正しい街

卯月

〈正しい街〉

   シーサイドももちをテレビで見るたびにああ、遠くまで来たなと思う


 窓の外を見ると、ちらちらと雪が舞っていた。そろそろ、夜間の水道管凍結の心配をしないといけない時期になったな、と侑子ゆうこは憂鬱になる。単純に気温が低いことや、雪が積もったら雪きしないと外出できないことには慣れてきたが、寝る前に蛇口を開いて水抜きしなければならない、という感覚が未だに身につかない。

 生中継しているテレビの中では、福岡ふくおか国際マラソンの号砲が鳴り、選手たちが舞鶴まいづる公園内の平和台へいわだい陸上競技場から、勢いよく一般道へ飛び出して行った。真上で選手の頭を捉えていた空撮カメラが引いていくと、画面一杯に広がる福岡市の風景。冬っぽい曇り空、ビル街の背後にヤフオクドームと福岡タワーが見えた。ああ、あの辺がシーサイドももち。

 あれは――侑子が、〈ラプンツェルの魔女〉に育てられ、棄てた街。


   プロポーズからウェディングの間って、実はあんまり幸せじゃない


 他市で一人暮らししつつ大学を卒業、就職。職場で知り合い交際していた相手から結婚を申し込まれ、二人で一緒に、福岡の侑子の実家へ挨拶に行き――それからのことは正確に思い出せないし、思い出したくもない。

 婚約者も同席していたその場では、理解のある態度を示していたのに。一人暮らしのアパートに次々送られてくる手紙、メール、電話では、重箱の隅をつつくようにして彼の欠点をあげつらい、無闇に侑子を褒め、自分自身の結婚後の苦労を語り、子供が近くにいなくなるのは寂しいと嘆く。当初、真正面から受け止めて対応していた侑子はそのうち、街を歩く親子連れを意味不明なことを叫びながら殴りたい衝動に襲われるようになった。

 ちょうどその頃に読んだ、ソ連末期の大量殺人犯のノンフィクションでは、犯人が「四六時中イライラし、人が天気のことを話しているのを聞いても腹が立ってきます」と供述していた。あれほど、殺人犯の気持ちに共感できたことはない。

 それでも、何とか承諾を得たいと願い、再度二人で訪ねたいと連絡したのだが。「来るな」という主旨の手紙を、婚約者実家宛に送り付けられたのが決定打だった。

 有体ありていに言えば、諦めた。

 ――諦めてしまえば世界は、何もかも嘘だったかのようにいで、とても平穏だった。


   一人なら帰っておいで二人なら来るなと言われ棄てた故郷よ


 親に祝福されて結婚したい、というささやかな希望は、もはや不可能。

 だから侑子は、自分の認識のほうを、書き換える。

 生物学的に血は繋がっているし、高校卒業まで一緒に暮らしたのだから社会通念上も、もちろん戸籍上も間違いなく親子だろう。

 でも私は――あの女性を、〈親〉だと認識しないことに決めた。そうすれば、祝福されなくても、何も問題はない。

 侑子は以来、自分を〈子〉の立場に置いた場合に限り、〈父〉の対義語に当たる漢字一文字を書いたりタイプしたりしようと思っただけで吐き気がし、指が拒絶する。

 多分、私は木の股から生まれたのだろう。それとも、瓜から生まれた瓜子姫だろうか? そんな風に自分のキャラクター設定を考え始めると、ちょっと楽しい。


   ディアスポラ帰る場所などないのです長い冬ならここにあります


 式も挙げず、ウェディングドレス姿の写真だけ撮って結婚。夫の転勤に伴ってやってきたのは、夫の地元に近い北国だった。

 福岡に住んでいた頃は、朝起きたときの室温がプラス五度でも「寒い」と文句を言っていたのに、ここの一月二月は真冬日が当たり前。日中の気温がプラスになると、「今日は温かいですね」と会話が交わされる。

 そんな日は歩道の端を歩く際、上に注意しなければいけない。道路脇の建物の屋根にぶら下がった氷柱つららが緩んで、頭に降ってくるから。という話にカルチャーショックを受け、自分の北国レベルはまだまだだ、と思う。


 学生時代、友人に、椎名しいな林檎りんごの『正しい街』という曲を教えられた。恋人と別れ都会へ出た女性が、故郷と君が正しかった、と歌う内容だ。曲自体は好きでも嫌いでもないが、歌詞に百道浜ももちはま室見川むろみがわという福岡市内の地名が出てくることに驚いた。同窓ではないけれども、かなり出身校が近いらしい。


   百道浜も室見川もないこの街で椎名林檎を独りで歌え


 ――大濠おおほり公園。唐人町とうじんまち西新にしじん藤崎ふじさき。室見。

 マラソン中継に映る、選手たちが一瞬で駆け抜けていくあの全てを、侑子は知っている。

 大濠公園には、小学校の遠足で毎年のように行った。唐人町はドームへの玄関口。西新から藤崎までの商店街は庭みたいなものだったし、室見川では何度も土筆つくしを採ったことがある。

 でも、あれはテレビの中だけの世界だ。飛行機や新幹線に乗れば到達できる、実在する土地であることは承知している。しかし、侑子にとっては二度と足を踏み入れることのない、異世界よりも遠い場所なのだ。〈二人〉であると定義したあの瞬間から、〈故郷〉はもう、存在しない。


 これから長い冬に閉ざされる、今は、ここが私の〈正しい街〉だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

正しい街 卯月 @auduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ