1章 黄昏色の炎(3)

 ゴミ屋の一日は、管理組合屋舎前の朝礼で始まる。

 決まった時間に点呼を取らないと、仕事をさぼるゴミ屋が多いためである。

 好天にあっても薄暗い猫の額ほどの広場に、示し合わせたようにグレー一色で統一された作業着姿の一団が集い、朝礼開始までの時間を雑談で潰している。

「見てくれや、この手。昨日瓶の欠片かけらでバスっと切っちまってよお」

 紺のキャップを被った髭面ひげづらの老体が、包帯を巻いた腕を誇らしげに掲げる。

「無理しねえで休んでりゃいいじゃねえか」

「こんなもん、かすり傷だ。男の勲章ってやつよ。休む程のこっちゃねえ。俺たちが働かにゃ、この街はあっちゅう間にごみまみれになっちまうからなあ」

「いいこと言うじゃねえか、マッつぁん!」

 マッつぁんと呼ばれた髭面を中心に笑いの輪が生まれる。

 その様子を外野で眺めていた竹林たけばやし老人は「奴隷の鎖自慢ね」と冷ややかに言い捨てた。

「ただの尻ぬぐいよ、あたしたちの仕事は」

 ゴミ屋は八つの班に分けられ、それぞれがモザイク状に分割された十八の街区のうち二つないしは三つを担当する。竹林老人が班長を務める第三班は、六番街から八番街を受け持っている。

 組合から貸与されたぼろぼろのリヤカーを引っ張って担当区域の指定捨て場を回り、各家庭や工場から吐き出されるごみを回収するだけで、一日の半分が費やされる。前の日に残らず回収したとしても、一晩のうちに街は新たなごみを生み出すのだから、ほとんど休みらしい休みが無い仕事である。

「第三班、総員三名異状無し」

 点呼に続いて、全体連絡と各班個別の注意事項とを通達するのは、猫塚という名の管理組合職員である。シングルのダークスーツをきっちり着こみ、口調は慇懃いんぎんだが温かみに欠けていた。

「あれで筋者だなんてね。時代の流れってやつかしら」

 晴史は、猫塚という男がどうにも好きになれなかった。堅苦しい言葉遣いも、皺がほとんど目立たないつるりとした顔も、黒目がちの団栗眼どんぐりまなこも、嫌悪感が先に立ってしまう。人間に化けた蛇と対峙しているような居心地の悪さを、晴史は猫塚に対して抱いていた。

「八番街から、最近ごみ収集の時間が遅いとの苦情が上がっています。苦情が増えればその分査定に影響するので、重々お含みおきください」

「他の場所の回収に時間が掛かるから、しょうがないのよ。特に六番街はひどいものよ。ごみの捨て場を守るように指導してるの? 全然守ってないじゃない。あそこの通路や屋上にどれだけごみが投げられてるか、あんたらはちゃんと把握しているの?」

 逆ねじを食わせる竹林老人に、猫塚は感情の読めない視線を返す。

「勧告は繰り返し行なっていますが、住人の良識に委ねられる問題です。当局が権限を行使して強制的に実行させるのは、諸事情により難しいというのが現状です」

「一軒一軒回るほど組合も暇じゃないからお前たちで何とかしろ、でしょ。衛生指導も肩代わりしろだなんて、虫がいいにもほどがあるわ。住人の教育指導は、あんたたちの役目でしょうが。その分、手当を付けるってなら話は別だけど、けち臭い組合に期待するほうが莫迦ばかってもんよね」

 竹林老人が憤然と言い募るも、猫塚は「ところで」とさらりと受け流し、手にしていたバインダーを繰った。

「本日は一件、死体運搬の依頼が入っています。いかがなさいますか?」

「やるわ」

 竹林老人が即答した。

 週に一回や二回の死体運搬要請は、声が掛かった段階では打診にすぎない。断ることも可能である。竹林老人がそうしないのは、運搬作業に支給される特別手当のためであった。それゆえ組合も、この老人へ優先的にロク運びの仕事を回すようになっていた。

 面白くないのは他のゴミ屋である。死体の回収は一体いくらで賃金が上乗せされるため、競争率が高い。組合に贔屓されている竹林老人の班を陰でやっかむ声は小さくなく、肩身が狭いことこの上ない。

 ――この、業突く張りのオカマジジイ。

 竹林老人の飄々ひょうひょうとした横顔を、晴史は恨みがましく睨んだ。

 猫塚は「これを」と、折り畳まれた黒いレインコートを三着、竹林老人に手渡した。

「ロクを運ぶたびに支給してくれるのは有り難いけど、黒ってのはどうにかならないのかしら? ハロウィンの仮装じゃあるまいし、死神になったみたいでぞっとしないわ」

「規則ですから」

 竹林老人のぼやきに、猫塚が素っ気なく返す。

「四番街の三番ビル、438号室。同居人あり。遺骨は廃棄で構わないそうです」

 バインダーから書類を抜いて竹林老人へ手渡すと、猫塚は「では、これで」とすら言い置かず、精巧なロボットのごとき足取りで組合屋舎へ引き戻った。

「つくづく、人間味のない男ね。本当に血が通っているのかしら」

「まあまあ。ねちねちやられるよりは、いいじゃないか」

 受け持ち地域への道中、ぷりぷりする竹林老人を晴史が適当に宥めた。

 ぐんぐん高度を上げる陽光は、路地を取り囲むビルの群れに撥ね付けられて、おんぼろのリヤカーをがたぴしと六番街を目指して曳く一行には満足に届かない。街のあちこちで工場の機械が唸り、埃で白くなった窓ガラスをびりびりと震わせる。

 五番街に差し掛かった辺りで、二人組の女とすれ違った。蟷螂かまきりと狸を思わせる容貌である。剥き出しの肩と首筋から、汗と脂と化粧品が混ざり合った酸っぱい臭いが立ち上る。闇鍋かな、と晴史は当たりを付ける。

 ――あの子も今頃、家に帰る途中だったりするのかな。

 似顔絵描きの少女を、一瞬だけ頭に思い描いた。

 コンクリートブロックをコの字に積み上げただけの簡素なごみ捨て場には、堆くごみ袋が積まれていた。リヤカーが満杯になりそうな量ではあるが、住人の数を考えればまだまだ少ない。

「危ないっ!」

 出し抜けに樹戸が叫ぶ。

 ほとんど間を置かず、三人のすぐ近くにごみでぱんぱんに膨らんだ袋が降ってきた。

「こらー! ちゃんとここまで下りてきて捨てなさいよっ!」

 竹林老人が怒声を飛ばすと、遙か上の階で頭が引っ込むのが見えた。潰れた袋からは大量の丸めたティッシュが溢れ、汁にまみれた魚の骨やら潰れた歯磨き粉のチューブやらが路上に散乱している。

「苦情だの何だのって、この有様を見てから言いなさいってのよ」

 ぶつくさ言いながら、竹林老人は散らばったごみをトングで拾い始めた。晴史と樹戸は、捨て場に積まれたごみの袋をリヤカーに放り込んでいく。

「積めるだけ積んだら、あたしは各階の通路を回るから、ハル坊は樹戸ちゃんと一緒に建物の隙間を見て頂戴」

「中庭は?」

「この間片付けたばかりだから、今日はいいわ」

 捨て場のごみ袋をかたし終えると、三人はそれぞれの持ち場へ散った。

 規則に従わずに投棄されたごみは、通路や屋上、リヤカーが通れないほど狭いビルとビルの隙間、中庭や路上など至る所に散在する。放っておけば悪臭や感染病の原因になるし、何より自らの不逞を棚に上げた住民たちからの苦情が組合のデスクに積み上げられる。苦情が重なれば査定に響き、ただでさえ少ない賃金がごっそり減らされる。ごみを放っておいて割りを食うのは、ごみを収集する晴史たちなのである。

 劣化して黒ずんだ壁の隙間に入り込むと、肉を焦がしたような臭いが鼻を突いた。壁の向こう側にあるのは、黒焼きを主に扱う漢方薬局である。

「なんだってまた、こんな狭い路地に入らなきゃならないんだ」

 樹戸のぼやきが澱んだ空気に漂う。二人が入り込んだ路地は、大人一人が横歩きになってようやく通り抜けられる程度の幅でしかない。剥き出しの配管と電線が束になって頭上を塞ぎ、わずかな光が射し込むのさえも拒絶している。

「イタギリはどこもこんな感じの細路地だらけだよ。路地を歩いてたはずが、いつの間にか建物の通路に入り込んでいたなんてのもよくあることさ」

 前を向いたまま、晴史が答えた。

「圧迫感がすごい。まるで洞窟を進んでいるみたいだ」

「財宝の山は無いけどね」

 樹戸が不快を訴える狭い暗闇は、晴史にとって安寧と平穏をもたらしてくれる空間だった。鼻をつままれても分からない暗闇に身を置くことで、彼は無上の安らぎを得る。

 晴史の母は、自宅を仕事場にする闇鍋だった。立位での行為を疎んじる客を狙う戦略を選択したのは、彼女の器量が十人並みよりさらに劣っていたためであった。街灯の光が届く明るい場所に出た途端に逃げられたり、首尾よく家へ連れ込めたとしても値切られることも稀ではなく、且つ且つ一家が食っていける程度の稼ぎしかなかった。

 母が客を自宅へ連れ込むと、晴史は命じられずとも押入れに閉じこもった。拒否したり、事の途中で這い出そうものなら、目から火花が散るほど殴られた。

 押入れの晴史は、父と母にとって「どこにもいない子ども」だった。襖戸を閉めれば、二人の世界から晴史の存在は綺麗さっぱり消える。

 誰にも相手にされない代わりに、誰からも叱られない。殴り飛ばされることもない。

 狭苦しい押入れはいつしか、避難所から心安らぐ場所へと変わっていた。

 昂ぶりを迎えた客に尻を激しく叩かれた母が嬌声を上げても、母がかつてはうっとりと愛を囁いたであろう口で父を罵っても、晴史にとっては全てが遠い世界の出来事であった。母が昼夜を分かたず客を取るようになってからは、晴史は暗闇の中で胎児のように身を丸めて一日の大半を過ごした。

 彼が暗闇に逃げ込んでいる間、父は何をしていただろうと記憶を探ったが、部屋の隅で立て膝をして、母の「仕事」を濁った目で見つめながら安酒を呷る父の姿しか思い出せない。機械油に汚れながらも誇らしげな顔で帰宅する父は、二人暮らしを始めてからの数年間にしか居なかった。

 ――母ちゃんがいた頃、父ちゃんはどうして働こうとしなかったんだろう。

 鼻腔びこうに忍び込んだ生ごみの臭いが、晴史を現実へ引き戻した。

 路地の闇からはとうに抜けだしていた。見上げた空は、よじれ合うように建ち並ぶ長細いビルの壁と、その間を縦横に走る電線とで細切れにされている。薄暗い袋小路には、黒い汁まみれの潰れたごみ袋が積み重なっていた。

「なるほど、待ってるのはお宝じゃなくて生ごみの山、か」

 樹戸が力なく呟いた。

「ぼやいても始まらないって。早くやっちゃおう」

 暗闇の通路を何度か往復し、リヤカーに積んであった袋の山にどろどろの生ごみを追加する。狭い場所へ入り込んでかき集めれば、ひとつの区域だけでリヤカーは山盛りになる。これを街の西端にある集積場へ持っていけば、組合が契約している外部の回収業者がパッカー車で乗り付けて、残らず引き取る手筈になっている。

「ここらは住宅街や工場が多いから、まだましな方さ。三番街や十五番街は医者が多いから大変なんだ」

「大変って?」

 額にびっしり玉の汗を張り付かせた樹戸が、荒い息で訊ねた。

「使用済みの注射針や、血膿ちうみがべったり付着したガーゼや包帯なんかを、他のごみに交ぜて出すんだ。運んでる最中に、うっかり怪我をしようものなら大事さ。悪い菌に感染して、肘から先を切り落とす羽目になった人もいるんだから」

「廃棄物処理法……なんて、眼中に無いか」

「ギネが入っているビルの担当はもっと悲惨なんだ」

「ギネ……産婦人科だっけ」

 晴史は「よく知ってるね、樹戸さん」と意外そうな声で言った。

「ここらの商売女は、仕事の時にコンドームを使わない人が多いんだ。そっちのほうが客が喜ぶからね。で、誰の種だか知れない子どもを孕んじゃうってわけ。腹が膨れれば、それだけ商売もやりにくくなる。産んじまったら、なおさら身動きが取れなくなる。よほどの子ども好きでもなければ、ギネのお世話になるってわけさ」

 樹戸はもはや、げんなりした表情を隠す気も失くしたようである。

「晴史くんみたいな子どもがそんな事情に通じてるなんて、ひどい話だ」

「それが当たり前になってるだけだよ」

 自宅で出産してしまった女性が、へその緒が付いたままの赤ん坊をごみと一緒に棄ててしまうことがしばしばあるのは、黙っておくことにした。


 担当地域と集積場を三回往復し終わると、午後一時を少し回っていた。

「ちょっと遅くなったけど、お昼にしましょ」

 悪臭に中てられて胃が重いのか、樹戸は惣菜屋でハムサラダしか買わなかった。レジに立つ店主が、樹戸から受け取った紙幣を鼻先へ近づけた。

「あんた、この街に来てまだ二、三日ってとこだね」

 ずばりと言い当てられて狼狽える樹戸に、店主は「金に染み付いた匂いで分かるんだよ」と得意顔で笑った。

 晴天の日は昼食を屋上で摂るのが習わしになっている。足腰が丈夫な竹林老人は、すたすたと階段を登る。エレベーターなる文明の利器は、街に数えるほどしかない。へたり込みそうになりながらも懸命に足を動かす樹戸の腰を、晴史は後ろから押してやった。

 屋上へ出ると、ぎらつく太陽が地上を灼いていた。コンクリート床の熱さに耐えながら、三人は車座になって弁当をつついた。

「え、樹戸ちゃんってば、小説の賞をもらったの? すごいじゃない!」

 箸を止めて、竹林老人が驚きの声を上げる。

「賞っていったって、小さい出版社の賞です。それも一番下の奨励賞ですし」

「関係無いわよ、賞の大きい小さいなんて。出版のプロの眼鏡にかなったことには変わりがないじゃない。見直しちゃったわ」

 竹林老人の口調が、色男に惚れた年増女のごとく柔らかい。

 樹戸が照れ臭さを紛らわすかのように笑みをこぼす。

「じゃあ、いずれ樹戸ちゃんが書いた小説が書店に並んだりするわけ?」

「まだ形にはなってませんけどね。編集部に持ち込んでる最中です。そのために前の仕事は辞めたんです」

「手荷物の中に、古いノートパソコンがあったものね。インターネットも繋がらないってのに何に使うのかしらって思ってたけど、あれは執筆用だったのね」

 樹戸は竹林老人の家に厄介になっている。どういう行き掛かりでそうなったのか、晴史は何も聞かされていない。

「頑張んなさいよ。あたしも出来る限りの応援はするわ。もっとも、仕事は別よ。手を抜いたらただじゃおかないからね」

 樹戸はサラダを口に運んで、「もちろんです」と頷いた。

「けどまあ、定職にも就かず小説を書き続けることで世間の目が気になるってのなら、この街はうってつけなのよね」

 レタスを噛みながら、樹戸が「何故です?」と言いたげな視線を竹林老人へ向けた。

「イタギリはね、世間から爪弾きにされた人たちの拠り所なの。ハル坊みたいな生まれながらの住民じゃなければ、たいていが訳あり。すねきず持つ身もいれば、社会のレールから脱線したエリートの成れの果てもいる。人様には言えない、墓まで持っていくつもりの秘密や過去を抱えてる人なんて大勢いるわ」

 でもね、と竹林老人は頬を緩めた。

「だからこそ、住み慣れてしまえば離れがたいのよ。多少のいざこざが起こるのはしょうがないとしても、他人の事情を必要以上に詮索しないっていう暗黙の了解が出来上がっているから。社会のはぐれ者にとっては、ぬるま湯みたいに居心地がいいの」

「竹林さんも、知られたくない過去をお持ちなんですか?」

「あんた、訊きづらいことをずばっと訊いてくるわね。ちょっと無神経すぎない?」

 竹林老人の声音が低くなり、樹戸はあたふたと頭を下げる。

「ああ、すみません。よく言われるんです。気を付けているんですけど」

「まあいいわ。隠すほどのことでもないしね」

 竹林老人は不自然に赤い鮭の切り身をほぐし、一切れを頬張った。

「ほら、あたしってば男のくせに中身は女でしょ。今でこそ理解されつつあるけど、あたしが若い頃は偏見が強くてね。迂濶にカミングアウトしようものなら、どんな目で見られるか。そう考えると、親にも友人にも明かすことができなくて、随分と悩んだものよ」

 竹林老人はペットボトルの焙じ茶を一口飲んだ。

「だから、あたしと同じように体と心のギャップを抱えている子たちが輝ける場所を作ってあげたくてね。家を飛び出してゲイバーを始めたの。店は繁盛したわ。今思えば、あの頃があたしの絶頂ね」

「絶頂ということは凋落があったわけですよね。何があったんですか?」

 不躾ぶしつけな質問をぶつけた樹戸を、竹林老人はぎろりと睨み付けた。

「言ったばかりでしょ、余計な詮索はするな、て」

「すみません。思慮に欠けていました」

 頭を掻く樹戸の顔を覗き込みながら、竹林老人は顔の前で拳を固めた。

「もうあたしは何もかも手遅れだけど、あんたの道はまだまだ先まで続いている。情熱だけじゃ夢は叶わないけれど、情熱が無ければ道半ばにして膝を折ることになるわ。不撓不屈ふとうふくつの闘志を燃やして、石にかじりついても這い上がってみせなさいよ」

 晴史は竹林老人の汗臭い言葉を半信半疑で聞いていた。この老爺の身の上話は幾度か耳にしているが、その内容は毎回違う。以前に聞いたのはショークラブで働く外国人女性の斡旋屋だったし、その前は地面師で鳴らしたと豪語していた。晴史は竹林老人の本当の過去を知らない。口八丁でどうとでも世渡りはできそうなのに、イタギリに留まっている理由すら明らかではなかった。

「ここは、地べたを這いずりまわるような生活に甘んじている連中だらけ。ちっぽけな喜びがそこらに転がっていやしないかと俯きながら探してるだけ。這い上がろうって気概も無い。すっかり卑屈になって、上を向こうとすらしないのよ」

 竹林老人の視線が空を向いた。

「莫迦よねえ、こうして高い場所に来れば、いくらでも広い空を見られるのに」

 三人の頭上には雲一つない盛夏の碧空へきくうがどこまでも広がっている。暴力的な陽射しが、鉄とコンクリートで築かれた灰色の密林をじりじり焦がす。

 東を川に、残る三方を幹線道路に囲繞いにょうされたおよそ六百メートル四方のイタギリには、三万に迫る数の住人がひしめめき合っている。衛生環境と同様、街の治安もまた決して良いとはいえなかったが、住民の大半は毒にも薬にもならぬ有象無象である。

 手配師の差配に一喜一憂する日銭暮らしの肉体労働者。得意先の買い叩きに頭を抱える工場主。濁った油で屑肉くずにくを炒める定食屋。米びつの中身に溜息をつく主婦。日本語のテキストをめくる異国の青年。やっとこで患者の歯を割る無免許の歯科医師。鶏ガラのごとく痩せ細ったテレビだけが生き甲斐の老人。

 世の現実を知らない子どもたちは無邪気に路地を駆け回り、貧しい現実を知った娘達は儚く短い春を切り売りする。開いた花がとうに萎れた女たちは、それでもまだ自分が花の盛りと信じてしぶとく街角に立ち続ける。その隙間を如才のない連中が儲け尽くで立ち回り、彼女たちがせっせと貯めこんだ蜜をさらっていく。

 イタギリという名の悪臭と汚物にまみれた鳥篭とりかごは、数えきれない日常と思惑と欲望をぶら下げて、世間を飛び渡ることに疲れた者たちを拒むことなく受け容れる。

 ――空を見る余裕なんて、どれだけの人が持っているんだろう。

 晴史は空を仰いだ。

「さて、ぼちぼち午後の仕事に取り掛かりましょ。上を見るのも結構だけど、夢だけじゃお腹は膨れないわ。しっかり働いて稼がなきゃね」

 弁当の容器をビニール袋に放り込んで、竹林老人がせかせかと立ち上がった。

 サラダを三分の一ほど残した樹戸に「肉体労働は食べるのも仕事のうちよ」と竹林老人が説教する声を聞き流しながら、階段を一階まで降りる。幅一メートルにも満たない細路地の頭上にはコンクリートのひさしが張り出し、陽の光こそ届かないものの、まとわりつく熱気がねっとりと肌に絡みつく。

「はいはい、お嬢さんお通んなさい」

 竹林老人と樹戸が体を横にして壁に張り付いた。

 白い人影が小さく頭を下げる。

 長い黒髪。儚げな顔。ほっそりした体に白いワンピース。手にしたスケッチブック。

 極楽通りで見かけるあの似顔絵描きの少女が、晴史のすぐ目の前にいた。

 心臓が、どくん、と跳ね上がった。

 おたおたと少女に道を譲る。これほど近くで彼女を見るのは初めてだった。すれ違いざまに、甘酸っぱい香りがふわりと鼻先を掠めた。どくんどくんと、鼓動はますます速くなる。

「ハル坊、何してんの?」

 竹林老人が急き立てる声で晴史は我に返った。路地の先へちらりと目を向けると、長い髪を揺らす少女の後ろ姿は角を曲がろうとしていた。

「すごい汗かいちゃって、どうしたの?」

 竹林老人の声は、晴史の耳には入らなかった。

 明るい路地に出てもなお、心臓は早鐘となって彼の胸を打ち続けた。

 ぬるい風が、汗でじっとりと濡れた体に心地好い。

「ねえったらハル坊、あんた本当に大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。何でもないよ」

 竹林老人に胸の内を知られるのが恥ずかしかった。

 鎮まりきらない鼓動を感じながら晴史は、スケッチブックを携えた彼女がこれから何を描こうとしているのかと思いを巡らせた。











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