サロンでの初日を終え、明くる朝からエクスに与えられたのは仕事という名の雑用の数々であった。午前中から十件以上の、住民からの依頼として持ち込まれたサロンの案件。飼い犬探し、飼い猫探し、飼い豚探しはマシで、やれ騒音を出す隣人をどうにかしてくれだの、ゴミ捨て場を間違える住民を探してくれだのと、便利屋としてでしか動いていない。市役所の人手が不足しているとはいえ、これは流石にあんまりではないか、とやってきた団長に抗議してみた。

「平和でいいだろ。なんなら明日からやる第三部隊の遠征訓練に参加してみるか。一週間、携帯食料と狩猟のみで山岳地帯で野戦訓練っていう。」

 エクスは平謝りした。

「俺だって嫌だ。ウチは軍隊じゃないって言ってるのに、あの馬鹿は本当にバカだ。」

 と、団長はため息をつく。馬鹿馬鹿言ってるが、第三部隊隊長は英雄として西方では誉れ高い。教科書に載るくらいだという。

 御村隊長は竜殺しとして傭兵の業界では有名。であれば、団長は一体何で団長をできているのだろうか。

「先生も馬鹿も人を導く器じゃねぇんだとさ。一樹にも言われたよ。先頭に立つなら師匠がいいですよ、って。」

 面倒くさそうに、しかしなぜかはぐらかされた感じで答えられた。結局のところ団長がどこまで強さを持っていて何か有名なことがあるのかということは、何も聞けなかった。

 だから、あとでアークに聞いてみた。

「俺は実際見たことはないが、吸血鬼をコテンパンにしたとかなんとか。

吸血鬼がどういうのかって? 魔力を自己生成できて、魔術戦ができる上に肉体も強靭っていうずるい奴だ。田舎の開拓村に出る吸血鬼は魔力をほかの生物から吸わないと魔術戦できない弱い奴なんだ。」

 さらりと話しているが、魔術戦。魔力を自己生成できた時代でできた戦法だ。呪文を唱えて、様々な現象を起こせたらしいが、今の人類に魔力を自己生成することはできない。いわゆる【魔人】にはそれができ、麻薬を大量摂取することでなることができた。だが多くの魔人は人間の姿を保てずに異形化し、化け物に成り果てて、ほかの人間に害を為した。昔、西方から伝わった阿片によって、この大陸では魔人が大量発生し、多くの難民が四方八方に生み出された。今はほとんどが駆逐されたとはいえ、天剣組ができる前後は生きて暴れる魔人が多かったらしい。

「お前も見ただろう。あの赤い刃。」

 アークの言葉にエクスは来人が持っていた一振りの刀を思い出す。

「あれは本来二振りの刀だ。団長は二刀流の使い手なんだよ。」

 と、言われてもピンとは来ない。剣術の心得がないのだから当然だ。

それに加えて、ヤマトの競技剣術で二刀流を見たことがないのも上げられる。

「おいそれと見ることはないだろうが、御村隊長をして、『彼の剣は真っ当な殺人剣。一度相対すれば勝つのは容易ではない。』だ、そうだ。」

 アークはわざわざ御村隊長の低い声音を真似して話した。エクスはそれに笑ってしまう。アークはそれに釣られて自然と笑みがこぼれる。

「どうも剣士ってのは戦ってる様子がかっこいいとか武器を褒められるとかは良くても、具体的なことを褒められるのは苦手らしい。上手く人を殺す方法を褒められても嬉しくないってことらしいけど。」

「なるほど」

 男として見た目の格好良さを褒められるのはいい気になるだろう。しかし、やってることは人殺しとなれば、べた褒め拍手は気に入らない。

「それじゃあ、アークは?」

 サロンで数日が過ぎるとエクスは自然と呼び捨てになっていた。それまでさん付けにしていたら、何か困った表情をしていたアークだった。呼び捨てにしたら、態度が和らぎ、自然になった。

「俺は昔から戦うのは生きる術だ。それを格好良いって言われるのは悪い気がしないね。」

「生きる術」

「俺は魔大陸の生まれだからな。自分の命が一番大事なことは当然だ。命を守るために技を磨いた。命を守るために手段は選ばなかった。そんな生き方でも、こうして人のために何かはできる。それが先の見えない雑用でもな。」

 と、アークは微笑む。彼の言う魔大陸とは、ヤマトよりもさらに東の果ての土地のことである。純粋な魔人種が住み、多様な部族に分かれて争う未開の地だ。

いかなる大国も、この地には入植しない。魔人は魔術戦のみならず不思議な力を持つため、危険地域なのだ。

 アークはその魔大陸の生まれ。最初から価値観が違うということだ。彼がどんな人生を歩み、どのような経緯を経て、天剣組に入ったかはまだ伺い知れないが、彼にとっては今は十分平和ということなのだろう。

「さぁ、平和の大切さが分かったところで、続きだ」

 と、休憩の終わりを告げられた。エクスが平和の大切さを分かるのはもっと後になる。今は、小さな雑事を片付けるのに精一杯だった。



 6月。黄砂が飛来する季節が過ぎ、ヤマトと同じく梅雨入りを迎える。

その雨のせいかサロンに舞い込む依頼は減少傾向にある。もっとも、飼い動物の捜索依頼が増えるため、エクスとしては変わりがないという気持ちだ。

 そして、この頃になるとエクスも何を置いても面倒な依頼というものが分かってくる時節でもあった。

「今回もお世話になりました!」

「どうも」

 エクスは事務的に相槌する。相手は赤毛の美人で、西方の使用人服のような恰好をしている。彼女はあの道化屋敷の主人の奥方だそうで、毎回サロンに面倒な依頼をしてくる。

 曰く、高級魚を手に入れてくれ。

 曰く、砂糖が手に入らないので多めに仕入れてくれ。

 曰く、脱走した庭師を捕まえてくれ。

 等々、西京市では手に入りにくいものや、建物から建物に飛び移って逃げる人間を追いかけさせられた。彼女の依頼はアークでも辟易している。

「ところで!」

「えっ」

 彼女の怖いところは、依頼達成の上でさらに依頼を重ねてくるところにある。今回の場合、すでに二つ派生したところだ。これ以上、港への往復は勘弁願いたい。しかし、サロンは市から流れてくる依頼は拒否できるが、こうして口頭での依頼については拒否権を行使できないことになっている。それが彼女からの依頼をより面倒にしているのだ。

「旦那様も言っておられましたよ。最近騒がしいって。旧市街の土地権利が不当に買い占められていて、あちこちで立ち退き騒動が起きてるんですよ。何か聞いてませんか?」

「いや、まったく」

 基本的に旧市街の情報は新市街には流れてこない。依頼の関係で旧市街に出向くことはあるが、エクスはまだそこまで立ち入ったことはしていない。それに、道化屋敷のある方向まで通常は入り込まない。入り込もうにも近づけないのが正直な所だ。

「そうですか。なんだか剣呑な雰囲気の人たちも一緒になって脅しに来てたので。一応ヤマトの法では傭兵雇用は禁止でしょう? 旧市街の人がお行儀よく法律を守るとは思いませんが、最低限守るべきものを守るのがあそこの法です。少しでいいので気にかけてくださいね。」

「わ、分かりました」

 いつもはのらりくらりと依頼に依頼を重ねる彼女だが、今だけはやけに真面目な態度だった。それが道化の旦那様の受け売りなのか、自分の考えなのかは分からないが、道理が通っているのはエクスにも分かった。

 彼女が依頼の物を持ち帰るとサロンの中はエクス一人になった。

この日は依頼が少なく、アークがそれを解消していた。エクスは留守番で、あの奥方へ依頼の物を受け渡すことも兼ねていた。彼女は、依頼達成報告を自宅で済ます人がほとんどの中で直接受け渡しに拘る人だった。むしろ、依頼を多重発生させるために直接受領しに来ているのではないかと思っている。

 時刻は昼過ぎ。サロンは急に手隙になってしまうと、何もやることがなくなる。雨が降っていなければ市街巡回と称して外で時間つぶしや、エクスとしては車の運転訓練ができる。天剣組から借りている車両なので雨の中運転してどこかぶつけるのは避けたい。ただそうすると、もはや珈琲かお茶を飲むしかなくなる。

 珈琲もお茶も市販のものではなく、天剣組で仕入れているブランド品だ。団長が拘っているらしく、飲める暇があるならとことんまで拘れ、という持論があるそうな。珈琲もお茶も淹れ方は副長に教えてもらった。だからもうエクスにとっては手慣れたものだった。

「おいーっす、元気しとるかい」

 手際よく茶を淹れたエクスの後ろで声がする。黒い質感が安物とは全然違う傘を畳んでいる男が見えた。刀馬だ。

「いらっしゃい。今お茶淹れたところなんだ。」

「いいねぇ。頂こうか。」

 エクスは慣れた手つきで茶碗を二つ用意する。彼が一人でサロンにやってくるのはもう慣れっこだ。それに暇ならばお茶ぐらい楽しんでも構わないし、こうして一人でやってくる間に才賀殿は怠けまくってるのかとかは、エクスには関係ないことだということにしている。

「ぅんまい。勇太はこういうのが滅法ダメだからな。」

 使用人にやらせればいいのに、と思うが口には出さない。刀馬にとっての才賀殿は歳の離れた兄貴分のようなものらしく、妙な信頼関係に結ばれている。だが、お互いがお互いの私生活事情をバラし合っているのだ。こういう時には口出しせず、会話を広げない方がエクスも変な思い込みをせずに済むのだ。

「ところで」

 会話を切るついでに、エクスは先ほど奥方から聞いたことを刀馬に話す。

 羽室市長との出会いの後、彼自身とは会ってはいないものの、良くない話は市役所伝いに聞く。どうも市長にとってはサロンが目障りらしく、どうせなら市の直轄にしたいとのことである。またしつこくアークに引き抜きの話題が来るので、アークは役所に出向くのを嫌がっていた。

 そして、市長と刀馬の関係性はというと、悪化していた。市長と外国企業との関係はまったく見えず、市場に介入しようとしているのかと考えても、その素振りを見せない。あれやこれやを聞き込むうちに、市長側が居留守を使うようになっているという。

「初耳だぞ」

 何か聞いているかと思えば、意外な答えが返ってきた。刀馬はエクスよりも旧市街の方に入り込んでいるほうだ。彼が知らないとなると、見間違いかウソである可能性が高いが。

「一概にウソとも思えないな。道化屋敷の奥方が旧市街のヤクザと武装兵を見間違えるはずもない。少し確認するべきだ。」

 言って彼は端末を出して、その場で操作して電話を掛ける。本土では液晶端末は珍しくはないが、大陸では珍しい。電波の中継塔がそもそも数える程度しか存在しないのが大きな理由だ。その一つはサロンである。新市街は回線ネットワークが地下に万全に敷かれているので、固定電話だけで事足りる。そしてエクスはまだ新人なので個人の連絡端末は持たされていない。持たされているのは、古い型の連絡端末で、電話以外の機能はない。

「あ、獅堂団長、今いい?」

 連絡の相手は驚くべきことに団長だった。口調が砕けている。皇族からしてみれば、団長も友達なのだろうか。

「ちょっとアークさんたちを借りたい。名目は旧市街捜査で。」

 目の前の連絡を聞くに、どうやら今回のことは総督府からの正式な依頼となるようだ。そしてアークたち、というからにはエクスも入ってるんだろうと思った。アークと二人の依頼仕事はサロンに入りたての頃以来になる。また、アークと旧市街に入るのは初めてになる。

「ではそのように」

 団長がどのように受け答えしたかは分からないが、簡単な手続きは終了したようだ。刀馬は端末を懐にしまい込み、エクスに向き直る。

「というわけで、これが初めての総督府からの依頼になる。旧市街の土地権利に関わる人間と彼に雇われた武装兵の正体を掴んで欲しい。もしも武装兵が他国の傭兵や外国企業の私兵であれば、重大なスパイ行為だ。ヤマト領として断固対処しなければならない。」

 刀馬は背筋を伸ばして真面目な話に入る。だが王魔刀馬という男、真面目さはあまり続かない。

「これは建前だ。本音はワレ勝手なことしてんじゃねぇ、正体暴いたる、と。」

 これが王魔刀馬である。まぁそんなことだろうと思っていた。

「どんな繋がりがあるかだけ探ればいいんですね?」

「証拠や形のある物品があれば尚良しだが、こちらの目を盗んでいる輩となると難しいだろう。深入りは禁物だ。アークさんなら安心だが、万が一戦闘状況に陥るなら手早い撤退をお願いしたい。」

 刀馬は、足手まといがいるから、とは言わない。無論、そう言われているようで気分は悪いが、一方で仕方ない。これまでのサロンの仕事でも荒事は勿論あった。エクスはそれらに何ら貢献はできなかった。今回もそのような状況に陥ったら、隠れるか、言う通りに逃げるほかない。

「分かりました。そのようにアークに伝えます。」

「いや、それは必要ない。アークさんには俺から伝えよう。」

「えっ?」

 エクスは、この後正式に依頼内容が紙面通達され、詳細をアークに伝えるものだと思っていた。だが、刀馬は自分から伝えると言った。それはエクスに嫌な予感を十分に与えるものであった。



「ちょうど良く雨も上がってきたじゃないか」

 旧市街銀座通りの入り口。刀馬の言葉通り弱い雨は上がっていた。エクスは傘を閉じてため息をつく。予感は的中した。刀馬はしっかりついて来ている。

「そろそろ慣れようぜぇ、エクス」

「総督の言う言葉じゃないよ」

 刀馬は軽く言うが、彼は総督、皇族だ。依頼人が仕事に付いてくるなど聞いたことがない。これまで刀馬が興味本位で仕事に首を突っ込んできたことがあった。その時は依頼者ではないからといっても、公私の区別くらいはつけて欲しいと思っているし、言ってみたことはある。

『これも総督の仕事だ』

 と一点張りだ。かつての天剣組で、王魔の者が先頭に立って指揮した、という事実がある。どうもそれに憧れての行動らしい。

「今回の場合は仕方あるまいよ、エクス」

 合流していたアークは濡れた金髪を掻き上げる。

「閣下は旧市街のいくつかの商会とは顔見知りだ。無論、俺だってそうだが、影響力が違いすぎる。それは総督だからってことではなく、賭け事や荒事に滅法強い遊び人のトーマスさんとしてだ。」

「トーマスさん」

「言いやすいから皆トーマって呼ぶけどな」

 ここで初めて聞いた設定である。一応、偽名を名乗るぐらいの分別はあるということは分かる。確かにトーマの方が言いやすい。言いやすいが、それはほとんど正体を明かしてはいないだろうか。エクスはもはや深く考えるのをやめた。

 銀座通りをまっすぐ入ると、以前とは違い通りは閑散としていた。普段は雨でも露店はやっていたのだが、今日は出店屋台も少ない。時刻は昼過ぎ、かといって夕方には近くない半端な時間帯。屋台は夜営業が基本であるため、むしろ今ぐらいの時刻から店を広げ始める。だから何か問題がない限り屋台が少ないということはありえない。

「どうも雰囲気がおかしいですね」

「ふぅむ」

 エクスの感想に反応せず、刀馬が唸る。彼が違和感に考えを巡らせていると、珍しくも高級そうな車が通りを徐行してくる。銀座通りは車が通行するような広さには作られていない。通るとしたら一方通行になってしまう。そんな通りを奥からやってくるなど不審車もいいところなのだが、その車は三人の側まで来て停止し、後部座席の窓が開かれる。

「閣下、また旧市街の見回りですか?」

 車の後部に乗っていたのはなんと羽室市長だった。彼の姿を見て、アークは顔を背けた。

「奇遇だな。そっちこそ、普段は寄り付かないのに珍しい。」

 市長の含みのある言葉に、刀馬は意地悪で返す。

「閣下、旧市街はいずれどうにかしなけばならない問題。現状維持などありえません。」

「だからそのために各所で説得をしている。彼らの方は西京市になる前からの先達だ。すぐにどうにかできるわけがない。」

 刀馬と市長の旧市街の扱いに関わる意見の対立だ。こうして見ると、真っ向からの対立だ。ただ、市長の方が急進的に見えるのは、エクスが刀馬に寄っているからかもしれない。

「いずれすぐに決めることになりますよ。ところで、君!」

「僕、ですか?」

 話が平行線であることに捨て台詞を吐き、話を変えるためにエクスに声をかける。急に声を掛けられたエクスは表情に疑問符を浮かべている。

「先日は勘違いしてすまなかった。ウワサは聞いている。君のような人に閣下を抑えてもらいたいものだ。」

 彼は総督府前の一件を詫びてくる。ただ謝罪に付いてくるのが結局刀馬に関することで、ダシにされたようにも聞こえる。

「では私はこれで。出せ。」

 一方的に言って、羽室市長は三人の別れの言葉を待たずに運転手に車を発進させて新市街の方に出て行ってしまった。ようやく面倒な存在が去ってくれてアークはため息を吐いた。

 刀馬の方は珍しく眉間に皺を寄せていた。彼にしてみれば、変な場所で妙な奴に出くわしてしまったというところだろう。とはいえ、そういう文句の一つも口には出さず、気を取り直して目的を果たすための気持ちに切り替える。

「アークさん、一番近いところに行こう。エクス、ちょっとその傘貸して。」

「あ、はい」

 刀馬はアークに目配せする。そして不可解ながら、エクスが持つ紺色の大きめな傘を要求する。もちろん断る理由がないので、理由を聞かずに手渡す。すると、刀馬は小走りに先を行ってしまう。体を早く動かしたかったのだろうか。

「え、ちょっと」

「大丈夫だ。ほら、行くぞ。」

 刀馬の意図が理解できず、エクスの思考が停止するが、アークはその肩を叩いて、小走りに刀馬の後を付いて行く。エクスは半信半疑でその後を付いて行く。刀馬、アーク、エクスの順に通りを駆けて、すぐに左の路地に入る。人一人がようやく入れる路地で、濡れた煙草の醜悪な臭いがどこからか漂っている。エクスが臭いに顔をしかめている間、刀馬は路地の途中にある扉を拳で叩いている。一定周期、四回叩くのを二周。しかし中からの返事はない。

 刀馬は扉のドアノブを捻って勝手に開けてしまう。さすがにそれはエクスも咎めない。旧市街が妙な雰囲気なこともさることながら、エクスの前二人が緊張感に包まれているからだ。

「よう、おっさん、邪魔するぜ」

 重い木製の扉を押すと、薄暗い一室が目の前に広がる。金属製であろう机が室内のど真ん中を居座り、それを隔てて向こう側に人影が外の光に照らされて見える。

「ダメだ。エクス、入ってこない方がいい。」

「何でですか」

 刀馬の言葉に耳を貸さず、エクス室内を覗き込み、奥の人影の正体をはっきり見てしまった。

 それは男だった。口は半開き、目は白目、顔面蒼白で、側頭部から黒い何かが見える。かなり体格が大きい人間で、血に染まった白いシャツのボタンが飛んでしまっている。

「ひっ」

 当然だが、男はもう微動だにしない。エクスは初めて人間の死体をましまじと見てしまった。入隊式の処刑死体をほとんど目に入れなかったツケを払ってしまった。

「体に数発撃った後、頭に一発か? 酷く念入りだな」

「このおっさんとは二日前に会ってます。死んだのはその後ってところでしょうね。」

 すぐに顔を背けたエクスの一方で、アークは冷静に分析する。アークはともかく、刀馬も冷静だ。顔見知りだというのに動じていない。

「大丈夫か」

 刀馬は白目を剥いた男の目を閉ざし、振り向いてエクスに声をかける。声を掛けられたエクスは返事をせず、外に出てしまう。

「さっきのは金貸しだ。ここらへんで開催する賭博の胴元と組んで金稼ぎをしている。いつ死体になっててもおかしくない輩だ。」

「それで見慣れてるんですか」

 エクスは周辺の臭いも相まって気分悪そうにしていた。刀馬の気遣いにも、目を合わさずに視線を落としている。口調もいつのまにか敬語に戻っている。

「まさか。【魔人化】したり、【竜化】したりする人間よりマシってだけさ。」

 【魔人化】は前述の通り、薬物の過剰投与による人体の異形化だ。対して、【竜化】は人類が持つ不治の病だ。人体の異形化という点では【魔人化】と変わりがないが、突然発症するという点が違う。発症危険性は二割程度だそうだ。

 人体の異形化はエクスの想像力を越えている。その目撃経験がある刀馬は、エクスからは異様な人間に見えた。天剣組の経験がそうさせるのか、あるいは皇族はエクスが思うよりも厳しい環境なのかは、正直言って判断できない。

「才賀の一族が勇太だけになったのは、【魔人化】のせいだ。そしてそういう非道なことを平気でできる一団を俺は知っている。許せないから立ち止まれないのさ。」

「閣下、彼らの仕業だと思いますか」

 刀馬とは違い、室内をある程度調べていたらしいアークが銃弾の薬莢を眺めながら出てくる。アークも刀馬の言う一団を知っているらしい。

「時期的に合致するし、当たりだろう。ただやり方が緻密だ。調査を続けて尻尾を掴めなければ、手遅れになるかもしれない。」

「となれば出てきているのはあの男でしょうな」

 二人だけが分かる会話を続けている。エクスとしてはどうでもいい話だ。周辺の臭いも相まって、非常に気分が悪い。

「吐くなら通りに出てからにしたほうがいいぞ」

「は、はい」

 刀馬はエクスの顔色を見て、危なさに気付く。エクスの背中をさすりながら、共に路地を出る。臭いから多少なり解放され、気が抜けたのか、エクスは喉の奥から焼けるような熱さがこみ上げてくるのを感じた。



 エクスが咳き込む。未だに喉奥が焼けるように気持ち悪い。

これでもアークの水筒から少しだけ水をもらったのだが、喉の痛みで落ち着かない。気分が悪くて吐いてしまうのは、思い出す限り久しぶりだ。吐いた覚えはあるのだが、それがいつだったかすぐには思い出せない。

「すいません」

「戦闘集団ならよくあることだ。血を見て倒れそうになるのは、なぜか男ばかりなんだがな。」

 エクスが足手まといになっている現状を謝罪するが、アークは気にしていない。

「男と違って、女性は毎月のモノがあるせいらしいな」

「下ネタですよそれ」

 刀馬が持っている傘を器用なことに人差し指に乗せている。その刀馬にツッコミを入れられる程度にはエクスの気分も回復してきた。雰囲気に乗せられたとも言う。

 銀座通りの横道の路地は入り組んでいる。路地を進んでいるかと思えば、開けた通りに出くわす。目的がなければ迷子になっているところだ。とはいえ、エクスは旧市街で迷子にはなったことはない。そばに必ずと言っていいほど誰かいたのも幸いしている。

 刀馬が次に叩いた扉は、そんな急に開けた通りにある不動産屋らしき事務所だった。硝子の扉から見える範囲には誰もいない。今回は四回の叩き一周だけで済ませ、押し開ける。

「ここもダメか」

 中に入った刀馬が呟く。今度は室内が明るかった。机には電灯が点きっ放しだった。刀馬が横たわる壮年男性に近づき、死体を確認する。アークが死体の周辺を見回している。そしてエクスは懲りずに中に入って、死体を確認する。直視してしまうとさすがに顔をしかめるが、もう気分の悪さはない。

「同じだ。念入りにトドメを刺している。」

「こっちは違うな」

 刀馬は先ほどの金貸しと同じ状態であることを確認できた。対してアークは床を丹念に見回して否定する。

「薬莢が一つも落ちていない。さっきのは暗がりの隅に転がっていた。それに、死体の状態が比較的良い。」

「それよりも被害者は特に暴れた様子はないですよね。この室内も荒らされた様子も無いですし。」

 アークは手がかりである一つだけの薬莢を見ている。今の傭兵が好んで使う銃器の弾薬であるそうだ。先の金貸しの部屋には落ちていたのに、今度はそれがない。そして、撃たれた男は襲撃者に抵抗した様子はない。

「なるほど、ある程度複数人の犯行、ほぼ訪問直後に撃っている、それは強盗目的ではない、か。見当たる薬莢を回収する分、隠密しようとはしている。」

 アークは今までの情報をまとめる。エクスの素人目から見ても、襲撃者が物取り目的でないことは判断できる。だが、意図が読めない。刀馬の知り合い以外に因果のある共通点はない。

「次に行こう。いかに襲撃者が手慣れていても、この旧市街で人探しをするのは困難だ。加えて地図があっても、その通りに行けないのが旧市街だ。俺の知り合いを一人ずつ始末しているのは地理的な問題だろうからな。」

 刀馬もまた死体の共通点を自分の知り合いと推論付けた。

そして、犯人の足跡に追いつけると思っている。ただ、エクスは二人が思い当たる組織の詳細をまだ聞いていない。

「あの、犯人の正体に関わる組織って何です?」

 エクスは事務所を出てから彼らに聞いた。二人は足を止めず、顔を見合わせた。

アークがエクスの足に合わせて、歩幅を狭める。

「世界で歴史的事件に暗躍し続けたという秘密結社だ。アトラス。西方でセフィロト製薬を隠れ蓑にしている。」

 アークの口から語られたのは突拍子もない組織だった。聞いたことがないから秘密結社なのだから当然だ。一方でセフィロト製薬といえば、ヤマトにもある有名な企業だ。アークの言う通り、主な活動拠点は西方だ。外国企業ながら、新卒募集でも見覚えがある。

「アトラスの幹部で顔見知りがいる。政治工作や買収などの搦め手交渉を得意としていて、時には隠密で実力行使を行う奴。そいつの手口によく似ているんだ。」

 アークが特定の人物を知っていた理由だ。歴史の陰に暗躍し続けているにしては、連続殺人と繋がらないように思う。

「そんな人たちがなぜ刀馬の知り合いを?」

 当然、エクスは疑問を口にする。刀馬を先頭にした歩みは、銀座通りからはずれた、別の開けた通りに来ている。

「最初の金貸しの奴は、手っ取り早い情報源だ。賭け事を通じて、旧市街の経済や悪事が何かしら入ってくるんだ。二人目の不動産屋は、旧市街では多少良心的な奴だ。旧市街の無秩序な改装に耳聡かった。今から行く居酒屋は、旧市街をまとめてる商会の中の一つだ。」

 刀馬は説明しながら、かなり大きめな建物の正面入り口に立つ。取っ手はなく、単純に押す入り口で、木製や硝子戸ではなく皮っぽい装飾仕立てになっている。

「エクス、お前を連れてきたいと思ってた店なんだがな」

 と、刀馬がゆっくり戸を押し開けると、途端に中から音が漏れてきた。悲鳴と銃声だ。だが刀馬は焦って開けず、ゆっくりと押し開こうとする力を抜いて、振り向く。

「尻尾、掴めそうか?」

「制圧は可能でしょう。情報を得るのは人数次第ですが。」

 刀馬の問いにまるで動じないアーク。防音された戸を隔てて、小規模とはいえ戦闘状況に陥っている。エクスにとっては入ってしまえば、初めての戦闘だ。

「ええっと、僕はここで待機しておいた方がいいですよね?」

「ああ、この人気のなさなら心配いらないとは思うが、一応外で人払いを――」

 アークは当然だろうと頷き、一応来た道を見回す。そうして言ってる間、来た道の銀座通り方面に車が停まったのが見えた。三人が車から降りて、路地に入ってきている。服装こそ観光客のような軽装だが、その手には銃がある。

「閣下、エクスを頼みます!」

「了解だ。エクス、行くぞ!」

 アークの呼びかけに応え、刀馬はエクスの腕を掴みながら、入り口の戸を肩で押し開く。

「ええ!?」

 エクスの悲鳴の後に、三人の立っていた場所が銃で撃たれる。刀馬によって引きずり込まれる最後の視界には、いつのまにか槍を携えるアークの姿があった。

 状況は目まぐるしく変わる。引きずり込まれた室内には、薄暗い照明があり、銃声が鳴り響いている。どこからか女性の悲鳴も上がっており、ただならない状況である。

「増援じゃない! 何だ!?」

 男の声が聞こえる。どうやら刀馬とエクスが入ってきたところは見られてないらしい。だが、増援と言っていた。襲撃者はこの建物の制圧に手間取っているようだ。

 刀馬とエクスは一階の客席の陰にいる。刀馬は様子を見に来た襲撃者の一人を見つけて、口元に人差し指を当てる動作をエクスに見せる。

「伏せてろ」

 刀馬の小声にエクスは返事をしようとするが、気付いて、口を両手で塞いで小さく大げさに首を縦に振る。刀馬はその動作に微笑む。

 そして、立ち上がりながら、持っていた傘を銃のように腰だめで持つ。

「何!?」

「バーカ」

 エクスには傘だと分かっているが、襲撃者はそれを銃器だと見間違ったらしい。

エクス自身は見ていないが、襲撃者が慌てて姿勢を低くしたところを、刀馬が傘で敵の頭を叩いた。そこでようやく敵は見間違いに気づき、反撃に転じようと銃を構えようとするも、刀馬はさらに敵の顔面を足の裏で蹴り抜いた。

「よし、付いて来い。敵の残りは恐らく二階だ。」

 刀馬に言われ、今度は引き起こされる。そこでようやく室内が分かる。おそらく旧市街ではかなり上等な部類の店なのだろう。円形状のソファーは映像でしか見たことがない。二階には螺旋状の階段で行くことができ、銃声も二階から響いている。

 倒れた敵の一人は、おそらく失神している。不幸なことに、蹴り抜かれた後、頭を硝子机にぶつけたようだ。だがそのおかげで、二階の襲撃者は一人がやられたことに気付いた様子はなかった。

 エクスの観察の間に、刀馬は階段を駆け上がり始めていた。距離が離れるといけないので、エクスもそれに遅れて駆けていく。すると、二階の階段の脇から敵の一人が現れる。戻ってこない者の様子を見に来たのだろうか。そしてこの敵、一階で倒れている敵や先ほど外で見た敵と違い、顔を目出し帽で隠し、都市迷彩服を着たそれなりの格好の敵だった。

「おい何を」

 敵は駆け上がってきたのが自分らの味方でないことに気付くのが早かったまでは良かった。敵が引き金を引いた時には、刀馬が銃器を傘で払いのけていた。明後日の方向に銃弾が飛び散る。

「ひゃああああ!!」

 びっくりするのは後をついてきたエクスである。悲鳴を上げて咄嗟に足を止め、頭を抱えてしゃがんでしまう。だから、刀馬のこの後の格闘戦は見ていない。

 刀馬は傘で銃口を逸らして、さらに距離を詰め、体重を掛けた肘鉄をみぞおち目掛けて突き刺す。

「ぎえっ!」

 敵はくぐもった声を上げて後ろに倒れる。

「もっと格闘しろ、格闘」

 刀馬は無茶なことを言いながら、倒れた敵の顔を踏みつけた。これでまた一人、のびて動かなくなった。

「さてこっちはと」

 今倒れた敵が出てきた方を見やる刀馬。その先は応接室という名の、実質的な店長室だ。途中、化粧室や従業員室もあるため、おそらく店員たちは奥の部屋で籠城しているのだろうと刀馬は考えていた。銃声はもう聞こえない。敵があと何人か判明していないし、ここから先一本道なことを考えると一層慎重な行動が必要になる。

 そこで刀馬の後方から物音がする。エクスがようやく追いついて来たのかと後ろを見やると、エクスはいまだに螺旋階段の中ほどでしゃがんでいる。入ってきたのはアークだ。彼の持つ槍の穂先が濡れしたたっている。建物内が防音であるため、どんな戦闘だったかは分からないが、どうなったかは一目瞭然だった。

「どんな状況です?」

 アークはしゃがんでしまっているエクスの肩を叩きながら、ゆったりと二階に上ってくる。

「静かになっちまいましてね。様子が分かりません。」

「なら俺が先を行きましょう」

 刀馬は廊下の一本道を親指で指差し、状況を伝える。これにアークは考えることなく即答した。

 刀馬もアークの無謀な提案を止めることはない。アークは一本道の通路へ無警戒に足を踏み入れる。その一瞬後、エクスの目線でもアークに銃弾が浴びせられたように見えた。アークの後ろの壁に弾痕が付いていくが、そのいずれもがアークに当たった弾丸ではなかった。

 アークの視点では、すぐ手前の部屋から半身を出した敵に撃たれていた。その銃弾は直撃コースがあったのに、なぜか当たらない。敵の位置を把握するとアークは踏み込んでいく。アークが距離を詰める間も銃弾は撃ち込まれ続けるが、彼に弾は当たることなく、全て何かに阻まれたように逸れていく。

 敵の目出し帽から見える目は信じられないものを見た目つきだった。開け放たれた扉から見える敵の数はその一人だけ。部屋の奥に女性だけが一塊になっている。どうやら女性従業員の控室であるらしい。一塊になっているのは、射殺されたであろう女性に皆集まって涙を流しているからだ。

「ダメだな、お前は」

 アークは短く言葉を発し、弾切れになった突撃銃を蹴り飛ばし、穂先とは逆方向の石突で敵の体を強打した。

「がっ!」

 敵は突き飛ばされて部屋の奥へと転ばせられる。刀馬の急所突きに比べれば弱い攻撃である。アークとしてはこれで十分だった。敵はもうアークしか見ていない。故に敵は後ろから近づくものに気付かなかった。私怨に駆られた女性従業員たちにより化粧箱やら何やらで私刑にされていく。

 アークは因果応報によって従業員たちに私刑される敵は見ず、残りの敵の数を把握することに努める。一人倒されたと気付いているはずだが、残りの敵は姿を現さない。臆病か、慎重か、こんな状況でも逆転の一手を狙う強者か、あるいはあれで最後だったのか。奥の開けられた扉まで三メートル程度。踏み込んで奥まで駆けるにしろ一秒はかかる。

 奥の部屋まで二部屋分。女性従業員部屋の隣の扉は閉まっていて、その隣の部屋の扉は開いている。どちらの部屋にも潜んでいる可能性はある。時間はかかるが、一つ一つ制圧していくしかない。

 一番奥の扉が開け放たれているのは、机のようなもので塞がれているからだ。刀馬の予想通り、奥の部屋で残りの人間が籠城戦をしているのだろう。

「おい、オッサンども! 襲ってきたのは何人だ!?」

 アークが奇襲を警戒していると、通路の安全を確認しつつ、刀馬が奥の部屋まで大声を響かせる。すると奥の扉の障害物の側でずっと待機していたのか、若い男が顔を出して叫んだ。

「よ、四人です!」

 泣きそうな裏返った返事をしてくる。アークはその情報で確信を得て、まずは閉まった扉の部屋から制圧していこうと、槍を構えた。その一瞬、閉まっていた扉が中から衝撃を受けてひしゃげた。

「ッ!!」

 舌打ちか、緊張の息を吐いたせいか、アークは声にならないものを発しながら、来た方向へと飛ぶ。その一瞬後、閉まっていた扉が無理矢理吹き飛ばされる。

「がああああああ!!」

 咆哮と共に姿を現したものは辛うじて人型を留めた、大柄では済まされないほど巨大化した肉の塊だった。

 明らかに体型がおかしい。咆哮を発している口は通常の人間の顔で、体の肉に埋もれそうだ。腕や足は異常なほどに肉が盛り上がり、歩いたりするのが不思議なほどだ。

「おいおいおいおい!」

 刀馬は姿を現した化け物に声を上げる。

「エクス、見ているな!? これが【魔人化】した人間だ!」

 アークは後ろを見ずに、通路の様子を伺っているだろうエクスに言う。

もちろん彼の言う通り、エクスは曲がり角で通路の様子を見ていた。突然姿を現した化け物に、悲鳴こそ上げなかったものの、腰を抜かしていた。

 アークの言う通り、化け物は魔人化していた。目標を発見して始末するだけの任務を請け負い、開店前の店を四人で襲撃した。しかし、店側が押し入った四人に異変を感じ取り、早々に籠城の構えをとってしまった。増援を要請したものの、アークたちに鉢合わせし、全滅してしまった。進退窮まった残りの一人が、魔人化用薬物を自分で投与したのだ。

 だが魔人化で行える変異は予測がつかない。それに加えて、化け物になった生き残りは投与直後に人としての意識を失ってしまっていた。ここから、現在質量を無視して巨大化するかもしれないし、急にしぼんだりするかもしれない。魔人化による急変は見慣れているアークでも、今後の予測がつかない。敵は通路を完全に塞いでしまっている。どう変容するかにもよるが、行動しないままでいれば、状況は悪くなるだけだ。

(貫けるか?)

 敵が肉の化け物となっているとはいえ、人型である。心臓が健在であると考えれば、そこを狙うのが当然だ。だが、槍が脂肪を貫いて心臓まで届くか確信は持てない。

「刀馬!」

「おうよ!」

「あの時! 壁にやったみたいにできないかな!?」

 アークが決断に迷っていると、エクスが刀馬に声を掛けている。内容はアークには図りかねる。

「お前、怖いこと思いつくね!」

 刀馬は後ろをちらりと振り返って苦笑した。その言葉でアークにも合点がいった。刀馬は才賀勇太から拳法を学んでいる。才賀の一族に伝わる独自の拳法で、気功なる魔力とは違う力を使い、破壊力や衝撃力を増加させる不思議な体術だそうだ。だが理屈的には魔力とさほど変わらないそうで、人間のもつ微量な魔力を破砕か衝撃かで使い分けて発動させるという理屈であるらしい。

 その力であれば、わざわざ貫通せずとも、魔人化している魔力も逆に利用して、破壊力を心臓に伝えることができる。そんなことをして結果どうなるかは想像を絶するが、直接貫通攻撃を仕掛けるよりも成功率は高そうだ。

「ってわけだ、アークさん。こいつの気を引き付けられますかね?」

「問題ありません。だが一発だけです。やれなければ、対応してきます。」

 魔人化は人間の魔力の異常増加が原因だ。魔力を制御しようという反応に身体がついていかずに体機能が暴走する形だ。そのため、外的要因に対しても過剰反応をしてしまう。致命傷に至らない攻撃を受けると、それに対応しようとさらに異形化が進んでしまうのである。一発で仕留めなければ、次は通じにくくなってしまうのだ。

「大丈夫。俺の力なら、加減せずとも効果は発揮できます。」

 ここでの刀馬はいい加減なことを言わずにはっきりと言う。そして、目を閉じ、腰だめに構えを取る。

「ならば」

 アークは短く言う。その時、エクスの目でも、アークの目の前に急に現れる人型の鎧を見た。それはアークに銃弾が当たらなかった正体である。アークの持つ槍と同じ蒼い色をした鎧の何かは、アークの動きに合わせて攻撃態勢を取った。

 化け物は目の前で動いたアークに反応して鈍重な拳を繰り出す。それを避けるのは容易そうだが、アークはあえて鎧に受け止めさせた。アークの鎧は化け物の力など物ともしない。再び鈍重な動作で拳を繰り出すものの、まるで物ともせずに受け止めてしまう。

「行けますか?」

「当然っ!!」

 化け物の注目は完全にアークの方に向いている。その簡単な仕事をこなしたことを確認し、アークは化け物の意識外となった刀馬に同意を求める。刀馬の方は、行動が返事とばかりに、アークの鎧の陰から化け物の体へと距離を詰めて、右の拳を体の中央に叩きつける。化け物の脂肪はかなり柔らかそうで、刀馬の拳が沈んで見えなくなるほどであった。

 たわんだ脂肪は刀馬の攻撃をはじき返し、彼はアークのもとまで後退してしまう。通じなかったのか?という一瞬の間の後、肉の頂点にある顔から、赤黒い液体が吐き出される。

「バルケルの後ろへ!」

 アークは刀馬に後退するよう促す。バルケルというのは鎧の名前のようだ。彼の言う通り、バルケルの陰まで後退していると、化け物の体のあちこちが水膨れのように膨れたりしぼんだりを繰り返す。風船のように破裂するのかと思いきや、空気がゆっくり吐き出されていくかのような音と共に化け物はしぼんでいき、後には胸が潰れた、干からびた人間だったものが廊下の中心に残された。



 生きている襲撃者は後ろ手で縛り、一纏めにしてアークが一階へ。女性従業員の部屋で私刑を受けた傭兵は顔が腫れ上がった状態で死んでいた。外でアークに倒された増援も含めて男性従業員が始末をつけに行く。こういう場合、だいたいは埋めてしまうそうだ。ヤマト本土であれば死体遺棄で罪に問われるだろう。だが、ここは大陸である。罪に問う仕組みがない。何より警察的立場にある天剣組が、そういう後始末に何も言わないのだから問題になるはずがなかった。

 さて、店の奥で籠城戦をしていた店長は、当然のように拳銃を机に置き、疲労困憊で高そうな椅子に座り込んだ。茶色の上下と桃色のシャツを着た色黒の男だ。おそらく染めているのであろう金髪を短く刈っており、爽やかには見える。一方で、耳は何個も穴を開け、耳飾りがかなり多い。その恰好から若そうには見える。

「もちろん、狙われる理由なんて思い当たらないよな?」

 そんな店長の男に刀馬は机に座って質問する。

「ある」

 男はため息をついた。

「昨夜、新市街の連中がやってきた。羽室市長をもてなせ、金ならある、とな。あからさまな新市街の連中は金を持っていても願い下げだ。追い返してやった。新市街の遊び人には遊ばせて、俺らはダメとか捨て台詞を吐いてた。ここ最近、旧市街に見覚えのない奴らがトーマのことを聞いて回ってるっていう話があった。だがこいつらじゃないだろうと油断してたぜ。」

「市長と一緒にいた奴で、赤づくめの丸眼鏡の奴はいなかったか?」

 刀馬は具体的な人間のことを聞くと、店長の男は目を丸くした。

「よく分かったな。お前、市役所とトラブってんのか?」

「あっちが突っかかってるみたいなもんでな。だがようやく手掛かりは掴めた。」

 刀馬は机から降りて、感謝の意を表する。

「生きてる奴らは天剣組の方に連れてくが、いいな?」

「とっとと持って行ってくれ。今日は商売上がったりだ。」

 店長にとっては頭の痛い話だろう。壁に弾痕が無数に付いたり、犠牲者も出ている。厄介は少ない方がいいという態度だ。

「行こう、エクス」

 一連の会話を黙って聞いていたエクスを促し、刀馬は店長室を後にする。そして、一階で待機しているアークと合流する。捕まえた襲撃者を連れて退店し、外に出る。外は日が傾き、空が赤くなっている。

「昨夜この店に市長が取り巻きと来たそうです。こいつらの装備といい、市長と一緒にいた奴といい、決まりでしょう。」

「やはり持明院彼方じみょういんかなたか」

 刀馬は襲撃者を連行しながら、アークに情報を渡す。アークの方は予測していた人物と合っていたようで、エクスの知らない姓名を出した。名前からしてヤマト人のようだ。

「それが例の組織の幹部ですか」

「アトラスでは実力派だ。口八丁で地主に近づき、その土地を奪い取る。必要であれば、実力行使も厭わない厄介な手合いだ。」

 エクスはアークが言っていた幹部のことだと早くも察した。アークは頷き、説明する。話していると、銀座通りに出られる。襲撃者たちの増援が乗ってきた上部が開いている車は鍵が差しっ放しであるのに放置されていた。移動手段が残されているのは不幸中の幸いだが、結局、旧市街がこんなにも静けさに包まれている理由が不明だった。

「最近運転練習してるんだろ? 運転してみてくれよ。」

 アークが当然のように生き残りと一緒に後部座席に乗り込み、刀馬も助手席に乗り込もうとしている。刀馬がエクスに運転を促してくる。

「日が落ちる前にサロンに辿り着ける気がしないんだけど?」

「日が変わってもいい。事務棟まで走らせろ。」

 一応、自信がないことは伝えるが、後部座席に乗り込んだアークは天剣組基地までの走行を求めてくる。

「了解です」

「あれー? 俺、総督なはずなのに、なんでアークさんの言うことは素直に聞くのかなー?」

 アークに言われ運転席に乗り込むエクスに、刀馬は意地の悪いことを言ってくる。エクスは連動器を踏んで、つけたままの鍵を回し車両機関を始動させてから、ベルトを締める。

「なら総督閣下、ベルトは締めてくださいね」

「頼むぜ、運転手」

「調子いいんだから」

 刀馬がいきなり子供みたいなことを言い出したり、駄々をこねてたりするのは、彼なりの切り替えの合図だ。つまりここからは一端あれこれを忘れて、運転にだけ集中しろということである。

 エクスの言う通り、ベルトを締めた刀馬。エクスは変速機を動かして、まずは銀座通りを抜けられるよう運転を始めた。



 あの後、日が変わる前には事務棟に辿り着けていた。襲撃者の生き残りは成実副長とアークとに連れて行かれた。エクスは新市街を出たら、緊張も抜けて走りやすかったとはいえ、疲労困憊であった。

 サロンに出入りし仕事に慣れていく内に、団長室で寝泊まりする日は少なくなった。基地からサロンまで運転練習したり、新市街への買い出しに相乗りするのが面倒だったのだ。だから、正直言えば物置の寝床に早く入りたかった。

「報告してみろ。茶は淹れてやる。」

「あー…はい」

 と、刀馬がいるから出迎えた来人が言ってきたので、眠気を押して返事した。

当然の如く、刀馬も一緒に団長室に入ってしまう。来人はなぜか部屋を明るくせず、机と流し台の電灯しか点けなかった。夜分遅い時刻、団長室に煌々と明かりが付いているのを嫌がるような繊細な人ではなかったはずだが。

「俺、ここに入るの久しぶりなんだよ。いいなぁ、エクスは!」

「そうかな」

 入所がこの部屋なので、ありがたみを感じたことはない。刀馬が感激しているのは多分別のことなのだろう。

「どうでしたかな、エクスのほうは」

「いやぁ、危なっかしい。死体見て吐いちゃったしな。」

 来人は三人分のお茶を用意しつつ、質問をする。刀馬は即座に答える。エクスは思い出して顔をしかめる。今からでもまた吐けそうだ。

「戦闘にはそもそも役に立たない。今回、アークさんと一緒で助かりました。」

「そりゃそうだろう」

 刀馬は正直に答え続ける。嘘をつく気とか、かばおうという気もないらしい。

来人のほうも期待はしていなかったようだ。ある種、正当に評価されていると言うべきだろうか。

「対して、観察力は優れている。覚えがいいですしね。魔人化した奴相手に気功拳を貫徹させようなんて考えを持ってます。」

「ほう。無茶な提案をする。」

 刀馬は次に褒める。エクスとしては苦し紛れの思いつきだったのだが。

来人はゆっくりと茶葉をお湯に通しながら声の感情が上がる。

「無茶、ですか?」

「魔人化すると魔力の自己生成がだいたいは制御を失う状態になる。もしも体内に魔力が貯められていた場合、例の拳法だと何が起こるか分からない。…ということを前に聞いた。」

「だから俺は、怖いことを思いつくな、と言った」

 聞かされて、エクスはうなだれる。もっと早くに言って欲しかった。

刀馬は軽く笑っているが、よくも彼も乗ってくれたことだ。

「それでは今度はお前本人に聞こう」

「え?」

 来人は三人分の茶を淹れてきて、盆から机に移す。そして彼は二人の対面の椅子に深く座って聞いてくる。刀馬が語った通りなので、あえてエクスから何も言うことはなく、当惑する。

「あれはアトラスの兵士だ。尋問したところで大した情報は吐かない。だがやらないわけにはいかない。そして今後、アトラス絡みの依頼もサロンに持ち込まれるだろう。ここから先、危険なことになるぞ。踏み込めるのか、お前。」

 エクスはがっつりと関わってしまっているというのに、来人はエクスの逃げ道を用意していた。刀馬も一緒にいるからやろうと思えばできるのだろう。

 だがこの時のエクスは逃げることを考えていなかった。あくまで仕事の範疇でやることをやるとしか考えていなかった。つまり、今後のことをあんまり分かっていなかったのだ。

「大丈夫ですよ。そりゃ戦闘には役に立ちませんが、運転ならなんとかなりそうですし。」

「ふむん。ま、それならいい。」

 来人はその答えに満足したのかしていないのか曖昧に答える。そしてお茶を飲み始めたので、ようやくエクスと刀馬もお茶を飲んで一服つける。

 だが、エクスは口にして渋い顔をしてしまう。お湯が熱いのではない。いきなり濃い目な苦みが口に広がったのだ。

「ちょっと団長これ、濃すぎませんか?」

「いんや。わざとだ。」

 前述した通り、来人はお茶の淹れ方に拘りを持っている。茶葉の濃度と計算した冷まし方を副長やアークにもやらせている。それがなぜかは分からないが。

「今回ばかりはお前にも薄味な仕事じゃなかったはずだからな。まぁ、祝い代わりだ。飲み干しとけ。」

「まったくもう」

 来人は苦笑しながら意味を説明する。だからエクスは顔をしかめながらお茶を飲み干さなければならなかった。口にはしなかったが、余計なお世話だ、と思ってもいた。

「それじゃあ今日は休め。明日の朝、刀馬を総督府まで送る。俺も所用があるから付いて行く。乗り心地を試させてもらおう。」

「ごちそうさまでした。んじゃ、エクス、おやすみなー。」

 上司と総督はエクスの内心をこれっぽっちも察することなく、それぞれ言う。刀馬はエクスの肩を叩いて、一人で退室する。完全に使い勝手を知っている態度だ。

「ゆっくり寝ろ」

「おやすみなさい」

 来人は短く言って、流し台の電灯を消しに行く。その言葉にこの時は意味を理解していなかった。エクスは礼儀として返事し、物置部屋に入って、倒れ込むように寝床に入る。もはや着替えすらも億劫だった。

 沈むように目を閉じて、すぐに意識は暗く落ちる。

エクスはすぐに何かを見た。それが夢だったか、その日起きたことの繰り返しだったかはさだかではない。ただ、その夢のせいで目が覚め、また眠ると目が覚めるを繰り返し、食堂が開く時間に起きると、まるで寝た気がしなかった。



「何だその目」

 基地の正門で、昨日乗ってきた車で待つエクスに、刀馬はそう声を掛けてきた。エクスはいつもと違い気だるげで、目も半眼だ。

「眠れてないんだろ」

 刀馬の後ろから来人がやってくる。並ぶと、来人の小柄さが目立つ。

 それはともかく、エクスは来人の言う通り、眠れてない。眠れたのはほんの少しだけで、昨日の戦いの光景が頭に蘇って目が冴えてしまったのだ。今でも眠いが、正直目を閉じても眠れる気はしない。

「まぁ、居眠り運転はせんだろ。乗れ。」

「はぁ。寝たかったらいつでも言えよ。代わってやる。」

 来人は当然のように助手席に乗り込むが、刀馬は昨日とは打って変わって優しい言葉を掛けてくる。

「運転? 刀馬が?」

「バカにすんな。王魔の皇族にできないことはほとんどないぞ。」

「うん、でも恐れ多いから大丈夫」

 エクスはもちろんバカにしたわけではない。むしろ感心したのだ。そして、慣れてきたとはいえ、王魔刀馬が皇族であることを思い出す。流石にその分は守らなければならないと、エクスは思い直す意味でも答えた。

 昨日と違い緊張感は薄くなったものの、代わりにぼーっとする頭で運転席に座る。刀馬は後部座席に。昨日と同じ動作で車を動かす。

「獅堂さんって、何で運転ダメなんです?」

 ゆっくりと車を動かすエクスの後ろで、刀馬が聞いている。

「あー」

 質問された来人は歯切れが悪い。

「直感的に操作できない類のものがダメなんだ。初めは二輪の免許取ろうとしたんだが、起動操作の時点でダメだった。それ以来、乗り物の類はいつも運転してもらってる。あと、パソコンって奴もダメだ。ネットワークウィザードって奴には尊敬するよ。」

「機械音痴ってわけじゃないんだ」

「お前んとこの勇太は、どっちかといえば機械音痴だろ」

「そう! まぁ、音痴というか脳筋なんだ、あいつ!」

「勇太の師匠のほうがなんでもできるせいかな」

 刀馬が身分違いを気にしないせいか、あるいは来人がエクスが思うより尊敬できる人間であるせいか、話ははずんでいる。エクスはほとんど聞いていない。運転している緊張感からではない。起きていたいのと眠りたいのとの境界線を彷徨っているからだ。であるからか、妙に集中できていたのだ。

 総督府は新市街中央通りをまっすぐ。間違いはしないが、退屈な道のりだ。今後、回り道しても刺激になる道のりを模索してもいいかもしれないと思い始めていた。

 そうこうしている内に総督府前にたどり着く。当然だが、刀馬が壊した壁は少しだけ真新しい壁になって直されている。直ったのはかなり前だ。

 そんな壁際、正門の側に自己主張の強い赤い服装の長身の男がいる。おそらく総督府の人間ではないだろう。エクスは見たことがない。

「お前、何やってんだ?」

 来人は助手席から降りて、刺々しく言う。すると赤い服の男は、掛けていた日光避け色眼鏡を外して不敵に笑う。

「こんなところで、よくそんな恥ずかしい格好できるなって言ってるんだよ」

 来人の毒に、相手の男は肩をすくめてため息をつく。

「私は羽室市長のことで総督に話をしに来ただけだ。君に話をしにきたわけではない。」

「そうかい。俺はそろそろ出てくる頃だろうと思って総督府に来たんだ。丁度いいなぁ、えぇ?」

 来人は今までになく感情的だ。敵意を隠していない。エクスも刀馬も車から降りて、男と向かい合う。

「誰?」

「話したろ。こいつが例の持明院彼方ってヤツ。」

 エクスが小声で聞くと、刀馬から小声で返ってくる。

「羽室市長とどんなご関係でして?」

 昨日の一件で分かってはいるが、刀馬は白々しく質問をする。彼方という男はそれに気を悪くした様子はない。

 妙な雰囲気である。相手は明らかに敵である。その敵が話をしに来ているという。来人はだからこそ睨みつけているのだろうか。それにしても所用があるから、ついて行くと言っていた。この男が総督府に来る確信があったのだろうか。

「大陸鉄道開通にあたり、連邦諸州の商業契約の話を持ち掛けていました。我々は商売にあたって反発が予想されるであろう、旧市街への話し合いを努力しました。しかし、理解を得られず、市長にも彼らを説得する能力がないと考え、手を引こうということになりました。」

 物は言い様である。もっとも、昨日の今日で、撤退宣言というのもエクスからしても勘ぐってしまう。ほかの二人も信用ならないようだった。

「それだけじゃないんだろう?」

 来人はにらむのをやめない。どんな恨みや憎しみがあるのだろうか。

「私と私の所属する組織は完全に西京市から手を引く。が、市長にはこれまでツテのある商人や傭兵を紹介した。これらは我々の差し金ではないということを言い訳させてほしい、ということだ。」

 なるほど、事実上の撤退宣言に違いない。少なくともエクスからすれば信用するほかない。だがそうなれば当然疑問も湧くし、憶測もできる。

「あんたら関係ないのは分かったけど、市長がなんであんたらと繋がってたの。そもそも市長が総督府に敵対的になったのは、あんたらのせいだったりしない?」

 エクスは昨日の一件が彼方のせいだと考えると、途端に眠くなった。眠くなったせいか、言葉がぶっきらぼうになっている。あまり自覚はしていない。エクス自身は敵の傭兵を倒してはいないが、戦闘の恐怖で心に圧力を感じていた。だが、傭兵を襲撃させた主が彼方と分かると、心の荷が下りた。エクスは知らず知らずの内に見えない敵と頭の中で戦っていた。それは妄想や思い込みの類だが、相手の顔が分かるだけで、幾分かマシになった。

 彼方からしてみれば、若い運転手が暴言同然に言葉を投げて来たからか、エクスを見て一瞬言葉に詰まる。

「君は?」

 上手い答えを探す時間稼ぎだろうか。見知らぬエクスに対して正体を聞いてくる。だがエクスはそれに答えるつもりはなかった。彼の名前は知っているが、彼は名乗っていない。だから、エクスが名乗る理由はない、と暴論を決め込んだ。今までにはない思い切りぶりだが、眠いので気が立ってきたのである。

「僕のことはいいよ。質問に答えてくれ。」

「失礼だな、君は!」

 名乗りもしないのに一方的な質問をするのか、と彼方は憮然とする。エクスとしてはそんな理屈を聞きたくはない。エクスもまた彼方に敵意を持ち始めていると、来人がエクスを手で制して、一歩前に進み出る。

「お前は詰めが甘いんだよ。だから、こんなペーペーの新人にすら舐められる。」

「何」

「もう行きな。これ以上は関係ないんだろ。それともこの距離で俺とやり合うつもりか?」

 にらんでいた来人は一転して笑う。どちらかといえば嘲笑だ。何も知らない奴からも要点にツッコミを入れられて、すぐに上手いことを返せない馬鹿とばかりに笑っている。そして男が怒気を露わにすると、来人はすぐさま脅し返す。すると、彼方はかすかに体を震わせて、身体を引いた。彼からしてみても、獅堂来人の剣術は恐ろしいのだと分かる。

「ではな」

 鼻を鳴らし、日避け眼鏡を掛け直して、早足で彼方は総督府を逃げるように歩き去る。その姿の見送りも半ばに、刀馬は息を吐く。

「ちょいと緊張しました。あと、びっくりしました。」

「そうだな。よくやった、エクス。」

 額の脂汗を拭う刀馬。それに来人は頷きながら、エクスに微笑む。

 ただ残念ながら、エクスは彼方の勢いを挫いていたことを自覚していない。

エクスとしては質問に答えられず逃げたようにしか見えてない。

「結局あの人、何しに来たんですかね」

「カッコだけつけに来たのさ」

 エクスが愚痴っぽく漏らすと、来人は肩をすくめた。

「おかげで用事は終わった。どうする、刀馬。」

「今後の対策を検討しましょう。まぁ、エクスが休憩してる間に?」

 彼方がいなくなって、一気に和やかになった。それでもエクスは眠かった。

刀馬の厚意で総督府に入り、恐れ多くも刀馬の寝室で眠りに入ってしまった。

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