5-2


 それから何年か経ち、私たちの研究はいよいよ大詰めを迎えていた。


 研究を始めた当初は、人の心を読むなど夢のまた夢だと周りに蔑まれてきたが、それが実現に近づいてくると、手のひらを返したようにあらゆる人間が食いついてきた。私たちが知らないところで精神病の治療に有効だとか、犯罪捜査に活用しようだとか、妄想が世間に広がっていく。私たちはやたら雑誌編集者や新聞記者からインタビューを受け、その特集には「人類の夢に挑む」なんていう大それたキャッチコピーをつけられた。まさか秋山のエゴイズムで始まった研究だとは誰一人思っていなかったのだ。


 順風満帆に行っているかのように見えて、私たちには重大な課題が残されていた。人が他人の心を読めるようになる、理論上はおそらく不可能ではないだろう。だが、それができるようにするには、肉体的な負担や精神への影響など、安全性の科学的根拠を証明しなければいけないものが山ほどあって、臨床試験に取りかかれるのは早くても十年以上先になるだろうということが分かったのだ。


 この研究の壮大さを思えば、途方もない計画になることなど容易に想定できた。しかし、秋山はすぐにでも臨床試験を始めるなどと言い出したのだ。そしてそのことがどこからか漏れたのか、インターネットの掲示板では散々バッシングされ、研究室では新聞社やテレビ局からの電話がずっと鳴り止まない。


「誰になんと言われようと、僕の決意は変わらないよ。臨床試験の準備をする」


「自分で何を言っているのか分かってるのか? お前がやろうとしてるのは犯罪と同じだ。そりゃ早く成果を出したい気持ちはわかるさ。だがそうやって不正をした人間がどういう末路を辿るのか、今まで散々見てきただろう」


「十年なんて待ってられないんだ。それじゃあこの研究を始めた意味がない」


 秋山は小さいルービックキューブのキーホルダーをいじりながら、俯いて私と顔を合わせようとしない。この頃の秋山はどこか注意散漫で、顔色は常に暗かった。連日連夜遅くまで研究を続けているせいもあるだろうが、どうも思い詰めている風な気がしていた。あのキーホルダーは、先月気晴らしにと勧めた家族との温泉旅行の土産として買ったものらしい。なぜそんなどこの観光地にもありそうなものを買ったのかと尋ねたら、娘が気に入ったからだと言っていた。旅行から帰ってきてから、私の思惑とは逆に、秋山はより一層研究に入れ込むようになった。


「そんなに焦ってどうする。確かに十年も待ってたらましろちゃんはとっくに思春期なんか通り越すだろうが、もうそんなお前個人のための研究じゃないってことは分かっているだろう? これが成功したら世の中のあらゆる問題を解決するかもしれない。だからこそ、今は焦るよりも慎重になるべきなんだ」


「……世の中のためなんて、どうでもいい」


「は?」


「もし君の世間体が崩されて困るなら、この研究からは下りろよ。あとは僕一人でやる。君は僕に脅されて協力させられていたとか、そういうことにしておけばいい」


「秋山、お前変だよ。何かあったのか? 疲れが溜まってるんじゃないか?」


「僕はまともだ。むしろいつもより冴えている。今なら君の力なんか借りなくても、臨床試験を成功させられる」


「ふざけるなよ。私の世間体のためなんかじゃない、親友としてなんとしてでも止めるからな。冷静になるんだ。お前には私と違って守らなきゃならない家族がいるだろう。今お前がそんなことに手を染めたら、悠香さんもましろちゃんも、困るに決まって……」


「親友なら放っておいてくれよ! 僕はここで止まるわけにはいかないんだよ……!」


 秋山は吐き捨てるように言うと、研究室から出て行った。勢いよく閉められた扉の音が、今でも鼓膜に染み付いて離れない。


 彼が人身事故に遭い亡くなったということを聞いたのは、その日の晩のことだった。






 思えばあいつはいつもいきなりだった。結婚する時も、共同研究を持ちかけてきた時も、……そして、死ぬ時も。長い付き合いでも肝心な時にあいつが何を考えているかが分かったことはなかった。こんな人間が心理学者と名乗っているなんて、どうかしている。


 秋山の葬儀はひっそりと、親族と親しい友人の間だけで行われることになった。電車の人身事故ということと、最近の彼の言動から、報道ではすでに自殺だと騒がれている。だがあいつはそんな度胸のあるような男ではない。自殺なんかするわけない。するわけないんだ。ただの事故に決まっている。会場に向かう道中、何度も自分に言い聞かせながらも、誰かにそれを肯定してもらえないと気が狂いそうだった。


「悠香さん、お久しぶりです」


「……あの、どちら様でしたっけ……」


「秋山とは高校からの友人の、早川すいです」


「あ、そうそう……」


 葬儀会館の待合室の戸を叩くと、悠香さんが出迎えた。久しぶりに会った彼女は、かつてバーテンダーとして働いていた頃とはすっかり変わり果てていた。ずっと泣いていたのか、瞼は顔の印象を変えてしまうほど赤く腫れてしまっている。その姿は弱々しく、か細くて、喪服の黒色に飲み込まれてしまいそうだった。


「ママ、パパ帰ってきたの?」


 幼い少女が悠香さんの後ろから顔を出し、すぐに引っ込んだ。


「……誰?」


「ましろちゃん、初めまして。君のお父さんと一緒に研究をしていた早川です」


「ましろ、奥の部屋で遊んでなさいって言ったでしょう」


「だって飽きちゃったんだもんー。ねぇ、ママも遊ぼうよ」


「……ああ、もう……お願いだから、静かにして……」


 悠香さんは深いため息を吐き、頭を押さえてふらついた。支えようと腕を伸ばしたが、どこにそんな力があったかはわからない、強く振り払われた。


「ごめんなさい……今日は気分が優れなくて……」


「こちらこそすみません。あの、何かあったら言ってくださいね。私で力になれることがあったら何でもしますから」


 秋山も悠香さんも親戚とは疎遠だという話を聞いたことがある。結婚式も互いの両親を呼ばず仲間内でやったくらいだった。これから二人がどうしていくのか気になったが、悠香さんに強く拒絶された気がして、それ以上は深入り出来なかった。その場で崩れ落ちてすすり泣く彼女の声に、息が詰まりそうだった。


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