知らなかった景色

佐山千夜

第1話

 結婚を機にこの街へ越してきた。埼玉県内のよくありそうな地方都市、所沢。東京への便が良く、池袋なら20分、新宿なら30分程度、それぞれ電車1本で行ける。贅沢を言わなければそれなりに楽しめる繁華街に、大抵の必需品は難なく手に入る商業施設の多さ。郊外へ行けば結構な自然が残っているし、街中の緑も意外と多い。


 住むのに不満はない所沢は、しかし、特に魅力もない退屈な街に思えた。子供はなく、まとまった休みがあれば夫婦二人で旅行を楽しむ。日光での滝めぐり、草津や箱根の温泉。京都・奈良で歴史と親しみ、北海道や沖縄にまで足を延ばすこともあった。広大な自然、珍しい景色、美味しい食事など、普段の生活では味わえない体験。気軽な日帰りなら、恋人同士の頃から定番の池袋へ。水族館とプラネタリウムを一緒に楽しむコース。楽しい休日を過ごすなら、所沢以外の場所へ出かけるのが常だった。


 そんな生活が10年近く続いた後、私は遠出の楽しみを失う。めまいが起きる耳の病気になったからだ。友人に会おうと遠方まで電車で出かけたら、発作が起きて駅で倒れた。とりあえず駅員室で横にならせてもらったが、救急搬送されるにも自宅へ帰るにも、また乗物に乗るのは同じ。家に帰りたい、でもこれ以上身体が揺れるのはごめんだ。矛盾する気持ちがめまいと一緒にぐるぐるする。これ以降、自宅から遠い場所には行きたくなくなった。


 体調を整えて注意すれば、普通の生活ができる位には回復する病気だ。病院に通い、医者の指示を守り、症状は次第に治まっていった。でも、遠出を厭う気持ちはなぜか強まっていく。外出中に発作が起きるかもしれないと思うと、自力ですぐに帰宅できる所までしか安心して出かけられない。以前のような休日を過ごしたいと思っても、移動時間の長さや人混みに対する不安から気持ちが削がれていく。


 楽しみだった二人での遠出が出来なくなったが、優しい夫は何も言わない。ただ私の体調を気遣い、見守っていてくれた。外出をしない代わりに、自宅のベランダから景色を見ることが増えた。マンションの高層階に住んでいるので、眺望はそれなりに良い。


 春先には薄桃色の綿あめのような桜の点在が見える。いつの間にか新緑の萌黄色が輝き始め、盛夏にはむせかえるような濃緑に。秋になると紅葉に色付く木々が随所に見渡せる。こうやって改めて眺めてみると、実は季節ごとになかなか味わいのある景色だと気づく。

 街中の木々が、私の心を少しずつ癒してくれていたのかもしれない。沈みがちだった気持ちがだんだん浮上してきているように思えた。駅で発作を起こしてから1年以上が過ぎて、季節は丁度、春になろうとしていた。


「夜桜を見に行かない? 東川沿いの桜がライトアップされていて、綺麗だよ。」

 夕食を終えた後、夫からそう誘われた。職場からの帰宅途中で寄り道をした時に、偶然見つけたのだそうだ。桜を見る機会は毎年のようにあったが、大抵は日中の自然光の下で、夜に見た記憶はほとんどない。歩いて行ける距離だったので、早速二人で見に行くことにした。


 不思議な物語の世界に迷い込んだのかと思った。

 川を両側から挟むように続く見事な桜並木。それを下から美しく照らすライトの光。白とピンクの提灯が木々の間に連なって吊り下げられ、川沿いを飾っている。明るい光が作る濃い枝影に、優しくぼんやりした色合いの灯りが幻想的な雰囲気を添えていた。散り始めた花弁が所々に流れる川面。その合間に見える水面に映った桜の影。

 こんなにも素晴らしい景色が、この街にあったなんて…!


 圧倒されてしばらく身動きができなかった私は、思い出したように夫の方を見た。

 柔らかい提灯の灯りに照らし出されて、静かにほほ笑む顔が見える。

「遠くに行けなくなったなら、近くで楽しいものを見つけようよ。まだ知らない、見たことのない景色を、これからはこの街で探していこう。」

 そうだ、ベランダから見える木々の美しさに気づかなかったのと一緒だ。

 まだ知らないだけで、感動する景色はこんなに身近にあったんだ。


 旅行はもうしなくてもいい。都内で遊ばなくても、この街を充分楽しめばいい。湖畔の雑木林が四季折々の美しさを添える狭山湖。ドラマ撮影などもよく行われる、絵になるような絶景の比良の丘。昔の農村に入り込んだような里山の風景、菩提樹池。他にも豊かな自然や胸を打つ景色を堪能できる場所はたくさんある。航空公園には発祥記念館もあるけれど、広い園内の緑にも癒されるし、そこで開催される様々なイベントがなかなか楽しい。醤油味の焼き団子はもとから好きだったが、それが名物で、店ごとに特徴があることなんて知らなかった。


 この街との付き合い方が変わってから5年。地域活動へ参加もするようになった今、以前より充実した日々を送っている気がする。近所のイベントの準備などを手伝うと、そこで一緒になったメンバーと仲良くなる。屋台テントの内側から見る子供たちの笑顔に、こちらも嬉しい気持ちになった。スタッフ腕章をつけて作業をしていると、知らない人からも労いの言葉を掛けてもらえたりする。普段から街中であいさつを交わす人が増えた。以前の私には見えていなかっただけで、この街にはキラキラした宝物がいっぱいある。


 これからもこの街で、私のまだ知らない景色を見つけに行く。

 これからはこの街で、私も一緒に新しい景色を作っていく。

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