第3話 ハッピーエンドが崩壊する

 カオス・ゴッドマザーの屍が、レイナによる調律を受けて光に包まれ、本来の姿に戻ってゆく。

「やれやれ……とんだ化け物を引き当てたもんだね、お前さんたちも」

 フェアリー・ゴッドマザーが、よろよろと身を起こし、苦笑する。

「一体、詩晶石を何百個使ったんだい」

「そんな事よりも。この想区で一体、何が起こっているのか教えて下さいませんか」

 レイナは訊いた。

 シェインは無言で、フェアリー・ゴッドマザーに鋭い視線を向けている。

 タオは、エクスを抱き起こしている。

 エクスは、気を失っている。

「別に……起こるべき事が、普通に起こっているだけさね」

 フェアリー・ゴッドマザーが言った。

「あたしがカオステラーになっちまって、ヴィランどもが大暴れをする……いつも通りの事じゃあないか」

「貴女は、私が調律を……」

 自分の声が震えるのを、レイナは止められなかった。

 今まで見て見ぬ振りをしていたものを、正面から見据えなければならないのか。

 正面から向き合ったところで、しかし一体どうなると言うのか。

「想区では、同じ事が無限に繰り返される……」

 フェアリー・ゴッドマザーが笑っている。暗い笑顔だった。

「試しにアラジンの想区へでも行ってごらん。あのかわいそうなアラジンが、またお前さんを庇って命を落としちまうだろうよ。そして、あんた方は皇帝と戦う事になる」

「姉御が調律したはずの皇帝と、ですか」

 シェインが、ついにそれを口にした。

「調律が……まるで無かった事になってると?」

「想区ってのは、どこもそうさ。お前さんたちが出て行った瞬間、何もかもが元に戻っちまう……あたしも、ジョン・シルバーも赤ずきんも、桃太郎ん所の爺婆もね、みぃんなカオステラーに戻っちまうのさ」

 お前のした事には、まるで意味がない。

 調律の巫女とは、全く無意味な存在である。

 レイナは今、そうはっきりと告げられたのだ。

「……私は……何……?」

 レイナは、自力で立っていられなくなった。細い身体がよろめき、ぶつかるようにして大木にもたれかかる。

「私の、した事……全然、意味がない……調律の巫女って一体、何なの……? ねえ……」

「姉御、しっかりして下さい」

 シェインが駆け寄って来てくれた。

「自分のした事に意味があるかどうかなんて、そんなすぐにわかるもんじゃないですし自分で決める事でもないです。こんなお婆ちゃんに何か言われて決まるようなものでもないでしょう! 勝手に結論を出さないで下さい姉御!」

 懸命に、自分を慰めようとしてくれている。シェインの、気持ちは伝わって来る。だが言葉は、右の耳から左の耳へと、レイナの頭を素通りして行く。

「シンデレラは……」

 意識のないエクスを抱き起こしたまま、タオが呻く。

「何で、あんなふうになっちまった? 同じ事が繰り返されてるって割に……あの変わりようは、ひど過ぎねえか。くそったれな継母どもの虐めが、エスカレートしてやがんのか」

「同じだよ。あの継母たちも、ただ己の運命の書に従って、シンデレラを虐めてるだけさ。それが軽くなったり酷くなったりはしない」

 フェアリー・ゴッドマザーの口調に若干、哀れみのようなものが宿ったようだ。

「シンデレラの方が、いつも通りの虐めに耐えられなくなっただけさ。そう、あれは弱い娘だよ。自分の運命を変えて見せる、なぁんて言ってたみたいだけど……それが出来たのはね、いつも傍で支え励ましてくれる友達がいたからさ。だけどその友達は、この想区を出て行ってしまった」

 タオの腕の中で気を失っている少年に、フェアリー・ゴッドマザーの眼差しがじっと向けられる。

「結果、支えを失ったシンデレラは、あの様だよ……運命の書を持たない坊や。お前さんはね、ここを出て行くべきではなかったのさ。無限に繰り返される物語の中で、シンデレラを励まし支え続ける。それが、どこにも記されていない、お前さんの役割だったんだよ」

「代わりがいるはずだろ……!」

 タオの呻きが、怒声に変わってゆく。

「桃太郎だって、そうだった! 誰かがいなくなりゃあ代わりがどっかから湧いて出て来る! 想区ってのぁそーゆうモンじゃねえのかおい! エクスの代わりだって」

「タオ、それにシェインとか言ったね。桃太郎の想区へ1度は里帰りしたんなら、わかるだろう? あんた方の代わりはいたかい? いなかったろう。空白の書の持ち主に、代わりはいないんだよ」

 フェアリー・ゴッドマザーが、何やら重要な話をしているようではある。しかしレイナの心には入って来ない。

「さて、と……お前さん方にも、あたしにも、ここでやる事なんて何もないよ。おいとまさせてもらおうかねえ」

「……どこへ行く、フェアリー・ゴッドマザー」

 エクスが、いつの間にか目を覚ましていた。

 少年の細身が、タオのたくましい腕の中から起き上がる。

「貴女には、ここでやらなければならない事があるはずだ」

「……シンデレラの事かね」

「彼女を助けるのが、貴女の役割だろう」

「無理だね。あたしの力じゃ、今のあの子を助けてやる事なんて出来ないよ」

 フェアリー・ゴッドマザーが、暗く微笑んだ。

「あたしの魔法はね、自分の運命を変える気概に満ちたシンデレラだったからこそ効いたのさ。その気概を持つ事が、あの子に出来たのは……傍に、お前さんがいたからだよ。だけどね、あんたはいなくなってしまった」

「僕の……」

 エクスが、苦しそうな声を発している。

「せい……なのか……」

「今からでも遅くはない。シンデレラのために、お前さんがしてやれる事……1つだけ、あるはずだよ」

 その1つが何なのかを言わぬまま、フェアリー・ゴッドマザーが杖を振りかざす。

「本当に、おいとまさせてもらおうかね。明日の舞踏会までに、シンデレラの代役を探さなきゃなんない……あたしを2度も元に戻してくれた事には、礼を言っておくよ。これが最後になるかも知れないからねえ」

 謎めいた言葉と、鱗粉のようにキラキラと舞い散る光を残して、フェアリー・ゴッドマザーは姿を消した。

 彼女の言う『シンデレラのためにエクスが出来る、ただ1つだけの事』とは一体、何なのか。レイナには、わからない。

 ただ、エクスを羨ましいとだけは思う。

 誰かのために出来る事など、自分には何もないからだ。

(私は、調律の巫女……この世で一番、無意味で役立たずな存在……)

「お嬢……」

 タオが、何か言おうとして俯いた。かける言葉が見つからない、といった様子だ。

 自分が、シェインにもタオにも心配をかけている。それをレイナは、頭では理解していた。

 誰かが、おずおずと声をかけてくる。

「あ……あのう……」

 レイナたちを泊めてくれている民家の、主人だった。

「あんたたち……強い人だったんだな。化け物どもを、やっつけてくれて、ありがとう」

「……俺たちが強いんじゃねえよ」

 俯いたまま、タオが応える。

「で……何か用かい、おっさん」

「……すまない……本当に、すまない……」

 主人が、いきなり土下座をした。

「シンデレラが……」

 その名前が出た瞬間、エクスの顔つきが変わった。

 本当にエクスなのか、と思えるほどに。

「あんたたちが戦ってくれてる間……あそこのカミさんが、うちに来たんだ。シンデレラを返せって、ものすごい剣幕でな。匿ってるって事、誰かが告げ口したらしい」

「……で、差し出しちゃったと。シンデレラさんを」

 シェインが言った。

「しょうがありませんよね。それ系のオバサンには、なかなか逆らえませんから」

「本当に……すまない……」

 謝罪の言葉も聞かず、エクスが駆け出していた。

 その顔を見た瞬間レイナは、彼がこれから何をしようとしているのかを理解した。

 エクスは今、カオステラーよりも禍々しいものへと変わりつつある。

 だが、レイナに出来る事など何もない。

 自分はこの世で、最も無意味な存在なのだから。

「おい……まて、坊主!」

 タオが、エクスの腕を掴んだ。

「駄目だ……気持ちはわかるけどよ。それだけは、やっちゃならねえ……」

「タオ……僕を、殺して……」

 エクスの言葉と共に、闇が生じた。

 彼の『空白の書』から、闇が溢れ出していた。

「殺さなきゃ……僕は、止まらない……ッ!」

 質量を有する暗黒が、タオを吹っ飛ばした。

 エクスの『空白の書』が、少年の手を離れて宙に浮いている。

 そこから溢れ出した闇が、人影に変わりつつあった。

 黒髪を、蛇の如く揺らめかせる人影。真紅の眼光が点り、タオを、シェインを、レイナを射竦める。

「……行け、少年」

 絡み合う蛇のような筋肉を全身で引き締め隆起させた男が、己の脇腹から剣を抉り出しながら言う。

「お前がずっと望んでいた事……今こそ、成し遂げる時だ。シンデレラを奪え、少年よ」

 エクスが、走り去って行く。

 追おうとするタオとシェインを阻む格好で、その男は立っている。凶猛なほどに力強い全身を勾玉で飾り立て、自身の体内から取り出した長剣を構えている。

 エクスを乗っ取っていた男が、エクスの肉体から離れ、存在しているのだ。

「そんな馬鹿な……」

 タオを助け起こしながら。シェインが呻く。

「英雄の魂が……それ、そのものの状態で実体化するなんて……」

「……どこの想区に……居やがるのか、知らねえが……」

 タオが、よろよろと身を起こす。

「……とにかく本体が、よっぽどのバケモノなんだろうぜ……」

 それだけではない、とレイナは思う。

 どこかの想区に居る何者かが、己の魂の一部を、今まではエクスを通じて出現させていた。今は、媒介を必要とせず、そのまま存在させている。

 協力者がいる、とレイナは思った。恐るべき魔力を持った、協力者が。

 そう思ったところで、しかし今レイナに出来る事など何もない。

(私は……この世で一番、不必要な存在……)

「貴様たち、あの少年を止めようとするのか……少年の、足枷となるつもりか」

 男が言った。

「ならば……ここで、死んでもらう事になる」

 それは、死刑宣告にも等しい言葉だった。

 これまで無数のヴィランを粉砕してきた力が今、タオに、シェインに、レイナに、向けられようとしているのだ。

(殺される……)

 ぼんやりと、レイナはそう思った。

 調律の巫女。この世で、最も意味のない存在。

 言わば、死人のようなものだ。

 ここで殺され、想区の土になってしまうべきなのかも知れない。

 自分は、それで良い。だがタオとシェインは。

 いつの間にか、2人の姿が消えている。

 代わりに、ハインリヒとラーラがそこにいた。2人してレイナを庇う格好で、男と対峙している。

 ラーラの中から、シェインが声を投げてくる。

『姉御……!』

『やめとけシェイン……お嬢にはな、今ちょいとばかり時間が必要なんだ』

 ハインリヒの中で、タオが言う。

『俺たちに出来るのは、その時間を稼ぐ事……!』

 楯と槍を構え、男に向かって猛然と踏み込んで行くハインリヒ。

 援護すべく、杖の先端から雷球を速射するラーラ。

 いかなる戦いが繰り広げられているのか、レイナにはわからなかった。ただ呆然と見つめるだけで、心にとどめる事は出来なかった。

 1つだけ言えるのは、それが戦いなどと呼べるものではないという事である。

 戦いではなく、一方的な暴虐であった。

 気がついたら、ハインリヒもラーラもいない。

 シェインが、倒れている。

 タオが、宙に浮いている。

 その首を、男の左手が掴んでいる。締め上げている。

 人間の皮膚をつまんで引き裂いてしまえそうな五指がタオの頸動脈を、気管を、首筋肉を、脛骨を、容赦無く圧迫している。

「貴様たちが死ねば……あの少年は、いよいよ止まらなくなる……」

 左手1本でタオを宙吊りにしたまま、男は言った。

「全ての想区を縛り上げる、ハッピーエンドという名の呪縛を……1つ残らず、断ち切るまで……」

 男が何を言っているのか、レイナにはわからない。

 わかるのは、タオもシェインも今はまだ辛うじて生きている、という事だ。

 英雄の魂は、戦いに倒れて消え失せたとしても、次の戦いでまた召喚する事が出来る。

 だがタオもシェインも、無論レイナやエクスもだが、戦いに敗れて死んだら生き返る事など出来ない。

 タオが、何か叫んでいる。悲鳴か、怒号か。

 何にせよ、気管や頸動脈もろとも声帯を締め上げられているので彼は今、声を発する事が出来ない。地面から離れた両足を、じたばたと暴れさせるだけだ。

 その暴れ方も、次第に弱々しくなってゆく。

『逃げろ……と言っておるのう。あやつは』

 声が聞こえた。

 姿なき魔女が、声をかけてくる。レイナの『空白の書』の中からだ。

『逃げてはどうじゃ、調律の巫女よ。逃げても恥にならぬ相手というのは、間違いなくおるでな……あれはまさしく、それに該当しまくった化け物じゃよ』

「シェリー・ワルム……」

 レイナは呆然と、会話の相手をした。

「お願い、私を……調律の巫女と、もう呼ばないで……調律なんて全然、出来ていないんだから……」

『ふむ。ではのう、おぬしが調律の巫女、ではない単なる小娘であるとして……どうじゃ。これまでの旅の道中、何も得ず何事も為してはおらぬか?』

 シェリーが、わけのわからぬ事を言い始める。

『調律の巫女ではない、おぬし自身には……何も、出来ぬかのう?』

「当たり前でしょう……私なんて、何も……」

『よく見ろ、そして考えるのじゃ』

 何を見ろ、とシェリーは言っているのか。

 タオとシェインが殺されかけている、目の前の光景をか。

『調律の巫女、ではない単なる小娘よ。おぬしには本当に、何もないのか? 今まさに失われんとしているものが、おぬしには無いのかのう?』

「タオ……」

 常日頃、大きな顔で勝手をしている男が今、宙吊りになっている。このまま彼が絞め殺され、あるいは首の骨を折られてしまえば、レイナとしては清々するのだろうか。

「シェイン……」

 鬼族の少女は意識を失い、倒れている。頭から、血を流しているようだ。

 タオが死ねば、彼女も殺される。もはや時間の問題であろう。

「エクス……」

 あの少年は、去ってしまった。今から追いかけて、連れ戻せるかどうかはわからない。

 連れ戻して、どうするのか。

 調律の巫女などと呼ばれ、いい気になっていただけの愚かな小娘の傍に、連れ戻される。それがエクスにとって、いかなる益となるのか。

 レイナには、わからない。

 わからない事を考える前に、しかし身体が動いていた。『空白の書』を、掲げていた。

「……タオを、放しなさい」

 そんな言葉が、口から出ていた。

「もう、調律なんてどうでもいいわ。意味がないから……それより私には、守らなきゃいけないものがある」

「……お……嬢……」

 血を吐きながら声を発するタオの身体を、片手で吊り上げたまま男が言った。

「全てを捨てて、仲間を守る……か。悪くはない。だが小娘、貴様にそれが出来るか?」

 蛇の如くうねる黒髪がもたらす陰影の中、真紅の眼光が禍々しく燃え上がってレイナに向けられる。

「女だとて容赦はせぬ。俺にとって、守り慈しむべき女は1人しかおらぬゆえな」

 左手でタオを捕えたまま、男が右手で、威嚇の形に剣を振るった。絡み合う蛇のような筋肉が、凶猛に躍動する。

 蛇だ、とレイナは思った。

 この男は、蛇なのだ。様々な物語において、邪悪なるものでも神聖なるものでもある存在。

 邪悪なもの、神聖なるもの。ストーリーテラーによって負わされた、そんな役割を、この男は全てかなぐり捨てようとしているのだ。

 そして、己の道を行こうとしている。

「行きたければ、勝手に行けばいいわ……とにかく、タオを放しなさい」

 空白の書から、光が溢れ出す。

 その光が、レイナの全身を包み込む。

「タオを、シェインを、エクスを……傷つける事は、許さない」

「傷つきはせんよ、あの少年はな」

 男は言った。

「少年もまた、己の道を行く。ただ、それだけだ。貴様もそうか? 小娘よ」

「私の、道……調律の巫女としての生き方に、意味はなかった……としても!」

 光の中でレイナは、シェリー・ワルムに変わっていった。

 否、シェリーではない。

『その道の途中で、私が手に入れたもの……守ってみせる、絶対に!』

「……1度だけ、じゃぞ」

 今までシェリー・ワルムという小さな存在であったものが、光の中から、その正体を露わにしていた。

「おぬしがの、その心を失わずにおれるなら……わしは今、1度だけは、こうして力を貸してやれる」

「む……貴様」

 男が、タオの身体を物のように放り捨てた。

 空いた左手が、力強い五指を鉤爪の如く曲げた状態で、こちらに向けられる。

 その左手から暗黒が発生し、猛々しくうねり狂い、闇色の大蛇の群れとなった。

 そして、襲い来る。ひと暴れでヴィランの大群を掃滅する黒い蛇たちが、今までシェリー・ワルムであった1人の魔女を粉砕せんと猛り迫る。

「無駄じゃよ……今のおぬしに、わしを倒す事など出来はせん」

 魔女が、その優美な細腕を軽く掲げる。

 それだけで、暗黒の蛇たちは砕け散った。

 目に見えぬ、強大な力が迸っていた。

「おぬし本人であればともかくじゃな。己の分身を、遠く離れたこの想区に、しかも憑代なしに無理やり存在させておる。そんな状態で、わしに勝つなど……いくらおぬしでも、さすがに無理じゃて」

「うぬっ、貴様……俺の邪魔を……ッ!」

 目に見えぬ力が、男の身体を貫いていた。

 絡み合う蛇のような筋肉が、ちぎれ飛んだ。力強い肉体が、幻影の如く薄れ消えてゆく。

 そんな状態でありながら、男はニヤリと笑っているようだ。

「……いや。我が事は、すでに成った……」

「ふむ……そのようじゃな」

 魔女が、空を仰いだ。

「少し……ほんの少しばかり、遅かったようじゃ。が、調律の巫女ではない小娘よ。おぬしの仲間は助かった、今はそれで良しとしておけい」

『何を……言っているの……』

 魔女の中で、レイナは言った。

『遅かった、って……』

「まだわかるまい。が、すでに始まっておる……想区の、崩壊がのう」

「……よくやった……少年……」

 男が、消滅してゆく。満足げな言葉を残しながらだ。

「全てのハッピーエンドが……これで、消滅する。だが少年よ……お前はな、自分だけのハッピーエンドを手に入れたのだ……そして……我々も……」



 タオもシェインも、レイナの治療魔法で辛うじて一命を取り留めた。

「……助かりました、姉御」

 まだ痛みは残っているのか、側頭部を軽く片手で押さえながら、シェインが言う。そしてタオも。

「ったく……立ち直んの早すぎだぜ、このお嬢はよ」

 苦笑しつつ、喉を押さえる。声がまだ、いくらか嗄れていている。声帯を気管もろとも潰される寸前だったのだ。

「ま、でも……ありがとよ」

「そんな事よりも!」

 レイナも、タオもシェインも走っている。

 目の前に迫るは1軒の民家。

 もう遅い、とタオは思った。扉を開けるまでもなく、血の臭いが漂い出している。

 それでも、扉を開けた。

 思った通りの光景が、そこにあった。

「坊主……」

 声をかける。

 エクスは答えず、立ち尽くしている。赤黒く汚れた剣を右手に持ち、幽鬼のような少女を左腕で抱き支えながら。

 家の中は、血の海だった。

 屍が、いくつか転がっている。

 性別もよくわからぬほどに切り刻まれているが、どうやら全て女性だ。

「最初から……」

 己が作り出した、その光景を眺めながら、エクスは呟いた。

「……こうしていれば、良かったんだ」

「お前……!」

 タオはそこで、言葉を飲み込んだ。

 この少年を責める資格は、自分にはない。自分なら、これをせずにいられたのか。

「…………ま、やっちゃったものはしょうがないです」

 シェインが言った。

「新入りさんがやらなくても、シェインがやってたかも知れませんから……これも1つのハッピーエンドって事で。とっととずらかりましょう、官憲の兵隊さんとか来る前に」

「僕は……もう、みんなと一緒には行けない……」

 返り血まみれの顔が、向けられてくる。

「僕には、もう……そんな資格がない」

「……何、言ってやがる!」

 タオは激昂した。思わず、拳を振り上げてしまうところだった。

 それが止まったのは、幽鬼のような少女がエクスにすがりつき、囁いているからである。

「……ありがとう……私を、助けてくれて……」

「……ごめん、シンデレラ。もっと早く、こうしていれば……」

 まるで餓死者のように軽い少女の身体を、エクスが両腕でふわりと抱き上げる。

「タオ、シェイン……レイナ……ごめん、今まで本当にありがとう」

「エクス……」

 レイナが、呆然と呻く。

 その面前をエクスが、シンデレラを抱き上げたまま通り過ぎる。

「僕はこれから、シンデレラ1人だけを守って生きる……シンデレラ1人のためにしか、もう僕は生きられないから」

「…………」

 シェインは無言だった。家を出て行くエクスとシンデレラを、何も言わずにじっと見送るだけだ。

 タオとて、今のエクスにかけられる言葉など何もない。

 だが追いかける事は出来る。肩を掴み、引き止める事は出来る。

 駆け出そうとしたタオの眼前に、いつの間にか2人の少女が立っていた。

「……追わずにおいてやってはくれぬか。あの2人は今、とても幸せなのだ」

「とっても、幸せ……2人とも、とっても綺麗な魂の色……」

 エクスの持つ『導きの栞』、その表裏を埋めていた2人の英雄。鬼姫と、モイラである。

「桃太郎の想区も、すでに崩壊を始めている。もしかしたら……鬼と人間が争わずにいられる世界として、再生出来るかも知れない。それに桃太郎だって」

「生き返るかも知れねえ、か……!?」

 タオは思わず、鬼姫を睨みつけた。

「だとしてもな、そいつはもう俺の知ってる桃太郎じゃねえんだよ」

「死んだ人は、何やっても生き返らないんです鬼姫様」

 シェインが言った。

「いなくなった人の代わりが、簡単に湧いて出て来るこの世界……崩壊して造り変わっちゃうのは、悪い事じゃあないのかも知れませんね」

「……軽々しく桃太郎の名前を出して、すまなかった」

 鬼姫が、うなだれるように一礼した。

「同じ事が無限に繰り返される、この世界の理が今、崩壊しつつある。今後、何が起こるか全く想像もつかない……貴公らは、それに備えて欲しい。私たちは」

 遠ざかって行くエクスの背中を、鬼姫がちらりと見やった。

「……あの2人を、守らなければならない」

「2人の魂、とっても幸せでとっても綺麗……とっても、欲しい……」

 幽霊のような軽やかさでフワリと身を翻し、エクスを追いかけようとするモイラ。

 その首根っこを、鬼姫が掴み捕えた。

「……このような者どもから、エクスとシンデレラを守らなければならない」

 ふわふわと暴れもがくモイラを捕えたまま、鬼姫はこちらに背を向けた。

「いつか貴公らと、再び出会う時のために……な」

 2人の少女が、一瞬の光の煌めきと共に姿を消した。

 シンデレラを抱いたエクスの後ろ姿も、もはや見えない。

 レイナが、呟いた。

「私が……私が、もっと早く……」

「姉御のせいじゃありません。もう少し早く、ここへ来ていたとしても……新入りさんを止める事は出来なかったでしょう」

 タオ・ファミリーからの脱退者となった少年を、しかしシェインはまだ新入りなどと呼んでいる。

「それより問題は、鬼姫様も言ってましたけど、これから何が起こるかです」

「想区の、崩壊……か」

 タオは空を見上げた。

 目に見える変化は、まだ何も起こってはいない。

 とにかく、ここ『シンデレラの想区』で繰り返されていた1つの物語は、終わりを告げた。

 シンデレラは王子様ではなく、モブに過ぎなかった1人の少年と結ばれたのだ。

 それは確かに、想区の崩壊、と言うべき事態なのかも知れなかった。



「狸も、猿も狼も、皆……貴方に、感謝していますよ」

 ちびちびと酒杯を傾けながら、ロキは言った。

「特に狼など、仔豚の兄弟とは仲良くしたいと言っていましたからね」

「食う側の者と食われる側の者が、仲良くか。上手くゆけば良いがな」

 男は、ぐいと大杯を干した。

 絡み合う蛇のような筋肉を力強く引き締め隆起させた全身に、程良く酒気が行き渡る。

 ここは、男が主神として祀られている神殿だ。神殿であり、居城である。

 この想区の民は、男を『荒ぶる水の神』として崇め畏れているのだ。

「食う者、食われる者、と言えば……」

 ロキが、興味深げに言った。

「生け贄として差し出されてきた7人の乙女たちを、貴方は丁重に送り返してしまわれたそうですね?」

「俺が欲しいのはクシナダ1人だ。他の女は要らぬ」

 言いつつ、男は大杯に酒を注いだ。手酌である。

 酌をさせるなら、クシナダ姫に。そう決めているのだ。

「妹の身代わりに、などと悲壮な決意を固めていた娘もいたが……俺は、人の肉など食わん。この想区の人間どもはな、一向にそれを理解しようとせんのだ」

「人を食らう怪物。それが貴方の、今までの役割でしたからね」

 7人の乙女を食い殺し、最後には英雄神に退治される。その繰り返しを、ずっと強いられてきた。

 ハッピーエンドのために、悪虐な行いを強いられる。その点において男は、狸や猿や狼それにシンデレラの継母・姉たちと同じであった。

「貴方が、生け贄を紳士的に送り返してしまった……その時点で、この想区におけるハッピーエンドは失われました」

 ロキが言った。

「悪しき怪物として貴方が退治される理由は、なくなってしまったのですからね」

「だが奴は来る。俺から、クシナダを奪うためにな」

 男は大杯を傾け、一気に酒を呷った。

「ロキよ、貴様には世話になった。だがな、この戦いを手伝ってもらうわけにはゆかぬ……奴は、俺が倒す」

「でしたら、お酒は程々に。酔っ払って不覚を取るようでは、これまで繰り返されてきた物語と同じですよ」

「……心しておこう」

 男は、大杯を置いた。

 ロキが、立ち上がった。

「私も、忙しい身になってしまいましたからね。お暇させていただきます」

「そうか、忙しいか」

「貴方と、それにあの少年のおかげですよ。様々な想区で、ここと同じような事が起こっています。花咲爺の犬は殺されずに済みましたし、白雪姫は毒リンゴを見破ってしまいました。彼女は今、小人たちを味方に、王妃との直接対決に臨もうとしています。ストーリーテラーの紡いだ物語が、ことごとく破綻をきたし……あらゆる想区が、崩壊を始めているのですよ」

 モブでしかないはずの少年が、重要人物を殺害してヒロインを奪い去る。

 あらゆる物語の崩壊、その発端となる大破壊を、あの少年は成し遂げてくれたのだ。

「何もかも貴様の目論見どおり、というわけか? ロキよ」

「……あの大魔女の出現だけは、想定外でした」

 ロキの端正な顔が、いくらか険しい緊迫感を帯びた。

「まさか彼女が、一時的にせよ力を取り戻すとは」

「俺の魂のほんの一部を、貴様の力でどうにか他の想区に現出させただけ……とは言え俺の分身を、あっさりと始末してくれたな」

 興味深い存在、ではあった。

「あれは一体、何者なのだ?」

「彼女に関しては我々も、多くを掴んでいるわけではありません。恐るべき相手である、とだけは申し上げておきましょう」

 言いつつロキが、ふわりと優雅に背を向けた。

「想区という、この世の理は崩壊し、人々は役割を失ってしまいました。今後、何が起こるかは我々でも予測不可能……彼女が完全に復活し、貴方の敵として現れる。それも充分に起こり得る事態です。どうか御用心を」

「俺と貴様たちが敵対する事もあり得る、というわけかな」

 その言葉には応えず、ただ微笑み、軽く片手を上げながら、ロキは立ち去った。

 男は、じっと見送った。

 蛇の如くうねる黒髪が顔面に陰影を落とし、その闇の中で真紅の眼光が灯っている。

 赤く禍々しく輝く両眼が、陰影の中で、ぽろぽろと涙を流しこぼした。

「……良かった……良かったなあ、少年よ……」

 ストーリーテラーの定めたハッピーエンドが、失われた。

 あの少年は自力で、自分だけのハッピーエンドに到達したのだ。

「……負けてはいられぬ……この俺も」

 溢れる涙を蒸発させるかの如く、真紅の眼光が燃え上がった。

 間もなく、あの神が高天原を追われ、天下って来る。天津神々の中で最も凶猛なる暴虐神が。

「俺から……クシナダを、奪うために」

 ストーリーテラーによる筋書きが全て崩壊し、人々は自力で己のハッピーエンドを掴まなければならなくなった。

 あの少年は見事、それを成し遂げたのだ。

 自分も、己の力のみで、あの荒ぶる暴神を斃さなければならない。

「あてがいもののハッピーエンドは、もはや失われた。鬼は桃太郎に勝ち、悪しき竜はジークフリートを食い殺し、弁慶は牛若丸を叩き潰し……そして俺は貴様を討ち果たすのだ、スサノオノミコトよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ガラスの靴が砕け散る 小湊拓也 @takuyakominato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ