二章 子ども以上大人未満

2-1


「旭くんー、そろそろおやつにしようよ」


「なに言ってんだ、まだ課題終わってないだろ」


 早川に呼び出された日の週から早速単位奪還のためのミッションが始まり、一ヶ月くらいが経った。


 早川の家は大学や俺の家と同じ市内で最も大きいマンションの3LDKだった。薄々感じていた通り早川には妻はおらず、ましろと早川の二人暮らしらしい。研究室と同様、思い思いの場所に物が散らばっていて、家の中の面積を占めるものの大半は学術書だった。台所には必要最低限の食器しかなく、流し場はしばらく使った形跡が見られない。あまりの生活感のなさに、初めてこの部屋に立ち入った時は思わずちゃんと食事はとっているのかとましろに尋ねてしまったぐらいだ。


 家庭教師というのはうちの大学では定番のバイト手段だ。だからそれがそこまで難しいものだとは思わなかった。誰でもできるようなことだろう、と。……だが、どうやらそれは俺の思い違いだったようだ。


「いいじゃん別に課題くらい。おなかすいちゃったんだもん! あ、不登校だからって勉強できないと思ってるんでしょう? 私こんなのやらなくたってちゃんとできるよ」


 そう言ってましろは自慢げに以前受けた通信教育のテスト結果を見せつけてきた。確かに本人が言う通り、彼女は家庭教師など不要なほど賢いし、教科書にはないような知識も持っていた。去年の秋頃から学校に通っていないらしいが、おそらくまじめに毎日登校し塾にも行っているような同級生より数段頭がいいだろう。学校に通っていれば四月から中学二年生だが、高校の範囲についても自主的に手を出していたし、大学生の俺が知らないようなことをペラペラと話す時もあった。ただしその得意科目にはかなり偏りがある。


「勉強してるのは理科や数学だけだろ。ほら、さっさと漢字ドリル五ページ進める」


「えー、漢字なんかスマホやパソコンあったら書けなくたっていいじゃん」


「はいはい、まずは俺の名前を漢字で書けるようになってからそういうことを言うんだな」


「旭くんの漢字は難しすぎるんだよう。私のは簡単なのに……」


 ましろは駄々をこねて意地でも漢字ドリルを開こうとしない。彼女の部屋には、とても十三歳の少女には似つかわしくない飾り気のない学術書ばかりが本棚を占めていた。初めてそれを見た時は早川の物かと思ったが、彼の専門である心理学とはかけはなれた物理学や医学などの理系の本ばかりであり、ところどころ平仮名の書き込みがあったことからましろのものだと判明した。彼女のずば抜けた知識はどうやらここから仕入れたものらしい。


 一方で、文系科目はてんでダメだ。ましろが見せてきたテスト結果によると、数学と理科が満点なのに対し、他の科目は三十点以下だった。特にひどいのは国語で、適当に選んだ選択問題しか合っていない始末だった。


「人の心は読めるくせに、文章の読解力は無いんだな」


「だって小説とか読んでる暇あったらうちにある本読んだ方が面白いんだもん。人の心なら文章で読めるようにならなくても、この力があるし」


 そう言ってましろは隣に座る俺の腕に手を伸ばした。反射的に避けようとしたが、一歩遅く静電気がバチッと鳴る。ましろはにやりと微笑み席を立った。


「なんだ、旭くんだってお腹減ってるんじゃん」


「……あのさ、心が読めるんだったらおれがイライラしてることも察してくれないかな。今度の通信のテストで赤点取ったら小遣いやらないってお父さんが言ってたぞ」


「でも腹が減っては戦はできぬとかなんとか」


「なんでそういう言葉だけは知ってるんだよ……」


 接する時間が長くなればなるほど、彼女が厄介な性格だということが身にしみて分かってきた。とにかく頑固でマイペース。一度勉強し始めたら恐ろしいくらいの集中力を発揮して一言も喋らないのだが、興味のない分野だと頻繁に気が散って無駄口が多くなり、休憩をすると言って聞かなくなる。こうなったらお手上げだ。俺は素直に彼女の意向に従うしかない。これでも最初のうちは家庭教師という立場上なんとか勉強机に張り付けさせようとしたのだ。しかし、先生らしく色々と説教をしてみてもまるで響く様子はなく、しまいには俺を無視して携帯ストラップのルービックキューブで遊び始め、色が揃うまで口をきかなくなったことがある。あの時のような扱いを受けるのは二度とごめんだ。


 ましろについていく形で部屋を出て、リビングに移動する。ましろが冷蔵庫を漁って早川の買い置きしたスイーツを探している間、俺はポットで湯を沸かして飲み物の準備をする。俺はブラックコーヒーで、ましろは紅茶に角砂糖を三つとミルク。食材や食器の気配がまるでない家だが、飲み物だけは早川のこだわりなのかしっかりストックされている。ましろはシュークリームを一つずつ皿に出して、リビングのテーブルに並べた。


「なぁ、そろそろ聞いていいか」


「ん、なに」


 ましろの頰には、彼女が豪快にかじったせいでホイップ穴から溢れたカスタードクリームがついている。本人は気づいていないようだ。


「学校に行かない理由。別に責めたりする気は全くないんだけどさ、単純に気になって」


「気になる? こんな髪の色だとむしろ不登校の方が納得できない?」


 そう言ってましろは背中ほどの長さの薄い色の髪をひっぱった。


「外見でどうこう言われて凹むような性格だったらな」


「あははは、確かにね。この髪、同級生には案外好評だったんだ。私のおかげで染めても怒られないって。逆に疑問なんだけどさ、学校って何が面白いの? 毎日決まった服着て、つまらない授業聞いて、しょうもないことで喧嘩したりして」


 ましろがまっすぐな瞳で尋ねてきて、俺は少しうろたえる。そう言われてみれば、俺だって学校を面白いと思ったことはあまりない。


「まぁ、そりゃ分からなくもないけどさ。でも俺はあんまり休んだりはしなかったな。面白いから行くってより、義務感だった」


「ふーん。旭くんは優等生なんだね」


「ましろみたいに不登校になるっていう発想がなかったんだよ」


「私だって小学校の時はちゃんと学校行ってたよ。でも、中学に上がってからなんか友達がみんなキョリ置くようになってさ。別にいじめられてたとかじゃないんだ。無視されてたってより、よそよそしい感じ?」


「どういうことだよ」


「さぁ? 分からなかったから小学校からの友達に聞いてみたんだよ。どうして避けるの、って。そしたらさ、私に心読まれたくないからって言われた。みんな私が人の心を読めるってのをなんとなく知ってたわけ。それで、誰が好きとか、誰が嫌いとかが私にばれないようにしたかったんだってさ」


「なるほどな。確かに中学生ってのは秘密が増える年頃だから」


「そうみたいだね。私にはよくわからなかったけど」


「冷めてるな」


「はは、旭くんがそれ言うのもなんか変な感じ。あっ、でも前に彼女いたことあるんだっけ? 振られちゃったけど」


「その話は忘れろ、って言ったよな。俺も別に引きずっちゃいないんだ」


 ましろはニヤニヤと俺の方を見てくる。これ以上この話題が続くのを困る。俺はシュークリームを一気に頬張り、隙なくコーヒーに手をつけた。コーヒーの苦味とカスタードの甘みが中和しあって口の中で溶けていく。ましろは本心を確認するかのように俺の腕に触れてきたが、俺が表情を変えないのを見ると「ちぇ」と小さくつぶやいた。


「それからさ、クラスの人の心をこっそり読んでみたんだ。他人にバレたくないような気持ちってどんなんだろうって興味があったんだよ。でも、それがかえってダメだった」


 「どうしてだよ」と尋ねると、ましろはハッと小馬鹿にするような笑いを浮かべながら肩をすくめた。


「人気者の彼を隣に歩かせたら見栄えがいいとか、美人なあの子のおっぱいを触ってみたいとか、気に食わない子が片思いしてる子を取っちゃおうとか。中学生の秘密ってそのレベルだよ。気持ち悪くない? 知れば知るほどがっかりしたんだ。それ以降学校に行く気がなくなって今に至るわけ。ま、勉強ならうちでもできるしね」


 とても中学生の少女とは思えないとげとげしい口調に返す言葉が見つからないでいると、ましろは椅子の上で体操座りの姿勢になり身体を丸めた。機嫌が悪くなるとすぐにこの姿勢になるのが彼女の癖だ。


「それにね、友達だと思ってた子は私のこと友達だとは思ってなかったんだよ。人の心読めるなんてうっとうしいって、そう思ってたみたい。だからどうでもよくなっちゃった。私には友達なんていないし、いらない。学校に行く必要もないの」


 そう言って卓上の小さな瓶からまたひとつ角砂糖を取り出し、紅茶の中に落とした。


「太るぞ」


「成長期なので太りませんー。ハタチ超えたおじさんと違ってね」


「……はいはい、どうせおじさんですよ」


 おじさん、か。自分も中学生くらいの時には、二十歳なんてはるかに大人なんだと思っていた。子どもよりも色々知っていて、金もあって、どこか言動に余裕のある、そんな大人のイメージを描いていた。ところが実際二十歳を過ぎてみると親の支援なしでは生活できないし、頭の構造だって中学生の頃から大して変わっていない。ただ身体がでかくなっただけの、大きな子どもだ。


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