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――ピリリリリ……ピリリリリ……


 聞き慣れない音が頭の中に直接響いてくる。目覚ましか? いや、今日は午前中に何の予定もなかったから目覚ましをセットしていないはずだ。だんだん感覚が冴えてきて、朝の寒さに瞼を閉じたまま足で毛布の場所を探る。肌に触れる冷気を吸ったつるりとした素材で、昨日はスーツのまま寝てしまったことを思い出し気だるさが増した。


――ピリリリリ……ピリリリリ……


 相変わらず音は鳴り続ける。確か、この音は……


 はっとしてベッドから飛び起き、1Kの部屋の真ん中にあたるテーブルの上に置かれた携帯を手に取った。充電残り数パーセント。危なかった。画面には知らない携帯の番号が表示されている。企業の採用担当からの連絡は、会社の電話番号の場合と携帯番号の二パターンがある。携帯とはいえ油断はできない。一呼吸し、顔が見えるわけではないが面接の時のように口角を上げて表情を作ってから携帯の通話ボタンを押した。


「はい、H大学社会学部三年の黒柳です」


 電話の向こうからは相手の息遣いや物音が聞こえてこず、緊張感が高まる。社会人の電話は二コールまでに取れと聞いたことがあるが、さすがに遅かっただろうか。心臓が高鳴って、寝起きだというのに体温がワッと上がってくるのを感じた。右手でごそごそとバッグをあさり、手帳とボールペンを取り出す。電話上で次の面接の日時を告げられることも多いからだ。


 今月のページをようやく開こうというとき、電話の主はなぜか笑い声を上げた。人を小馬鹿にするようなこの大げさな笑い声、どこかで聞き覚えがある。


『朝早くに悪いね……といってもすでに十時だな。大方、企業からの電話を想定して取ったんだろうが、私だよ、ゼミの指導教員の早川だ』


「早川先生……ご無沙汰してます」


 糸が切れたように力が抜けて、ベッドに座りこんだ。上ずっていた声も低く濁る。早川はそんなこちらの様子を見抜いているかのように、まぁそんな気を落としてくれるなと言って淡々と続ける。


『実は君にふたつ内定の話があるんだ』


「内定?」


 眉間にシワが寄るのを感じた。俺の声のトーンが一段と低くなったのは電話越しでも伝わったはずだが、早川は一切気にしないそぶりで言った。


『ああ、気になるのはわかるがこういう話はちゃんとした場を設けてしたい方でね。今日午後、予定がなければ私の研究室に来なさい。そこで詳しく話そう』


 内定って一体何のことですかと言いかけたが、その前にツー、ツー、ツーという電子音が耳に響いた。早川のこういうところが、とても苦手だ。






 昼を過ぎた頃に部屋を出た。朝の電話から気分は一向に乗らない。久しぶりに私服で出かけられるということだけがせめてもの救いだった。ここのところほぼ毎日、企業の説明会や面接に参加するために何の個性もない黒のリクルートスーツを着ていた。ただそれが無難だからという理由で。慣れないスーツをずっと着ていると肩が凝る。馬鹿馬鹿しい、とは何度も思った。しかしそれに抗ったり、仕組みを変えるために動くほどの気力もない。就活というのはあくまで通過儀礼だ。下手なわがままは押し込めて、就活生というあいまいなステータスを抜け出す近道にいかにうまく乗れるかどうかだ。


 自転車に乗って早川の研究室があるキャンパスへ向かう。家から大学までは自転車で十分ほど走れば着く距離だ。見上げると、花も葉もすっかり落ちて寒そうな桜の木の枝が空を覆う。この街は東京にあっても背の高いビルはなく、代わりに交互に植えられた桜と銀杏が季節になると鮮やかに彩る。普段は市の名前の正しい読み方すら認知されていないが、この桜が咲く頃には他の地域からも多くの人が訪れ、お祭りのような状態になるのだ。そこまで愛着があるわけではないが、この街に来てもう四回目の春が近づいているかと思うと少し感慨深くなった。


 大学に着き、自転車を停めて学生が普段講義に出る教室のある棟とは別の古いレンガ造りの建物に向かった。そこに早川の研究室がある。いつ来ても人の出入りが少なく、薄暗い雰囲気だ。


 通称ゼミと呼ばれる、一人の教授を囲んで行われる少人数の専門クラスは、大学三年生からの必須科目だ。俺が所属している早川ゼミは早川の研究室の隣室でいつも行われているが、早川本人は多忙のためほとんど姿を見せたことがない。説明会とゼミの初回だけ現れて、後は早川につく大学院生が取り仕切るグループワークになった。てっきり早川本人が指導にあたるものとばかり思っていたが、人脈の無さが災いしてゼミが始まるまでそのことを事前に知り得なかったのだ。いつまで経っても早川は現れず、学生同士のグループワークもただ議論が右往左往して時間がかかるだけだった。一人で論文を読む以上に得られるものがないと感じてからは徐々に足が遠のき、去年の夏以降は一度も出席していない。


 一年近くゼミに姿を見せなかった早川の方から、同じくゼミにほとんど出席していない学生に対して連絡があるなど、悪い予感しかしない。早川はもったいぶって内定などと言っていたが、この時期の就活生にとってその言葉は火に油だ。心理学の専門家なのだからそんなことがわからないはずはない。ただからかっているのだ。


 研究室に近づけば近づくほど、憂鬱な気分は増した。扉の向こうに聞こえるくらい深いため息を吐きながらノックをすると、入りなさいと早川の声が返ってきた。早川の声は研究者にしてはよく通る声だった。大学の講義を行う先生の中では、声が小さすぎて何を言っているか聞こえなかったり、うつむいてばかりで滑舌が悪かったりする人がざらにいるだけに、比較的若い年齢でありながら教授のポストを獲得していてはつらつとした早川の講義が新鮮だったのを思い出す。


「黒柳です」


「やぁ、待っていたよ。ずいぶん久しぶりだね」


 そういって早川はいたずらをした後の子どものように眼鏡の奥でにやにやと笑った。水色のシャツに濃紺のスラックス姿で足を組んで座っている。飾り気のない格好ではあるが、ぴったりとサイズの合った着こなしは彼のスマートさを強調している。一方で、彼の研究室は空想上の学者のイメージ通り雑然としていた。部屋の両側の壁は背の高い本棚が隙間なく並び、分厚い専門書が関連性なく敷き詰められている。本棚からあふれた書物やコピーされた論文の束は床に積まれ、扉から部屋の奥の早川のデスクを結ぶ直線上以外は足の置き場がなかった。地震が来たら確実に死ぬだろう。


「で、要件は何ですか」


「まぁまぁ、そう冷たくしないでくれよ。せっかく久しぶりに話すんだ、コーヒーでもどうだい」


 結構です、と言ったが無視された。早川は相変わらず楽しそうな表情を浮かべている。絶対わざとだ。あえてすぐに要件を言わないことでこちらを焦らすつもりらしい。落ち着け、落ち着け。ここは下手に出るべきだ。まだ早川の「内定」というのが良い話なのか悪い話なのかわからないが、どちらにしろここで彼に反発することが有利に働くとは思えない。就活のハウトゥ本で読んだ圧迫面接の項を思い出し、無理やりに笑顔を貼り付けた。


「ははは、気味の悪い笑顔だ。君は就活組だったっけ? 早いところだともう面接をやり始めていたりするって聞いたよ。調子はどうだい」


 早川の余裕のある喋り方は、ぴんと張られた神経に容赦なく触れてくる。


「まぁまぁです。書類選考はだいたい通るんですけど、面接はまだ手応えないですね」


「そんなことだろうと思った。うちの学生はなまじ頭がいい分、人に対してへりくだるのが苦手なタイプが多いからね。君はその典型だ」


 言い分には腹が立つほど同意できたが、それでもそのまま笑顔を見せつけたのはもはや意地だった。


「で、ご用件は何でしょう」


「まずはその作り笑顔をやめなさい。話はそれからだ」


 渡されたコーヒーを飲みながら表情を元に戻す。頬の筋肉につったような感覚が残った。石沢たち以外では大学での友人関係が乏しいために、普段笑顔でいることが少なくなっていたことを実感させられる。


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