2-2


 ピンポン、と呼び鈴が鳴った。早川が帰ってくるにはまだ早い。俺が来ている間に来客があるのは初めてのことだった。


「あー、しまった!」


 ましろが頭を抱えて叫ぶ。


「誰か約束してたのか?」


「ううん。でもたぶんあの子。いつもこれ貼って居留守使ってるんだけど、今日旭くんが来た後に貼るの忘れてた」


 彼女はそう言って玄関の靴棚の上に置かれた紙を見せてきた。そこには手書きの雑な字で「ましろ外出中」と書かれている。そうまでして会いたくない相手とは誰なのだろう。


 ましろは靴を履くのが面倒だったのか、土間に足を下ろさず手を伸ばして玄関の扉を少しだけ開けた。扉の向こうにはましろと同じくらいの年頃の眼鏡をかけた制服の少女がいた。量の多い黒髪を、今時珍しいおさげでまとめている。


「あ、ま、ま、ま、まし、ろ、ちゃん……」


 少女はおどおどとA4サイズの茶封筒をましろに差し出した。その手は少し震えているようだった。ましろは仏頂面で返事をしないままそれを受け取り、中に入っているプリントをぱらぱらと見ている。彼女を家にあげる気は無いらしい。その構図はまるで借金取りと負債者のようだった。一通り中身に目を通したましろはため息をつきながら言った。


「弥生ちゃん。学校のプリントはわざわざ持ってきてくれなくてもいいって、前に言ったよね」


 その口調にはいつもよりトゲがあった。


「で、でで、でも、でも」


 弥生ちゃんと呼ばれた少女は何か言いたげだが、ましろのように流暢にはいかず自信なげにうつむいてしまった。年の割に堂々として活発なましろとは対照的な子だ。ぱくぱくと口を開いてはいるが、どもってしまっていてあまりうまく言葉にできていないのだ。せっかちなましろは待ちきれなくなったのか、彼女が言い終わる前に「不登校クラスにも行く気ないから」と言ってわざとらしくにっこりと微笑んだ。そこには拒絶の意思がしっかりと込められていた。黒髪の少女は肩をびくつかせてきょろきょろとし、その時ようやく様子を見ている俺に気づいて、慌ただしく会釈をすると逃げるように去っていった。


 「悪い子じゃなさそうなのに」と呟くと、ましろが玄関の戸を閉めて足音を強く鳴らしながらこちらに向かってきた。


「あの子も不登校で、普通のクラスには通えない子だよ。ほら、うまくしゃべれてなかったでしょ? キツなんとか症ってやつだってお父さんが言ってた。そのくせに、不登校児専用のクラスにやたら私を誘いに来るんだ。私は学校に行く気はないし、もちろん不登校クラスなんてもっと興味ないのにね。何回断ってもプリントを持って来るんだよ。理解できない」


「だからってそんなに拒否する必要もないだろ? あの子は別に嫌がらせで来てるわけじゃないんだし」


 なだめようとしたのが逆効果だったのか、ましろはムスッとほおを膨らます。


「私がわざわざあの子と友達になってあげる必要だってないでしょ」


 そう言ってシュークリームの皿を片付けないまま自室へと戻っていった。理解できないじゃなくて、理解しようともしてなかっただろ、と心の中で突っ込む。俺に対してはくだらないことでも面白がって何度も心を読もうとするが、玄関ではそのそぶりすら見せなかった。思春期の頃は自分もああだったのかと思うと少し親に申し訳なくなってきて、ましろの分も皿を片付けると、テーブルを拭いてから彼女の部屋に向かった。






 休憩を挟んでから二時間ほど経っただろうか。


 あの後ましろの部屋に行くと、彼女は「シリーズ脳科学」と書かれた分厚い本を読みふけっていた。こうスイッチが入ってしまうと俺に出る幕はないので、持参したノートパソコンで就職活動のエントリーシートを書いたり、面接予定の企業の情報をインターネットで調べたりしてやり過ごすことにしていた。


 今月に入ってから、就活サイトのトップページにはあらゆる大手企業の名前の横に「エントリー締め切り間近」の赤文字が踊り、就活生を煽るようになっていた。サイトの右上には「内定した先輩たちの平均まで、あと九十社! もっとエントリーしよう!」と一昔前の熱血スポーツドラマのようなテンションのバナーが出ている。ちなみに俺がエントリーしたのは十社に満たない数だった。それも、二十年生きていれば誰でも名前を知っているような大手企業ばかり。


 ふと、頭をジェルでぴっしり固めた佐々木のことを思い出した。そういえばあいつ、こないだ会った時は百社はエントリーしたと言っていたっけ。就活は数打ちゃ当たる、とりあえずエントリーして損はない、とどこぞの先輩からの受売りを語っていた。その時はそんなやり方は非効率だと一蹴したが、今思えば百社興味を持てるだけですでに就活生としてのバイタリティに差が出ているのかもしれない。少なくとも俺はあと九十もエントリーする気にはなれそうになかった。


「旭くんは、会社に興味がないの?」


 いつの間にか読書を終えたましろが、俺のノートパソコンを覗き込んでいた。


「なんだ、もう終わったのか」


「うん、続きは明日読むよ。ちょっと目が疲れちゃったから」


 就活サイトを閉じようとしたが、ましろが食い入るように見ていたため手を止めた。


「興味がないわけじゃない。いろんな企業のことを調べたりするのは面白いよ。だけど、なんか実感が湧かない。俺がこの中のどこかの社員として、仕事をしてるイメージが全然浮かばないんだよな。大学卒業したら社会人になるってことは分かってたつもりだけど、どんな風になりたいかなんて考えたことなくてさ」


「ふうん。将来の夢とかなかったの?」


「昔学校の宿題とかで無理矢理書かされたけど、何書いたかは覚えてないよ。別に憧れる職業とかもなかったし。ましろは何か考えてることはあるのか?」


 てっきり夢なんてないと即答するのかと思ったが、ましろはにやりと笑い、先ほどまで読んでいた分厚い本をぎゅっと抱きしめた。


「私はパパみたいな学者になるよ。人の頭の中がまるわかりになるような研究をして、ノーベル平和賞を受賞するんだ」


 そう語る表情は今まで見たどの表情よりもいきいきとしていた。


「なんで平和賞なんだよ」


「あれ、突っ込むとこそこ?」


「それ以外に何があるんだよ」


「だって、もし世の中の人の考えがぜーんぶ分かるようになったらさ、犯罪の防止にもなるし、好きな人と両想いにもなりやすいでしょ?」


「でっかい夢だな」


 呆れたように言ったが、ましろのカーキ色の澄んだ瞳が真っ直ぐに俺を見てくる。本気なのだ。馬鹿にしかけていた自分を責められている気がして、誤魔化すように咳払いをした。


「それならまずちゃんと勉強して大学に入らないと。言っておくけど、このご時世、理系だろうが英語の試験が無い大学なんてほぼないからな。試験になかったとしても、大学入ってから英語の論文が読めなかったら学者にはなれないぞ」


「ええ、そうなの? 英語なんてスマホで翻訳できる時代なんだから別にいいじゃん」


「自分で読めるか読めないかで学習スピードが全然違う。一流の学者なら海外に留学することもざらにあるし、学会での発表を英語ですることだってあるって聞くけど」


「うっ……」


 ましろが珍しく言葉を詰まらせる。少しの間黙って何かを考えていたようだが、やがて席を立って部屋の押入れを開け、ごそごそと漁っていたかと思うと、埃をかぶった中学生向けの英和辞典を引っ張り出してきた。


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