1章 黄昏色の炎(2)

 竹林たけばやし老人は街の名をイタギリと発音したが、板切町は本来イタキリと読む。だが、慣用読みが広まったせいで、正式な名称を使う者はほとんどいない。

 高さも形状も不揃いのビルが寄木細工のパズルのようにほとんど隙間なく建ち並ぶ街は、どこもかしこも昼なお薄暗く、一日を通して太陽の光が届かない路地も数多い。どぶと糞尿と生ごみと黴の臭いが渾然一体となって漂う中で繰り広げられる鼡やゴキブリの運動会は、街の至る所で見ることができる。

 脂っこく甘ったるい匂いが漂う十番街マーケットを抜けると、再び夕陽の光が当たる路地へ出た。開け放たれた窓から、野球中継の音声や人の笑い声が降り注ぐ。

「しかし、本で読むのと実際に見るのとは大違いですね」

 樹戸は断崖のごとく両脇にそびえるビルの列を見上げながら、呆気あっけに取られている。その顔には、いくらか赤みが戻っていた。

「実話系雑誌では『法律が通用しない街』とか『脱出不能のアジアン・カオス』なんて取り上げていましたけど、殺伐としているようには感じられませんね」

「雑誌の売り上げを伸ばすために色を付けてんのよ。無法地帯なんかじゃないし、踏み込んだだけで命が獲られるわけでもない。ただ、外の世界とはルールが違うってだけよ」

 階層ごとに壁のせ具合が異なる高層住居ビルの窓の一つ一つに、日暮れのひと時が流れていた。太った主婦が慌ただしい手付きで洗濯物を取り込んでいる。機械が稼働する重々しい音が壁を震わせる。L字に折れ曲がった錆だらけの煙突からたなびく炊煙が、空っぽの胃を刺激する匂いを路地に振り撒く。

「これ、全部人が住んでるんですよね?」

「店も工場も、なんもかんも一緒くたよ」

 イタギリには、住居区や商業区といった明瞭な分節が存在しない。居住用と商業用の物件が雑駁ざつばくに詰め込まれている建物が街の大半を占める。

 ペンシルビルの一階ではゴム加工の機械が唸り、二階には一般向けの住居と金貸し業者が入り交じる。三階の床屋が客の髪を刈る隣室では身分証明書が偽造され、四階では八卦見はっけみが客に怪しげな未来を売っている。五階の若夫婦が乳繰ちちくりり合っている頃合いに、六階では誰かが誰かに命を奪われる。七階の一室に置き去りにされた赤ん坊は乳を求めて泣き喚くが、八階の窓辺で夕涼みをする老婆の耳には届かない。

「さっき筋者って言ってましたけど、やくざが街を取り仕切っているって噂は本当なんですか?」

「噂じゃないわ、本当よ」と、竹林老人はあっさり返した。

「街の管理組合からして、元を辿ればやくざ者が作った組織だもの。この街で商売を構えている人間は、税金がわりにみかじめを納めているわ。鼻血も出ないほど搾り取られるってわけじゃないけど、支払いを渋ったら後が怖いからね」

「じゃあ、僕らゴミ屋は、やくざに雇われているってことですか」

「そういうことね。けど、それが何?」

 上目遣いの竹林老人に強い眼差しで射られ、樹戸は押し黙る。

「警察は人手を惜しんでか、この街から目を背けてるんだもの。筋者だろうが何だろうが、誰かが仕切らないと、それこそ本当に無法地帯になっちゃうわ」

 腰が痛いだの肩が上がらないだの絶えず不調を訴える竹林老人ではあるが、柔弱な若造を威圧するに足る貫禄に満ちている。とりわけ、しわの奥で光る双眸そうぼうに睨み据えられると、気心の知れた晴史はるふみであっても喉の奥を絞られたように息苦しくなる。

 もしかして、チンさんも筋者なんじゃないかな。

 疑念を抱いて本人にそれとなく訊いてみたところ、「そんなわけないでしょ。やくざがごみや死体で日銭を稼ぐなんて」と一蹴されたことを晴史は思い返した。

「とは言っても、程度の大小はあれど揉め事は絶えないし、暴力沙汰なんて日常茶飯事。麻薬に売春、賭博といった違法がはびこっているのも事実よ。けどね、一つだけ外と比べて良いことがあるのよ」

「何ですか、良いことって?」

「交通事故が起こらないのよ。車を乗り入れようにも路地はどこも狭すぎるし、バイクは買ってもすぐ盗まれるから誰も持とうとすらしないわ」

 目的地の古ビルが三人の目の前に迫っていた。周囲のビルよりも格段に背が低く、外壁は炭を擦りつけたかのように煤けている。窓のガラスはただの一枚も残っていない。狭い通りを挾んだ店先から、モツ焼きの香ばしい匂いが流れてきた。

「焼却棟よ。ここでロクを焼くの。昔はごみ焼きの施設だったけど、人が増えすぎて処理が追い付かなくなったから、今はロクを焼くためだけに使われてるのよ」

 扉の無い入り口はスロープになっていて、リヤカーごと中へ入ることができる。一階部分は間仕切り壁の一枚すら無い空間が広がり、奥の壁際に旧式の大型焼却炉が一基だけ据えられている。炉の太い煙突は天井を突き抜け、イタギリのどの建物よりも高く伸びている。床も天井も内壁も、外壁同様に黒一色で潰され、素通しの窓枠の並びからは、暗い夕暮れに沈む路地が覗けた。

「焼却炉のためだけの建物ってわけか」

「元は住居用だったんだけど、火事で全部焼けちゃったらしいんだ。それを再利用しているんだよ」

 薄暗い室内を四顧する樹戸に、備え付けのランタンに灯りを入れながら晴史が答える。

「今は夏場だから誰も居ないけど、冬場は浮浪者たちが入り込んできて寒さを凌ぐこともあるんだ。俺たちゴミ屋以外は誰も使わないから、都合がいいんだ」

「浮浪者もいるのかい、この街には?」

「東の河原に住んでるよ。興味があるなら、今度見に行ってみたら」

 炉の扉は大人が中腰で悠々と潜り抜けられるほど大きい。炉の底部にはスライドレールが取り付けられ、キャスター付きの鉄板が格納されている。把手を掴み手前に引っ張りだすことで、無理な体勢をとらずとも楽に死体を炉へ納めることができる。

「これが操作盤よ。緑のスイッチで点火、赤いスイッチは消火。ダイヤルで温度調節。適温に設定されているから、こっちはいじる必要はないわ」

 点火操作は、竹林老人が手ずから行うことになっている。ボタンの位置は把握しているので晴史も操作はできるが、老人は決してこの少年に操作を任せようとはしなかった。

 晴史は緑と赤をうまく見分けられない。色を知覚する錐体すいたい神経のうち、Lー錐体系の機能不全によって引き起こされる1型2色覚、俗に赤緑色盲と呼ばれる色覚異常のせいである。彼がロク運びの仕事に早い段階で慣れることができたのは、血や肉の生々しい赤色を知覚できないこの異常のおかげといえる。

 炉の小窓から黄昏色の炎を見るたび晴史は、この先鮮やかな色彩を楽しむことなどできないのかもしれないな、とぼんやり考える。幼い時分、まだ母が家にいた頃の世界はもう少し賑やかだったように思う。

 火が入ってから一時間と経たず、悪臭の塊は残らず骨になった。

「焼き上がった骨はどこに持って行くんですか?」

「棄てるのよ、川に流すか穴を掘って埋めるかして」

「墓に納骨したりしないんですか?」

「墓地なんて無いわ。そんな場所の余裕が、この街にあるわけないじゃない。棄てる前に一番街のお寺でお経をあげてもらうかもらわないか、それだけの違いよ。独居死や一家全滅で遺族がいない場合は、焼いたらそのまま棄てるのが通例よ」

「だけどそれは死体遺棄――」

「いいかしら、樹戸ちゃん」

 竹林老人の声色が、途端に硬くなる。

「あんたは色々物事を知っているみたいだし、言わんとすることもお説ごもっともよ。ただね、杓子定規しゃくしじょうぎがすぎるのよ。世間一般の常識や正論がいつなんどきどこででも通用すると思ったら、大間違い。郷に入っては郷に従え、ていうでしょ。頭でっかちで小難しい理屈を並べたところで、ここのルールから外れていれば、誰も耳を貸さないわよ」

 竹林老人の口振りは冷淡なものだったが、軽くなった樹戸の口をまたぞろ閉じさせるには十分だった。悄然しょうぜんうつむくく樹戸に、竹林老人が溜息をつく。

「初日だし、今日はこれくらいにしておくわ。ただ、物を言う時はよくよく考えてから口を開きなさい。言葉一つ間違えるだけで大怪我をすることだってあるんだからね」

 がっくりと落ちた樹戸の肩を、竹林老人は「せいぜい気をつけなさいな」とぽんぽんと二度叩いた。

 最後に竹林老人は、手にしていた消臭スプレーを全員の体に吹き付け、「じゃあ、今日はこれでお終い。お疲れ様」と明るく締め括った。

「ハル坊、リヤカーと骨の片付け、いつも通りお願いね」

 リヤカーの返却は晴史の仕事である。そうでなくとも、新入りの樹戸に任せるのは心許ない。複雑に入り組み曲がりくねったイタギリの路地は行き止まりも多く、街の地理に明るくない人間であればたちまち迷子になってしまう。

 竹林老人と樹戸が肩を並べて路地の向こう側へ消えるのを、晴史は焼却棟の前で見送った。ぴんしゃんと歩く竹林老人が何事か言うと、歩くのも億劫おっくうだと言わんばかりに靴底を引き摺る樹戸が貧乏臭く背中を丸めたままへこへこと頭を下げる。遠目からでも、竹林老人が何事か訓諭を垂れているのは、容易に想像がついた。

 ――大丈夫かな、あの人。

 樹戸を気にかけつつ、晴史はリヤカーを曳き曳き管理組合を目指した。

 日はとうに沈んでいる。ビルに切り取られた狭い空に張り付く紺色の夜を、塒から飛び立ったばかりの蝙蝠こうもりの群れが横切っていった。

 晴史は夜歩きが好きだ。街灯が無ければなお好ましい。太陽が去って沈んだ色に包まれた世界は、赤と緑が曖昧な彼に優しく寄り添ってくれる。

 いくつかの曲がり角を経て行き当たったのは、いくぶんか幅員が広い路地だった。それまで通ってきたうら寂しい路地と違って、灯りと人の往来が多い。ビルの壁は等間隔に設置された街灯の黄蘗きはだ色にぼんやり照らされ、『料理』『パブ』『玩具おもちゃ』『映像』『ポーカー』『HOTEL』などと書かれた夥しい数の吊り看板が競い合うようにして通りに突き出ている様は、祭りの夜店にも似た非日常的な情緒を漂わせている。

 通称、極楽通り。イタギリの目抜き通りである。

「この街は初めて? ああやっぱり。だって顔に書いてあるもの。どこに行くか決めてるの? なに、決まってないって? ふらふらっとそこらの店に入っちゃったりしたら、そりゃあ危ないよ。不味い酒と出涸らしみたいなババアで間に合わせて有り金ふんだくろうって阿漕な連中が、手ぐすね引いて待ってるもの。その点うちは安心安全。酒も旨けりゃオネエチャンも別嬪揃べっぴんぞろい。せっかくイタギリに来たなら、楽しんでかなきゃ損だ。お一人様一時間で四千円ポッキリの明朗会計。一見さんだけの出血サービスだよ!」

 ポン引きの土器声が景気よく路地に響き渡る。極楽通りは毎夜、街の外からやって来る男たちで賑わう。外部の人間、とりわけイタギリに慣れていない人間は、面相や歩き方で見分けることができる。安っぽい服で地元民に扮したり、いかにも通ぶった風を装ったりしていても、品定めするような目付きまでは隠しきれない。足取りもどこか浮ついている。『外の世界からねぎを背負ってやって参りました』と書かれた札を首から下げているようなもので、ポン引きにとっては、まことに有り難いメルクマールとなる。

 料理屋から流れ出す旨そうな匂いが鼻をくすぐる。街の外ではおいそれと口にできない珍しい肉を扱った料理もまた、イタギリの名物の一つである。

 映像屋の看板を掲げているのは、無修整ポルノやスナッフビデオといったイリーガルな映像を扱う店である。パソコンや最新機器が苦手な助平親父に交じって、プレミアムが付いた発禁物を鉄の草鞋で尋ねる若い客の姿も見られる。

「セクス、一回六千円。シャワー無いけど、どうデスカ?」

 浅黒い肌を惜しげもなく晒した若い女が、機械のように同じ文言を延々と繰り返して通行人に媚態びたいを振りまいている。その隣では、豊満な谷間を見せびらかす若い女に中年男が鼻の下を伸ばしている。ビルの入り口で若い黒服が、厚化粧の娼婦に煙草の煙を吹きかけられて縮こまっている。街灯の下では年増の娼婦たちが渋い顔を突き合わせて、何事かを小声で話し込んでいる。

 売娼はイタギリの主要産業の一つであり、営業形態によって四つに大別される。

 ひとつは、筋者が経営する娼館に所属する「箱入り」である。客は箱と呼ばれる待合所で女を選び、同列経営のホテルの一室でサービスを受ける。いずれも垢抜けた美貌揃いであり客を悦ばせる術を十二分に体得しているが、その分払う料金も安くはない。

 路地に立って客を引く街娼は、明るい場所で色目を使う「野良花」と、暗い場所から道行く男にそっと誘い文句を投げる「闇鍋」とに分類される。街娼は地回りに上納金を納めてはいるものの、ホテルを使わせてはもらえず、もっぱらビルの陰や自宅に客を連れ込んで事に及ぶ。根無し草ゆえの気楽さからか、サービスの質はおしなべて高くはない。殊に闇鍋は決して通りの明るみに出てこようとせず、「鍋が苦いか旨いかは、つついてからのお楽しみ」とうたわれるほど容姿の当たり外れが大きい。

 路面にシートを敷いて店を広げているのは「物売り」である。箱入りや街娼のほとんどが成人の女性であるのに対し、物売りは年端もいかない少女ばかりである。隠語通りに安っぽい紳士用品や造花を売る少女もいれば、靴磨きの少女もいる。だが、それらの売り物はあくまでもお通しで、開きかけた蕾のような自らの肉体こそが彼女たちの主力商品である。

 物売りたちは、自分からは決して声を掛けない。それは彼女たちの処世術であり、不文律でもある。商売敵の街娼たちに睨まれたら最後、執拗な嫌がらせや暴力で極楽通りから排除されてしまうためである。

 ――今日は、いるな。

 晴史の視線が、ビルの壁に背中を押し付けるようにして座る、似顔絵描きの少女へ吸い寄せられる。晴史とさほど違わない年恰好である。あどけなさを留めつつも透明感のある整った顔立ちに、背中まで伸びた髪の黒が映える。彼女は涼しげな目を雑踏に向けながら、絶えずスケッチブックへ鉛筆を走らせている。精一杯の背伸びをして艶姿あですがたを繕う物売りたちの中にあって、彼女の服装は色気のいの字も無く地味だったが、一頭地を抜く端麗な容姿と相俟って、かえって周囲の目を引いていた。時折見せる、手を止めて空を仰ぐ姿は、地面に腰を下ろして羽を休める天使を連想させるほどの純麗に満ちていて、晴史の胸を高鳴らせた。

 ポン引きや通行人たちから邪魔だと言わんばかりに睨まれると解っていても極楽通りを使うのは、ひとえに彼女を見たいがためである。折良く彼女の姿を認めることができた日は、仕事でへとへとに疲れていても足取りは軽くなった。

 恰幅のいい男性が少女の前にかがみ込み、声を掛けていた。

 何でもない風を装いながら、晴史はわざと車輪の音を大きく立てて肉欲で溢れた路地の只中を突っ切る。向かいから歩いてきた二人組の男が、嫌な顔を見せながらも道を譲ってくれた。

 似顔絵描きの少女が物売りであることは疑いようもなかったが、晴史にはそれを確かめるだけの度胸も、彼女を買うだけの金も無い。ゴミ屋の仕事で得られる賃金は、イタギリでなければ食い詰めてしまうほどに低い。大家へ光熱費込みの家賃を支払ったら、あとは細々と食っていく程度の金しか残らない。普段身に着けている作業着にしても穴だらけで、いくら洗っても落ちない汚れと垢が生地に染み付いている。

 ――こんな汚らしい態じゃ、金があっても相手にしてもらえないよな。

 どうにかして親しくなりたいが、その術が分からない。ゴミ屋を五年続けて仕事の腕は培われたが、まだ彼は恋の仕方を知らなかった。

 極楽通りから幾つか角を曲がり、イタギリの管理組合へ到着した。本部は街の中心からやや東に外れた場所に建つ木造平屋の屋舎である。古くはあるが普請は凝っており、門前の植栽も手入れが行き届いている。『板切町自治管理組合』と揮毫された飴色の看板が、正面入り口の脇に据え付けられている。屋舎の前には、がらくた寸前のリヤカーが整然と並んでいる。ぽっかり空いた所定の位置にリヤカーを片付け、晴史は螢光灯がちらつくエントランスをくぐった。

 管理組合事務所では、机を四つつなげた島で「事務員たち」が書類と格闘していた。晴史が書類を提出すると、耳に何個もピアスをぶら下げた若い男がしかめ面で受け取る。「早く行け」と言わんばかりに手で追い払われ、晴史はそそくさと事務所を辞した。

 ――ああ、そうだ。骨を棄てに行かないと。

 組合の屋舎を出て、晴史はすぐ近くを流れるどぶ川へ向かった。明るい時間帯であれば東の川で流すところだが、暗い中を河原まで行くのが面倒だった。

 生臭い水を湛えたどぶ川は、ところどころで暗渠になりながらイタギリの街を細かく分断している。晴史は周囲を見渡して誰も通り掛からないことを確認し、真っ黒の水面に袋の中身を撒いた。見られたところで晴史の行為を咎める者などイタギリにはいないが、手を抜いたことへのやましさが晴史の挙動を不審にした。数時間前まで腐肉に包まれていた白い骨片は、数度瞬きをする間に汚水のうねりへ沈んでいった。

 帰りしなに食料品店へ寄ってから、ビルの七階にある自宅へ帰り着く。父はまだ仕事から帰宅していないようであった。作業着を脱いでから、六畳の茶の間とひと繋ぎの狭い台所で夕飯の支度に取り掛かった。父と二人きりで暮らすようになってから、晴史は家事全般を受け持っていた。

 野菜をまな板に並べ、端から順に皮を剥いて乱切りする。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、白菜。包丁の刃がまな板を打つ音に、両隣の生活音が重なる。

 右手の壁からはニュースを読み上げるテレビキャスターの声。

 左手のバスルームを突き抜けて届くのは幼い子どもたちの諍い。

 赤ん坊の泣き声が天井から覆いかぶさる。

 上の階には年若い夫婦が入居していたが、二人が子を儲けたことは教えられずとも知っていた。無自覚的に伝播する音によって丸裸にされるプライバシーの価値は、イタギリではちり紙のように軽い。

 鍋を弱火に掛け、晴史は開け放った窓の近くに腰を下ろす。防犯の鉄柵が取り付けられた窓からの眺めは好ましいとはいえなかったが、ゆったりと流れ込んでくる夏の夜風を楽しむには十分だった。

 微風を肌に感じながら、読みさしの本を開く。少年が苦悩の中で成長する過程を描いた、よくある青春小説ではあるが、晴史はこれを時間を掛けて丹念に読んでいた。

 活字を追う時間は、晴史にとって掛け替えのないひと時である。

 晴史は街の私設学校すら出ておらず、満足に文字も読めなかった。彼が本を読むようになったきっかけは、近所に住む子どもに絵本の読み聞かせを請われた際、文章が全く読めず苦い思いをしたことにあった。何年も掛けて文字と悪戦苦闘するうち、同年代の少年に引けをとらない程度にはどうにか読めるようになっていた。

 ぬるい風に、街に染み付いた饐えたような臭いと、ガットギターの憂愁な旋律が絡まる。内容までは聞き取れないが、近所の主婦が暗い往来で話し込む声も聞こえる。イタギリの外の喧騒は林立するビルの群れに遮られ、晴史の耳までは届かない。

 晴史は街の外に広がる世界を知らない。ゴミ屋の仕事の折にほんの一、二歩、中と外との境界を跨ぐくらいなものである。幹線道路を隔てて広がる外界は、イタギリで生まれ育った晴史にとっては遠い異世界であった。

 文字を追う頭の中に、腐乱死体を前に青い顔をした樹戸の細面が割り込んでくる。

 ――あの人は、外の世界を捨ててまで、どうしてこの街へ来たんだろう。

 晴史は本を閉じ、湯気を吐き出す鍋の様子を窺いにコンロの前へ戻った。

 その日の煮込みは中々の出来栄えだったが、晴史が起きている間に父がそれに箸を付けることはなかった。








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