森に埋もれた百観音

駅員3

百観音

 先日北八ヶ岳に行く途中、面白いものを発見した。東京からは中央自動車道を須玉までくだり、国道141号線を北上する。この国道141号線は、昔の佐久甲州街道にほぼ重なる。

 佐久甲州街道は古来甲州往還と呼ばれ、甲州街道韮崎から須玉を経て平沢峠を越え信濃に入る。八ヶ岳連山の東山麓を、千曲川沿いに中山道岩村田に、更に北上すれば北国街道小諸に至る道だった。

 中世以来東海道筋の人々の善光寺参りの道であり、逆に富士講や伊勢講の旅人が行き交う高原の道で、茶・塩など食料から材木を運ぶ物資輸送の大切な道でもあった。

 さらに、戦国時代には、武田信玄の信濃攻略の極めて重要な軍用道路として利用されたりもした。


 国道141号線は年に数回は通る道だが、今回須玉インターを降りて北上すると、道の駅『南きよさと』の手前の山側の斜面が今まで杉林だったところが伐採されて、丸坊主になっているところがあった。

 運転している視界に、一瞬だったが丸坊主になっている斜面に巨大な庚申塔のようなものが、一瞬見えた気がした。非常に気になったが止まる場所もなく、そのまま車を走らせて、一路しらびそ小屋へと向った。


 しらびそ小屋から天狗岳を経て降りてくると、登山道入り口に止めていた車へと戻ってきた。帰路はもちろん来た道と同じ道を走ることにした。

 今度は注意しながら走ったので、すぐにそれは見つかった。道路山側には、高さ2m位はある石積みの擁壁が道沿いに続いている。その擁壁の上に続く斜面は、木々が伐採されて裸になっており、何やら大きな墓石のような四角柱がポツリと立っているのが、はっきり確認できた。

 早速邪魔にならないところに車をとめて擁壁を登って斜面を進んでいくと、それはあった。近づいてみると、高さは1.5mはあるだろうか、かなり大きく立派だ。碁盤が二重に重なったような四角い基壇部分の上に蓮の花がのり、その上に太く立派な直方体の石標がたっている。正面中央には、大きく百観音と印されていて、上部には三面の観音菩薩像が刻まれている。


 向かって右側には建立された年月が刻まれていた。『嘉永3年9月吉日』とある。

嘉永3年といえば1850年、今から170年近く前ということになる。

 左に回ると『箕輪村 発起人』と記され、三人の名前が記されていた。

 幕末に近い嘉永年間は、ペリー提督率いる黒船の来航があったり、歴史に残るような大地震が続き、まさに世の中は大激震の時代だった。そんな中、箕輪村の有志がこの百観音を建立したようだ。

 百観音とは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の総称で、全て回ると百観音となる。

 江戸時代、これら全てを回るのは並大抵のことではなかっただろう。発願人が三人いることから、三人で手分けして回ったのだろうか?

 いずれにしても百観音の巡礼を達成しての石塔なのだろう。ただ残念なことに、手入れをされている形跡はなにもなく、伐採されるまでは杉林の中に埋もれていた。ここにお参りする人がいれば、自然と道ができて、石塔の前など踏み固められていることだろう。

 石塔の前は落ち葉が積もってふかふかの状態で、地元の方々がお参りしていた形跡は何も無い。


 上部に刻まれている三面観音菩薩には8本の腕があり、正面を向いている顔は憤怒の相を、向かって右側は悲しみ溢れた顔をしているように見える。左側は穏やかな顔をしているようにもみえるが、心なしかなにか哀愁を帯びた表情に思えてならない。

 三面の仏像といえば、興福寺の国宝阿修羅像が三面六臂の仏像として有名だが、その表情は謎に満ち、見る人の心によって、その表情の解釈が異なるという。

 この観音菩薩のそれぞれの顔は、いったいどういう意味を込めて作られたのだろうか。おそらく百者百様の答えが出てくるのだろう。


 だれも訪れることのない山の斜面中腹に、このまま、また雑草が生え、木が生い茂って山の中に埋もれていくのだろうか。

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