mashiro

乙島紅

一章 二つの内定

1-1


 気づけば将来が目の前まで来ていた。


 いや、もう足を突っ込んでいるのか。ふと、頭の中に「将来の夢」と印字された色画用紙が浮かんだ。小学生の頃は学年が上がるたびに書かされていたっけ。何て書いたか、全く思い出せない。少なくとも「サラリーマン」ではなかった気がする。……まあいい、ごちゃごちゃ考えるのはやめよう。悪い癖だ。今は大事な面接の最中なのだから。


「では次の方、簡単な自己紹介からどうぞ」


「はい。H大学社会学部三年、黒柳あさひです。よろしくお願いします」


 緊張で声が震える。だが、悟られたら負けだ。面接官に「一緒に仕事をしたい」と思わせられるかが就活生の勝負どころであると、同じく就活をしている情報通の佐々木が言っていた。


 そう言えば佐々木は得意げにこうも語っていた。そもそもたった五分そこらの面接で、その学生の何が分かると言うのだろう。要は第一印象だ。たとえば、自分が新規サービスの提案をしにきた営業マンで、面接官がクライアントだとする。そのサービスの良さを伝えるのに、ガタガタと緊張してしどろもどろな人間と、堂々と自信たっぷりに話す人間、どちらが契約を取りやすいだろうか、と。


 その理屈はとてもシンプルで論理的だ。納得もできる。だが現実はそう思い通りにコントロールできるわけじゃない。真冬だというのに、血流が普段の数倍速くなり、おろしたてだったシャツは汗でじっとりと肌に吸い付く。なるべく平静を装いまっすぐ机の向かいに座る面接官の目を見た。面接官は「リラックスしていいよ」と言わんばかりの穏やかな視線を返してきた。選ぶ側と選ばれる側という立場の違いから生まれる余裕の格差に、打ち砕かれそうな気がした。


 大丈夫、大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせる。どんな質問が来るかは前の就活生への質問でだいたい予想がついていたし、ちらりと見えた履歴書によれば一緒に面接を受けている三人の中では俺が一番高学歴らしい。面接官の関心も引きやすいだろう。あとは佐々木の理屈に従い堂々と質問に答えるだけだ。


「ほう、H大の社会学部か。なかなか入るのが大変だと聞いていますよ。黒柳さんは、大学では何を勉強されてきたのですか?」


「私は大学では心理学を専攻しております。心理学の中でも、人が集団でいる時にどのように考え方を左右されるかという組織心理について学んでおります」


 質問をした面接官は何度もうなずいてから口を開く。


「なるほど。心理学は身近なテーマなので、社会人でも勉強したがる人間が多いんですよ。黒柳さんは心理学で学んだことを今後どのように生かしていきたいですか?」


 まずは基本的な質問が来て、次にそれについて深掘りする。定型的な質問パターンに、俺は心の中でガッツポーズをした。


 これも佐々木の受け売りだが、自分が回答する内容の中で面接官が気にしそうな話題には事前に回答を作っておくといいらしい。質問を事前予測する、それは受験勉強に二年かけた俺たちの得意分野だ。今座っている椅子の横に置いてあるカバンの中には、予測した質問とそれに対する回答を百くらい書き込んだノートが入っている。一呼吸置き、今回の質問に対する回答を書き込んだページを思い浮かべながら答えた。


「対人コミュニケーションに生かしていきたいです。社会人になると、自分とはバックグラウンドも立場も異なる人と多く接することになると思います。そういうときに初めから相手のことを理解できないと決め付けるのではなく、相手の考えはどのように構成されているのか要因を把握して、互いのニーズが一致する部分を見出していきたいです」


 面接官はまたオーバーなほどうなずきを繰り返した後、一瞬隣の書記担当と顔を合わせた。それはどういう意味の合図なんだ? 書記担当が手元の面接票に何を書き込んでいるのか盗み見ようとした時、面接官はにっこりと笑って言った。


「黒柳さん、ありがとうございます。では次の方、大学名とお名前、そして簡単な自己紹介をお願いします」


――え、それだけ?


 あと二、三問は来るものだと思っていた。すっかり拍子抜けして、面接官に好印象を与えるために貼り付けてきた笑顔があっという間に剥がれていく。左隣の学生が何を話しているのか全く頭に入ってこない。これはそれ以上聞くまでもないってことなんだろうか。それともすでに学歴で合格が決まっているから、詳細は次の面接で聞かれるとか?


 しかしその後面接室からの退出を促されるまで、面接官と目が合うことは一度もなかった。






「おぉ、クロ! やっと来たか。なかなか来なかったからもう鍋ほとんど残ってねぇよ」


「まじかよ。まぁあんま腹減ってないから、酒さえあればいいや」


 家主の石沢が扉を開けて迎え入れる。家主らしく上下グレーのスウェットでリラックスした格好だ。単身者用賃貸アパートの狭い玄関にはすでに男物の靴が三足以上散乱しており、キャパシティを超えている。俺は靴を脱ぐと、裏返して別の靴の上に乗せる。キムチ鍋をやっていたのだろう、キムチとにらの匂いが部屋の中から漂ってきた。


 今日は仲間内で宅飲みをやる約束をしていたから、俺は二十三区内の面接会場からいつも宅飲みの場となっている石沢の家に直行した。直行とは言っても、二十三区内の面接会場からH大学と同じ市内にある石沢の家までは同じ都内と思えないほどの距離があり、おまけに夜の通勤ラッシュとも重なって、戻ってくるのには一時間以上かかった。石沢の家は駅から徒歩十五分の閑静な住宅街の中にある。一月の夜の突き刺すような寒さの中を薄手のリクルートスーツで歩くことになり、身体はすっかり冷え切っていた。この部屋はエアコンの効きが悪く、窓際では隙間風が吹くが、室内というだけで十分ありがたい。寒さでこわばった身体が少しずつほぐれていく。


 すでに飲み始めていた仲間の一人、吉野は部屋に入るなりゲーム機のコントローラーを押しつけてきた。吉野は家主でもないのに上下スウェットだったが、彼の場合これは普段着である。


「鍋だけじゃない、酒ももう売り切れ寸前。だから今ちょうどスマブラで最下位だったやつが買い出しに行くっていうルールでひと勝負しようと思ってさ。クロ、来たからには参加しろよ」


 スマブラというのは、俺たちが小学生だった頃に日本中で流行ったバトルゲームのことだ。人気タイトルなので最新版のゲーム機でもプレイできるが、俺たちの間ではいつまでも当時の旧型のゲーム機が現役だ。


 わかったわかった、と適当に返しながらコートとカバンを下ろし、部屋の隅に置いた。まだ身体が温まりきっていないが、早く就活気分から抜け出したくてジャケットとネクタイも脱ぎ捨てた。吉野の隣ですでにゲームへの参戦準備をしていた佐々木は、その様子を見て「シワつくぞ」と皮肉な笑みを浮かべながら言った。そう言う佐々木は宅飲みの場だというのにジャケットをしっかりと身につけ、ネクタイを緩めた形跡すらない。髪はジェルでぴっしりと固められている。お前は紳士服売り場のマネキンか。学生としての佐々木をよく知っている間柄から見れば、違和感の塊がそこにいる。


「おーおー、お前はすっかり就活に染められてるな」


 皮肉で返したつもりが、佐々木は渇いた声で笑う。


「俺分かったんだよ。こういうのはさ、染められた方が早いんだ」


 その横顔はやたら落ち着いており、まだ就職もしていないのに残業帰りのサラリーマンのような哀愁が漂っていた。ゲームと酒が何よりも好きな吉野はしびれを切らし、場の空気を壊す。


「まぁまぁ、早くやろうぜ。お前らが楽しく就活トークしてる間に最後の酒は俺が美味しくいただきますよっと」


「あ、お前それ……!」


 吉野は後から来る俺のためにとっておいてあったと思われる缶ビールをこれ見よがしに一気飲みした。それが合図となって、石沢とコントローラーを持ってテレビの前に座る。一人暮らしの六畳一間に男四人――かつ吉野は二人分の体積をしている――が並んで座るととても窮屈に感じられたが、もう慣れたことだった。


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