」


「・・・方に変化はありません。追尾してきます」


「もう一度だ」


「了解しました」


「・・依然として追尾してきます」


「先方はどういうつもりなのでしょうか。これだけの速度を出せる高性能艦です。音波信号を必ず補測しているはずです」と副長は漏らした。


 艦長は厳しい表情をして計器盤をにらみ、先方の潜水艦との距離が離れることを願っていた。



   ― ノルウェー潜水艦「フレイヤ」の司令塔 ―


「よし、この艦の速度は確認できた。余力を持ってUFF(国際連邦艦隊)の潜水艦を追尾できる。では、追いかけっこは止めて、もう少し遊んでやるか。一号魚雷の信管を外して発射用意。スクリュー音の出ない潜水艦はどう出るかな」とのエリクソン艦長の指示に対し、ブリッジにいる乗組員は同時に艦長の顔を見た。


「聞こえなったのか。信管を外して一号魚雷を装填しろ」とあらためて指示した。


副長は内心、その指示には承服しかねたが、艦長からの命令違反となることを恐れ、絞り出すような声で魚雷発射室に、艦長に言われたように指示を出した。それを聞いた魚雷発射室の乗組員は全員、さきほどからの異常な艦の動きを感じ取っており、非常に神経質になっていた。班長は他の乗組員の顔を見ながら、しぶしぶ魚雷信管を外すように指示した。


「信管を外した魚雷を一号発射管に装填しました」と班長はブリッジに報告した。それと同時に「まさか、試運転中にこんな所で発射することはないだろう」と不安を振り払うように、祈りにも似た心境になった。


「距離は?」とエリクソン艦長は尋ねた。


「千メートルを維持」と副長は答えた。


「よし、この浅いロモノソフ海嶺で、真後ろからの、しかもこの短い距離で魚雷に対してどんな反応をするか見ものだな。やつの動きをしっかりモニターしろ」とエリクソン艦長はストップウォッチを見ながら指示した。


「了解しました。艦長・・」と副長は言った。


 ブリッジと魚雷発射室の中にいる乗組員は、艦長を除いて全員がこわばった表情をしている。まもなく艦長の口から発せられるであろう「一号魚雷発射」の時を待つしかなかった。皆、一様にあの艦長ならその指示をためらわないであろうと確信していた。不安と躊躇の気持ちが交錯しながら彼らに訪れ、その予想通りにとうとう艦長から新たな指示の言葉が発せられた。


「一号魚雷発射」


 その声には何の不安も躊躇も感じられなかった。逆に自信と高揚感さえ感じ取れる言い方だった。魚雷発射室では安全装置を解除してあった一号魚雷の発射パネルが押された。同時に一号魚雷が発射された音とかすかな振動を魚雷発射室で感じ取った。ブリッジでも魚雷発射ランプが点灯し、艦長の命令通りに魚雷発射を目で確認できた。とうとう発射してしまったと副長は、悔悟の念に似た感情が心の中にみなぎり、事の結末を案じた。



   ― 「ポセイドン」の司令塔 ―


「先方の魚雷発射管が開きました。続いて発射音あり」とソナー担当が叫ぶように言った。


「なんだと。この距離で? デコイ(囮弾)発射」とすぐさま艦長が言った。


「デコイ発射しました」と副長が答えた。


「面舵いっぱい。上部の氷塊と下部の海底山嶺に注意せよ」と艦長は連続して言った。


 「ポセイドン」は大きく右側に弧を描くようにして旋回を始めた。それと同時に艦の中のクルーには、慣性の法則によって左側に倒れそうになるくらいの力が働いた。「フレイヤ」から発射された魚雷は、右旋回する「ポセイドン」の後を追ってきて、その距離を縮めていった。そして、複数のデコイに接近してきたが、魚雷はそれに惑わされることなく「ポセイドン」の後部を追尾している。

 デコイをかわした「フレイヤ」の魚雷も弧を描くように右旋回し、「ポセイドン」との距離をさらに縮めていった。後は運任せとなった。


「デコイ、かわされました」と副長が冷静な口調で言った。 


「全員、衝撃に備えよ」と艦長が大きな声で言うと、「ポセイドン」の艦内に衝撃警報がけたたましく響き渡った。


「魚雷との距離、百メートル」とドレイク少佐も大きな声で言った。


「頼むぞ。何とか振り切ってくれ」と艦長が自分に言い聞かせるように言った。


 大きく右旋回している「ポセイドン」の後を魚雷はなおも追いかけてきている。しかし、発射された魚雷は目標である「ポセイドン」との距離が足りなかったせいで、「ポセイドン」の旋回より外側に大きな弧を描いている。距離が最小限に縮まった時、魚雷は「ポセイドン」の後尾をかすめるように追い越していった。


「魚雷、通り過ぎます」と副長は緊張した表情でも声の調子はいつもと同様に冷静だった。


「・・助かった。どうやら信管を外してあったか、離隔不足で不発に終わったようだな」と一息入れたように艦長は言った。


「敵はなおも追尾中。距離千メートル」と副長は何気ない口調で言った。


「よし、そっちがその気なら、今度はこちらの番だ。後部魚雷発射用意」と艦長は指示した。


「艦長、先方との離隔不足のため魚雷は危険です」と副長は言った。


「うーむ、もっと速度は上がらないのか?」と艦長はドレイク少佐に尋ねた。


「上部の氷塊と下部の海底山嶺に挟まれているため、これ以上の速度では衝突回避できません」


「・・そこを何とかならんのか」と艦長はドレイク少佐に言った。


 航海長のドレイク少佐は真剣に操作盤を指でたたき始め、その作業を終えると確信したような表情に変わった。


「艦長、敵が当艦を追尾してくることを利用しましょう。艦首魚雷の発射コースをこのようにプログラムしてセットすれば、敵にダメージを与えるだけの爆発エネルギーを得て、なおかつ、当艦には最小限のダメージで済む計算になります」とドレイク少佐は艦長に進言した。


「なに、どんなコース設定なのだ?」と艦長はドレイク少佐の計器盤に近づいて、そのモニター画面をのぞき込むようにして見入った。


「なるほど、艦首魚雷の進行コースをこのように取って、氷原の下の海中で爆発させれば、爆発によって生じるバブルパルス(海水の膨張エネルギー)が上部の氷原の氷を破壊し、その沈下によって、敵にダメージを与えるのだな」とティエール艦長はモニター画面を見て、ドレイク少佐に確認した。


「そのとおりです、艦長」とドレイク少佐は答えた。

「カスター少佐、この作戦を実行できるか?」と艦長は、保安部長のカスター少佐に尋ねた。


「なるほど。・・可能です。すぐに準備します」とカスター少佐は答えた。


「よし、その手でいこう。『ポセイドン』にも爆発による衝撃が少なからずあるから、衝撃警報はそのままで。敵との距離は?」


「距離千五百メートルに離れました。敵も面舵を切っているようですが、さすがに『ポセイドン』の急旋回についてくることができないようです。ただし、速度は一定しています」とドレイク少佐は現状報告した。


「艦首一号魚雷への発射プログラム完了」とカスター少佐が言った。


「一号魚雷装填」と艦長は命じた。


「一号魚雷装填完了」と副長が答えた。


「よし、一号魚雷発射ッ」と艦長は命じた。


「一号魚雷出ました」とカスター少佐が答えた。



   ― ノルウェー潜水艦「フレイヤ」の司令塔 ―


「艦長、『ポセイドン』から魚雷が発射されました」と副長がエリクソン艦長に報告した。


「なに、ヤツも同じように信管を抜いた魚雷を打ってきたか。この距離では自らの魚雷の爆発によって、ダメージを被ることになるからな。我々と同じ作戦を取るとは、意外と単細胞だな」と艦長は誇らしげに言った。


「ただ、進行コースが不自然です」と副長は言った。


「どう不自然なのだ?」とエリクソン艦長は、魚雷の航跡が見えるモニターを見た。


「なんだ、これは? 全く違う方向に魚雷が進んでいるぞ。何を考えている? ヤツの誤射か」といぶかしそうに言った。なおも艦長の目はモニター画面を凝視していた。


「敵の魚雷が左旋回を始めました。・・なおも旋回中。・・なおも旋回してきます。こ、このコースはひょっとして?」と副長は青ざめた表情で言った。艦長もにわかに表情がこわばってきた。


「このコース取りは本艦へ到達するための迂回コースだ。おのれ、考えたな。ただちに潜航ッ」とエリクソン艦長は大声で言った。


「潜航、しかし、下には海底山嶺がありますので、急激な潜航はできません」と副長が言った。


「くそ、ロマノソフ海嶺を利用したのが裏目に出たか。魚雷と本艦との高低差はどうか?」とエリクソン艦長は尋ねた。


「魚雷は本艦の前方で、氷塊との中間地点を通過予定。・・大丈夫です。本艦には当たりません」


「よかった。魚雷の信管は外しているだろうから通過するだけだな」


 「フレイヤ」の司令塔内に安堵感が漂った。「フレイヤ」は潜航を続けている。


「まもなく、本艦の前方上部に到達します。あと二十秒」


 エリクソン艦長はストップウォッチに目をやった。


「あと、十秒」


 前方上部をかすめるとはいえ、魚雷が迫ってきているので、ブリッジ内の全員が身動きせずに、魚雷が通過するのを待っていた。


「あと五秒。・・前方通過ッ」


 その時であった。「ポセイドン」から発射された魚雷が、予定通り「フレイヤ」の前方上部で炸裂し、その膨大なエネルギーは海中に伝達され、まず第一波が「フレイヤ」を襲った。すさまじい衝撃が「フレイヤ」の真新しい艦体の艦首部分に走った。それによって、何人もの乗組員が転倒した。


「くそ、やってくれたな。被害報告ッ」とエリクソン艦長は、いくつもの警報をかき消すように叫んだ。


「浸水ッ。複数の上部区画で浸水発生」と副長が報告した。


「エンジン停止。すぐに浸水防止の作業に当たれ」とエリクソン艦長が指示した。


その直後のことであった。魚雷炸裂によって発生したバブルパルスによって、氷原が破壊され、砕けた氷原がいくつもの新たな氷塊となって海中に没し、そのエネルギーが第二波として再び「フレイヤ」を襲ってきた。これら二回の衝撃波によって、「フレイヤ」は一時的にその機能を失ってしまった。「ポセイドン」の航海長であるドレイク少佐の発案による作戦が見事に的中したのだ。


「浸水は止まったか?」とエリクソン艦長はせかせるように言った。


「浸水区画は先ほどの衝撃でさらに広がりました。艦の安定を最優先とします。スクリュー停止」と副長は言った。

ブリッジ内にも、パイプの継ぎ目から循環水が勢いよく吹き出し、周辺を濡らし出した。乗組員は大慌てでレンチを使ってパイプの栓を絞め始め、水の噴出を止めるべく懸命に作業をしていた。


「・・・」艦長の口からは何も言葉が出てこなかった。


さすがの強気のエリクソン艦長も「ポセイドン」の追尾を断念するしかなかった。腹立たしいのを紛らわせるためでもないだろうが、艦長は被っていた艦長キャップの鍔を右手で持ち、思いっきりそれを床にたたきつけた。いかに悔しかったかが、この動作から容易に想像できる。これまで味わった辛酸の中でも、今回の失敗は最大の汚点となった。それでも、すぐに浸水状況の把握とそれに対応した止水作業の手順指示は的確に行われ、「フレイヤ」は北極海の藻屑として消え去ることからは逃れることができた。目まぐるしく作業に当たる乗組員をしり目に、床の上にある艦長キャップは、パイプからの噴出水で虚しく濡れたままになっていた。



   ― 「ポセイドン」の司令塔 ―


「フレイヤ」のブリッジと正反対に、「ポセイドン」のブリッジでは大きな歓声であふれていた。つい先程まで「フレイヤ」に執拗に追尾され、信管抜きの爆発しない魚雷だったとはいえ、魚雷の恐怖に襲われたクルーは、ドレイク少佐の機転を利かした魚雷攻撃によって形成逆転することができたからだ。


しかし、それも束の間で、魚雷炸裂のエネルギーが海中を伝わって、今度はポセイドンにも襲いかかった。後方上部からの海水振動によって、ポセイドンの艦体は大きく揺さぶられ、上から押さえつけられるような力が働いた。その結果、艦体の腹部が海底山嶺に接触した。異常な振動を捕えた「ポセイドン」の制御装置は、自動的に衝突警報を艦内に発した。警報を聞くまでもなく、クルー全員がその瞬間に大きな衝撃を受け、多くのクルーが倒れこんだ。


「下部区画で浸水発生。作業班は直ちに浸水防止作業にかかれ」と副長は起き上がりながら指示を下した。


 司令塔内でもほとんどのクルーが床に倒れた。副長は倒れた艦長をかばうようにして、立ち上がるのを手助けした。


「すまん。私は大丈夫だ」とティエール艦長は平静を装いながら辺りを見渡しながら言った。


「第四区画の浸水止まりました」、「第六区画は作業中」との各所からの連絡が司令塔に入ってきた。


そして、艦の態勢を正常に戻した頃には、浸水箇所には応急処置が施され、浸水だけは止めることができた。しかし、結果的には数名の負傷者と艦体の一部損傷が確認された。

 

一方、「フレイヤ」の動静にも気を配らなければならない。通信班でソナー担当のヒックス少尉は「フレイヤ」のエンジン音が途絶えたことを艦長に報告した。


「みんな、よくやってくれた。敵の潜水艦のエンジン音は先ほどから立ち消えたままだ。もう追尾してくることはないだろう。・・『ポセイドン』はこれより再び、ノルウェー調査隊の救出活動に戻る。各自、気を引き締めて救出準備を怠らないように」と艦長は艦内放送を通じて、クルーに語った。


艦長はマイクを置き、初めてほっと一息入れた瞬間、ドレイク少佐の目と目が合った。ドレイク少佐は少し微笑んでいるかのように見えたが、次の瞬間には、その目は再び操作盤に釘づけとなり、慌ただしくキーを打ち続けている。副長は各部署からの報告をまとめ、通常運転が可能であると艦長に報告した。


「コース修正、これよりノルウェー調査隊の救出地点に向かいます。入力完了」とドレイク少佐は自信に満ちているような口調で言った。


「よし、発進。出力全開。今の遅れを取り戻すぞ」とティエール艦長は力強く言った。

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