5-3


 秋山が亡くなってから、一年も経たないうちだった。こちらから何度かけても応答されることのない電話番号から連絡があったのだ。それだけでも滅多なことでは動じないはずの私の心臓が飛び跳ねていたが、その電話が幼い少女からのものだと分かった時はさらに驚いた。母親が帰らない日が二日続き、困り果てた少女は家の着信履歴をたどって私に助けを求めてきたのだった。


 すぐに秋山の家に向かった。私とは正反対に秋山は整理整頓を徹底する男だったが、久しぶりに訪れたその家は見る影もなく荒れ果てていて、突然失踪した悠香さんが正気でないことはよくわかった。私はましろを一旦うちで預かることにし、悠香さんの捜索願を警察に出した。





 幸いにも、数日後深夜に警察から連絡があり、彼女が無事だということがわかった。


「ああ、無事でよかった。本当にありがとうございます。今からそちらに向かいます」


『それが……秋山さん、家には帰らないと言われていて』


「え?」


『直接お話しいただいてもよろしいでしょうか』


 警察が悠香さんに代わる。悠香さんは何度もごめんなさい、と繰り返した。


「大丈夫、大丈夫です。そんなことよりお願いだから早く帰ってきてください。ましろちゃんもずっと待ってますよ」


『……早川くん。ましろを助けてくれて、本当にありがとう。でもやっぱり私は帰れない。今は薬を飲んで、意識がはっきりしてるから、すべて伝えます』


「薬? 悠香さん、今どこにいるんですか」




『私は、若年性パーキンソン病なの』




 一瞬、何のことか分からなかった。電話越しに聞こえる言葉には、何重にもフィルターがかかっているような感覚だった。それは途方も無い時間に感じられたが、実際は時計の秒針が三歩ほど進んだくらいの時間だっただろう。ようやく言葉の意味が飲み込めて、はっとましろの方を見た。彼女は今日も寝室には行かず、リビングのソファで眠っている。決して寝心地は良くないのか、幼い少女には似つかわしくないクマができてしまっていた。それでも寝室で一人で眠るのは怖いらしい。


 私が返す言葉に迷っているのを悟ってか、悠香さんの方から話を続けた。


『八年前にはもう病気だと診断されて。洋二さんからのプロポーズも、本当は一度お断りしたんです。私は一人で生きていくつもりでした。でも病気のことを話したら、それならなおさら一緒にいたい、どんな病気だとしても僕が絶対に幸せにしてあげる、って』


「もしかして、あいつが共同研究のことを持ち掛けて来たのは……」


『きっとあの人、私を救おうとしてくれていたんだと思う。本当に、本当に、優しい人だから』


「そんなこととは知らず……私はあの日、あいつを追い詰めてしまいました。あいつが死んだのは……」


『自殺なんかじゃない、私はそう信じてる。だから、早川くんも自分を責めたりしないで。ああ見えてあの人、早川くんと喧嘩をした日が一番生き生きしてたから』


 その一言を聞いて、秋山の死からずっと胸の中に澱んでいたものがすべて洗い流されるような気がした。私が待っていたのはこの言葉だったのだ。悠香さんから告げられたかったのはこの言葉で、彼女の病気についてなんかじゃない。


「それならなおさら帰ってきてください。私で力になれることは何でもやる、って言いましたよね? ましろちゃんにはあなたが必要なんです」


『そう言ってくれて、嬉しい。けど、ましろのためにも、私はもう帰るわけにはいかないの』


「なぜです?」


『早川くんなら分かるでしょ? パーキンソン病は、いずれ自分の意思で自由に動けなくなり、認知症のような症状も併発するかもしれない。そうなったら、きっとましろの大事な人生を奪うことになる。……親として身勝手なのは分かってる。でも、あの子には強く、自由に生きていてほしいから。私はあの子に恨まれるくらいがちょうどいいのよ』


「そんなこと言ったって! じゃあましろちゃんはこれからどうしていけばいいんですか」


 悠香さんはしばらく口をつぐんでいた。あまりにも静かなので、電話を切られてしまったのかと思ったくらいだ。やがて、彼女が小さな声で囁く。


『無理なことを承知でお願いなんだけど、早川くん、引き取ってもらえないかしら? ましろは洋二さんに憧れていて、将来あんな学者になりたいって言ってたんです。だから、早川くんと一緒にいることが一番その近道だと思うの』


 何を馬鹿なことを。私がそんな風に他人の面倒を見るような人間じゃないことくらい、秋山から十分聞いているはずだ。私が息荒くそう返すと、悠香さんはくすくすと笑って言った。


『面倒見が悪いなんて嘘でしょう? 洋二さんから聞いたのは、落ち込んだり不安な時はすぐ早川くんに察知されて、その度に気晴らしを勧められるんだってことよ』


 秋山の名前が私の涙腺に不意うちをかける。私はずずっと鼻をすすって、電話の向こうの悠香さんに言った。


「……あなたはずるい人だ、本当に。あなたの頼みじゃなかったら、こんなこと引き受けませんよ」


『ありがとう。やっぱり早川くんは良い人ね。今日私が電話したこともましろには伝えないで。昔の思い出も、病気のことも、全部言わないで。育児放棄をしたダメな母親として、徹底的に悪者にしてほしいの。お願い、約束して?』


「わかりました。絶対にあなたが今日話したことはましろちゃんには伝えません。悠香さんは……もう、本当にあの子に会わなくていいんですね?」


『ええ……! やっと、私も一人で生きていけることになって、少しすっきりしてるぐらいだから……!』


 悠香さんの声は震えていて、時折嗚咽が混じる。ああ、大人って本当に嘘つきばかりだ。


『それじゃあ、さよなら。ましろのこと、よろしくお願いします』


「……さよなら、悠香さん」


 その日私は、何十年ぶりかくらいに、翌朝目が腫れるまで泣いて過ごした。





***





「それからは、基本的にはましろが知っている通りだ。母が見つからずショックから立ち直れないお前を、私は秋山が亡くなった現場まで連れて行った。そこには花と、秋山の遺品が添えてあった。……そのキーホルダーだよ。事故当時は見つからなかったが、おそらく誰かが拾って届けてくれたんだろう。これを見て私は思ったんだ。私たちの研究は、ましろのための希望になるはずだったのだと。ちょっと貸してごらん」


 早川はましろから携帯についているキーホルダーを受け取ると、ルービックキューブのブロックを解体し始めた。


「ちょっと、お父さん! 何するの!」


 コロン、と何かが中から出てきて、床に転がった。小型の機械のようなものだ。


「これがましろの力のタネだ。簡単に言うと、静電気発生装置。ましろが誰かに触れると互いの電気の流れる量を調整して、人工的に静電気を発生させることができる。これ自体に人の心を読むなど、大それた力はない」


 そう言って早川はその装置を持ったまま俺の肩に手を当てた。いつもましろが触れるときのように、静電気が走る。


「じゃあ、今までましろが心を読んでいたのって何だったんですか? 俺は確かに読まれている、って気がしたんですけど」


「この子は賢いからね。鋭い観察眼と洞察力で見抜いていただけのことさ。それに、人は他人に自分のことを言われると、実際にそう思っていなかったとしてもその通りだと思い込んでしまうことがある。黒柳くん、君の考えていることなど、中学生女子に想像されるレベルのことだったということだ」


「うっ」


 早川は蔑むように笑った。本当に読めない男だ。しかしましろは唖然としてバラされたブロックを見つめたまま動かない。


「……ねぇ、これって、どういうこと?」


 構造的には組み直すことは簡単だが、あの装置と一緒にこぼれ出た真実をもう一度しまうことはできない。早川は真顔に戻り、ましろに向き合う。


「ましろはずっと私にマインドコントロールされていた、ということだよ。私たちの研究は完成などしていなかった。だが、それらしい理屈と装置で、心を読む力を持っているかのように思い込ませていたんだ。両親が突然理由を告げないままいなくなって、自信をなくしていたお前に、少しでも元気になって欲しかったから。……騙していてすまなかった」


 早川は今度はましろに向かって頭をさげる。ましろは怒りたいような、泣き出したいような複雑な表情でそれを見つめていたが、だんだん気恥ずかしさが増していったのか「ああもう」と言って、ぎゅっと早川を抱きしめた。


「……別にいいよ。心を読む力を持ってることが嬉しくて、しかもそれがお父さんとパパがくれたものだったから、舞い上がって元気になったのは事実だし。お父さん、パパとママの代わりに私を育ててくれて、ありがとう」


 早川の目が眼鏡の奥で潤んでいる。なんだか俺まで涙腺をやられてしまいそうで、そっと目を逸らした。


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