第四話 揚州の犬

「もう一度確認させてもらうけれど、円香と映見と桜……貴方達には彼の声が聞こえる訳ね?」


 落ち着いた雰囲気だった室内に、静かな夏野の声が響く。

 夏野の問いを受けた三人は無言で頷いていた。

 その頷きを少しだけ寂しそうに眺めた夏野は、鈴菜を見つめて声をかける。


「それで、鈴菜には聞こえていないのよね?」

「は、はい……」


 夏野の寂しさが伝わったのか、肩を落として返事をする鈴菜。

 だけど……俺は鈴菜に聞かれなくて肩を震わせて喜びたかった。まぁ、ハサミ震わして音鳴らすと怒られそうなので震わせないですけどね。

 そもそも、お前は俺がクロだった最初の頃。通じてないフリをしていたじゃねぇかよ!

 中二患ったフリをしていたじゃねぇかよ! この、ンガング様が!

 結局、墓穴掘って自爆していやがったけどな。と言うか、ドM変態だから誘い受けだったのか? そんな趣向に付き合いたくないわ!

 

 と、心の中で騒いでいても誰も反応してこなかった。

 つまり映見と桜も、円香と同じで心の中までは読めないのだろう。

 

「そう……」


 鈴菜の返答を確認した夏野は、スッと目を閉じて考え事をしていた。そんな夏野を見守る俺達。

 やがて夏野は目を開け全員を見回して言葉を紡いだ。


「これは私の憶測に過ぎないのだけれど、思い入れの深さに関係しているんじゃないかしら?」

「思い入れの深さですか?」


 夏野の言葉に円香が聞き返す。


「そう……最初のクロへの転生。春海和人と言う人間からクロへと転生していた……」


 夏野が淡々と話し始める。

 俺が目を覚まし、円香を通して会話をしてから、夏野はクロをクロと呼んでいる。俺のことも彼とか名前で呼んでいる。

 今までみたいに駄犬だとかバカ犬とは呼ばない。

 もちろん今のクロは俺ではないのだし、円香達の前だからなのかも知れない。

 だけど何故か余所余所よそよそしいと言うか、夏野らしくないと言うか。少しだけ歯痒はがゆい気持ちでいた。

 バカ騒ぎのできない状況だって理解しているし、そんな呼び方を好んでいる訳じゃないけど、何だか寂しい気持ちを抱いているのだった。


「あの時は何故か私と鈴菜。二人に声が聞こえていたの」


 夏野の言葉で一斉に見つめられた鈴菜。少し恍惚とした表情を浮かべて頷いていた。って、やっぱり変態かよ。

 

「それは、たぶん……春海和人としての思い入れが強い人物には、聞こえなかったのだと思うのよ」

「……か、和人、くん、の、ですか?」


 その言葉におずおずとだが聞き返していた映見。


「そう、思い出とか共有とか……そう言うものかも知れないわね?」

「夏野さん……」


 夏野の言葉に桜が声をかける。

 夏野の表情に、三人の記憶にある『人間の頃の春海和人』との思い出や、共有した時間をうらやんでいるように感じたのだろう。三人はそんな夏野の表情を読み取ったのだろう。少し悲しそうに夏野を眺めていたのだった。

 俺が人間だった姿を見たのは、あの八月の事件の日。

 もしかしたら、その前にも数回すれ違っていたのかも知れない。コーヒーの不味い、喫茶清陽で。

 だけど、認識して思い出されるのは事件の時だけだろう。そう、夏野を苦しめたあの事件。最初で最後に見た、俺の人間だった姿。

 数秒の認識の末、俺は息絶えていた。いや、死んだあとに認識していたのかも知れない。

 あいつは強盗に銃を向けられていた時ですら、原稿用紙に向き合っていたのだから。

 きっと、夏野にとっての人間の俺の記憶は、何もないのだろう。

 だからこそ、三人が羨ましく思っていたのかも知れない。


「だから、思い入れが深いから聞こえなかった。……姿が変わった彼を受け入れられていたのか。そんなところなのかも知れないわね?」


 夏野の言葉に全員がうつむく。確かにそうなのかも知れない。

 円香も映見も、クロに対して俺を重ねていた。俺が生きていることを望んでくれていた。

 だから、本当に俺の声が聞こえたとして。俺と会話ができたとして。

 最初は嬉しいだろう。喜ぶとは思う。それは俺も同じだと思う。

 だけど、あの頃に俺の声が聞こえていたとして、本当に二人は俺を受け入れられたのだろうか。

 死んだ直後に、クロに転生した直後の。あの頃の二人が現実を受け入れてくれたのだろうか。

 今なら、素直に無理だったのではないかと思えるのだった。


 悲しい現実かも知れないが、夏野と鈴菜には人間だった頃の俺の記憶がない。俺の姿を知らない。

 それは当たり前の話だ。夏野は作家で、俺は読者。それ以上でもそれ以下でもない関係なのだから。

 つまり夏野達にとっては、クロとしての俺――普通に飼い犬としての『俺の声が聞こえる』だけ。

 だから、目の前の現実を直視することができたのだと思う。

 だけど三人には、人間だった頃の俺の記憶がある。俺と過ごした時間がある。

 聞こえる声は確かに俺なのかも知れない。言動は俺からなのだと認識するかも知れない。

 だけど目の前に映るのは、ミニチュアダックスフンド。小さな犬が動いているだけなのだ。

 それは三人からすれば、姿の見えないところから聞こえてくる俺の声みたいな感覚なのだろう。

 ……数回ほど俺が経験した、夏野の部屋に隠されたスピーカーのような状態だと思う。

 もう、隠してないよね? 前に片付けたよね? まぁ、あっても今は意味ないけどさ。


 そう、俺の声が聞こえる。会話ができる。だから最初は嬉しいだろう。喜ぶとは思う。

 だけど、脳裏で認識する俺と現実の俺の相違――。

 俺の声から連想されて、人間の姿を認識している脳裏と、犬の姿で目の前にいる俺との相違。

 仮に説明を納得したとしても。現実だと理解しても。

 あの頃の円香と映見には、通じなかったと思う。

 それだけ人間だった春海和人に固執していたと思っている。別に自惚うぬぼれの類いで思っているのではなく、自責の念として思っているだけだ。


 ――父上と母上を強引に説得して、単なる我がままで岡山への引越しを断った俺。

 そんな離れ離れの状態のまま、突然死んでしまった兄。


 ――同じ図書委員として偶然見てしまった原稿用紙。その小説の続きが読みたいと願い、約束を交わした俺。

 そんな約束を果たせぬまま、突然死んでしまったクラスメート。 


 そんな風に、二人には中途半端な想いを刻ませてしまっていたのだろう。

 桜は、まぁ、常連客が死んでしまったってところかも知れないけど。

 一応、クラスメートだしさ。映見の親友でもあるから、同じように感じてくれているのだと思いたい。

 うん。そうだな。だから少なくとも三人の脳裏で浮かぶ姿は、生前の人間の俺であってほしいと願うのだった。


 もしも、あの頃に夏野達ではなく円香達に声が聞こえていても。

 そんな相違にさいなまれて、更に悲しみに押し潰されるのではないか。

 新しい生活に向かっての一歩、自分の足で一歩を踏み出せないのではないか。

 それどころか、俺の記憶が邪魔をして、逆に座り込んで動けなかったんじゃないかって気がする。


 あの時から時間も経ち、それぞれが今の生活を取り戻した今。

 自分達の足で一歩を踏み出せている今。

 記憶の片隅に残す程度の存在に変わっているのだろう。忘れられるのは悲しいが、重荷になるのはもっと悲しいからな。それくらいで十分なんだ。

 そんな今だから、こうして互いに向き合っても、普通に接していられるのだと思っている。

 つまり、あの頃の円香達には重荷でしかないから、俺の声が届かなかったのだろうと、そう夏野は言いたかったんだと思えていた。


『……俺も、そう思うよ』

「……和兄も、そう思うって言ってますよ?」

「そう……」


 ふいに声に出していた俺の声を円香が夏野に代弁してくれた。

 その言葉を聞いた夏野は少し嬉しそうに、だけど寂しそうに、そう呟くのだった。


>8 >8 >8 >8 >8


 一息つくようにお茶を飲んだ夏野は言葉を紡ぐ。


「そして今回のハサ次郎の転生なのだけれど……」

「夏野さん?」


 ハサ次郎への転生を口にした夏野だが、苦しそうに表情を歪めて俺を見つめていた。

 そんな夏野に心配そうに声をかける円香。

 って、おい、夏野。お前まさか! やっぱり飲んでいるのか!

 って、違う。夏野、お前まさか! 吐こうとしているのか!

 って、合っているけど違ぁーうっ!!

 

 俺は動揺していた。俺には夏野の考えがわかっていた。

 だって、こいつの今の表情は――

 あの強盗犯との格闘の末。俺が強盗を見逃した際、俺に食ってかかっていた時と同じ顔をしているのだから。

 それは明白な「罪悪感と自責」の表れ。自分の罪に対する苦しみの表情。

 夏野の表情が物語る結末。夏野の描くエピローグ。

 そこに夏野が救われる、いや、俺が望む『あとがき』なんて存在しない。

 続刊を待ち望む読者なんて存在しないのだ。

 だからこそ、俺は全力でも阻止してやる。こいつに続きを書かせる為に!


『――ッ!』


 俺は一瞬『貧乳』と叫ぼうと思ったが、夏野に届かないのを思い出して言葉を飲み込んだ。

 夏野の気を逸らす効果的な一言。絶大な威力を持っている、神すら操れるんじゃないかと言うくらいの魔法の呪文。

 まぁ、神は神でもハサミ魔神ですけどね。そして神の鉄槌を食らうのが常ですけどね。

 実際にソルジャーメイドとの大岡裁きの時も効果覿面こうかてきめんでしたけど。

 届かないのでは意味はない。どうするどうするどうする。


「……」


 少しだけ俺を見つめていた夏野は意を決したのか、死刑囚のような表情で口をおもむろに開いた。

 って、お前らしくねぇんだよ! お前は見る側の人間じゃねぇかよ!

 俺を見下ろして、いつもみたいに、高圧的な態度を取ってればいいんだよ!

 それはどうかと思うが、今は気にするな、俺!

 まずいまずいまずい。このままでは夏野が夏野じゃなくなっちまう。綺麗な夏野さんは勘弁だけど、綺麗な夏野さんですらなくなっちゃう。

 このままじゃ、秋山忍になっちゃう……それは素晴らしいことじゃないか。

 って、夏野じゃないなら秋山忍でもないじゃんか! それはもっと困る! って、お前誰だー!!


 俺は焦っていた。不測の事態に混乱していた。

 俺ほどの読書バカである超読書人スーパーショドク人ですら太刀打ちできない相手に驚愕きょうがくしていたのだ。

 だから本来ならば言わないような痛恨のミス。

 例えるならば、マッチョや大門さんのような、見るからに屈強の達人が、大仰おおぎょうな必殺技名を言い切って!

 ……繰り出したのが、ただの『猫パンチ』だったくらいの痛恨のミスをしてしまったのだった。


『ま、円香! 外に鮪喰が飛んでる!』

「――えっ! どこどこ?」


 うん。何言ってんだろうね……俺。混乱していたとは言え、何なの、この子供だましは。

 咄嗟に見えたのが円香の脇に置かれていた白いラケットケースだったから、つい口走っていたのだ。

 と言うより、秋山忍原稿盗難事件で指示書に書いてあった罠カラス並の知能だよね。まぁ、アレがわからなかった夏野さんには、返す言葉もありませんが。

 とりあえず、円香が円香……いや、窓の外を眺めたので全員が一斉に窓へと視線を移していた。

 とは言え、こんな子供だましで通用するような空気ではないしな。すぐに元に戻るだ――


「わー、鮪喰……はじめて、飛行特化型が見れたよー?」

『――って、あるのかよっ!?』


 円香の言葉に驚いて窓の外を見ると――本当に鮪喰が天を目指して飛んでいた。

 いや、なんで飛んでるの? おかしいよね? 調理器具なんだよね? 包丁なんだよね? それ自体、認められないけどさ。

 

 見つめる先の鮪喰は、ロケットのように下に向かって火を噴いていた。

 と言うより、形態がもう完全にロケットだし、勝手に鮪喰だけが宇宙を目指して飛んでいるし。

 誰かを乗せるとかではなく、鮪喰単体での飛行。まさに、調理器具の限界を超えようとしていた。って、規格外に超えんなよ!

 何がしたいの? それ、もうただのロケットだよね? 本当に共同開発したの? 大洗赤口って何者?

 俺は窓の外を眺めて製作者の素性と思考が理解できなくなっていた。いや、元から理解していないけどな。

 だけど、何でロケットみたいになってんだ? 一応、鮪喰って調理器具なんだよな。認めてねぇけど。

 調理に飛行なんて関係ないだろ? 殲滅とかも関係ないけどな。ついでに箒にもさ。

 そんな風に目の前の鮪喰に疑問を覚えていた俺。そんな俺の耳に、少しは普段の夏野を取り戻したのであろう、いつもの声が聞こえてきた。


「……あら、試作段階だって聞いていたけれど完成していたのね? 鮪喰……揚上天昇フライ・ハイ


 って、お前も知ってるのかよ! なんだよ、そのネーミングは! 


「ですよねー! 対揚げ物特化用巨大電動包丁。鮪喰・揚上天昇」


 円香が嬉しそうに語っていた。って、揚げ物特化とか包丁関係ないじゃん! 


「衣をつけたタネを内部に乗せて、大気圏の最上位。熱圏まで飛ばすことによって自然の熱でカラッと揚げると言う、エコな包丁として売り出すって話を聞いていたのだけれど?」


 円香の言葉に夏野が答える。

 何、そのコンセプト! と言うより、熱圏に飛ばしたらタネどころか鮪喰が燃え尽きるじゃん! 包丁に普通そんな宇宙機構の耐性ないだろ! 

 いや、あったらダメだよね。

 エコじゃねぇよ! 単なるエゴでしかないだろ!

 普通にガスの方が安いし早いよ! 


「……まぁ、落下地点が大変みたいだから、ちょっと扱いが面倒らしいんですけどねぇ?」


 苦笑いを浮かべて円香が答える。

 って、それ隕石レベルだよね? ちょっとじゃ済まないよね?

 入替わった男女が名前を聞きたくなるレベルの大惨事だよね? 

 何で君達の名は夏野霧姫と春海円香なんだろう。いや、どうでもいいけど。

 と言うか、もう打ちあがってんですけどね。今更かも知れませんね。コッチに来ませんように……。

  

 第一、今更だけど鮪喰を飛ばす必要ねぇじゃん! 

 調理人置いてけぼりでどうすんだよ! 本当に星間戦争始めるのかよ!

 と言うよりも、夏野は巨大化したハサ次郎にでも乗ってろよ! 色とりどりのハサ次郎作ってカラフルに空を飛んでろよ!

 レモネイドスキャンダルでシャイニングしとけよ! 忘れられない秘密の始まりなのかよ!

 君の運命変えるものは、図らずも言葉の力なのかよ!


『――本は読んどけ!』

「――わん!」

『――ッ!』

 

 思わず俺も、自分の子供だましを棚に上げてツッコんでいた。

 と言うよりも、久しぶりに無限アンリミテッドツッコミができる喜びでも感じていたのだろうか。

 何だよ、無限ツッコミって。

 何故かテンションが上がってフライ・ハイになっていた。いや、天には昇らないけどさ。

 昇ったら、確実に帰ってこれませんからね。さすがに大気圏に突入したら無理だと思います。

 だから、途中から自分でも理解できない言葉を発していたのだった。きっと、読素が足りなくなってきたんだな。そう言うことにしておこう。


 そんな俺の勢い余って口走った言葉に呼応するように、突然クロが一吠えしたのだった。

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